第4話

「よう、邪魔するぞ」

「邪魔じゃないさ。歓迎するよ」


 高校入学から半月すぎた頃、部員の三人しかいない科学部に入部した白衣を羽織る遼太郎の元へ、空路は訪れていた。


 遼太郎を入れて今現在は四人となった科学部だが、二人は受験準備に入りほぼ来なくなった三年、もう一人は化学室の端っこで珈琲を飲みながら本を読む二年の先輩、担任の先生は月一のレポートさえ出していれば特に何も言うことは無いため、部外者の出入りも自由。

 その為に空路は今日、ここへ遊びに来ていた。


「で、今日はどうしたんだい?」


 よくドラマ等で見る実験器具で珈琲を入れるヤツを手馴れた様子でやる遼太郎は、今日の訪問の訳を空路に聞いた。


「前に後ろから視線がするって事あっただろ」

「あぁ、結局君が標的だったあれか……でも最近は鳴りを潜めていたはずでは?」


 遼太郎の言う通り、あれから空路の元にのみ毎日ではないが下校の時にだけ背後から視線を感じる事があったのだが、最近はそれもすっかりと鳴りを潜めていた。


「いや、また出没した訳じゃなくて。実はあれの正体が分かってな……」

「ほう」


 思わず手を止めて空路の方を振り返る遼太郎に空路は苦笑いを浮かべながら、一つ深呼吸をしてからゆっくりと口を開いて本題を話す。


「あれ、うちのクラスの雪城、雪城咲夜だった」

「……は?」


 予想外のビッグネームに、遼太郎は思わず珈琲を淹れる手を止めて目を丸くした。


「え、何故、接点有ったっけ君達」

「いや、そういう訳じゃないんだがな……」


 遼太郎が訝しげな視線を送りながら持ってきた珈琲を一口含んでから、向かいに座る彼に事のあらましを説明すべく空路は口を開いた。



 ◇



 遡るは数日前。

 怠惰な授業を受け、昼をいつもの場所で食べ、帰れば家で妹と特に盛り上がりに欠ける空間で過ごす毎日を送っていた空路のある日の事。


 今日は朝から移動教室があり、空路も教室で授業に必要なものだけ纏めるとその教室へと向かった。

 教室は、二階にある渡り廊下を渡って階段を上がった場所にある科学室。

 空路が科学室がある階への階段を登ろうと廊下を曲がった時、勢い良く飛び出してきた人物と正面からぶつかってしまった。


「きゃっ……」

「あ、おい!」


 空路と衝突してしまった人物は雪城だった。

 彼女は後ろに足を踏ん張った事でぶつかった衝撃で尻餅はつかなかったが、不幸な事にそのまま後ろにたたらを踏んで階段を踏み外す。

 空路は咄嗟に雪城に伸ばされた手を掴み、ぐいと引き寄せた。

 彼女のしなやかな体は軽く、特別鍛えてもいない空路の筋力でも何とか彼女が階段に頭から落ちるという最悪の事態は免れた。


「はぁっ、助けて頂いてありがとうございます」

「あぁ……こっちこそ悪かったなぶつかって」

「いえいえ、急いで前方を確認していなかった私に責がございますから」


 そう言って被りを振る雪城に、空路は怪我をしなくてよかったと内心ドッと安堵の息を吐いた。

 その心配も、あくまでもこの状況でカースト上位の彼女が階段から落ちて怪我をしたなんて事があれば学校で自分は居心地が悪くなるだろうという、空路の保身的な考え故の安堵の息だが。


「あの……そろそろ手を離してもらっても?」

「いやっ、あの、ホント悪い」


 無駄に警戒した後の安堵による気の緩みのせいか、空路は彼女の手を握りっぱなしにしている事が完全に思考から抜けていた。

 空路が慌てて手を離すと、雪城はクスクスと上品に微笑みながら「授業、遅れてしまいますよ」とだけ言ってそそくさと階段を上っていった。


「……妙だな」


 階段を上がっていく彼女の後ろ姿を眺めながら、空路から出たのはそんな言葉。

 女子の手って柔らかいだの、女子って何か甘い香りがするだの、笑った雪城咲夜は可愛いだのという男子高校生ならば先ず出てくるであろう感想より先に、空路は疑念という感情をポツリと呟いた。



 午前中の授業を終えて、いつもの場所とは違う空き教室で昼食を摂る空路は物思いに耽っていた。


(何故、雪城咲夜はあの場面であの場所から出てきたのか……)


 空路にはそれだけが疑問だった。

 ここの校舎はアルファベットのFに来客や職員室の棟を少し足して歪なEの様な形をしているのだが、真ん中の教室棟から隣の特別教室棟へ繋がる渡り廊下は一番端なのに対して、一階から隣の棟に行くには棟の真ん中の出入口から行くことになる。


(何時もなら、そういうルートを辿る奴もいるかと流すんだが……)


 空路は窓の外を眺めた。

 外は春の嵐と相まって叩きつけるような雨が降っていた。これは今降り始めたものではなく、朝から降っているものだ。


(この雨で態々外に出て向こうの棟に行く理由もない、その上アイツの制服は濡れてなかった。この雨で合羽を着て自転車で来る可能性も無ければバスで傘を差すにも風で多少は濡れる……乾く程度には室内に居た……?)


 空路が雪城の行動に思考を巡らせていると、突然空き教室の扉が勢いよく開かれる。

 その大きな音に我に返った空路が空いた扉の方を見ると、そこには眉根を釣りあげた絵里が居た。


「やっと見つけたぁっ!!!」

「あ?」


 絵里の大きな声に空路は首を傾げ。


「あー……」


 絵里の言葉を天井を見て反芻し。


「あっ」


 窓の外を見て何かに気づいた空路は。


「悪い、連絡の一つぐらいしとけば良かったな」

「その察しの良さをもっと早く活かしてよ……」


 雨の為にいつもの場所に居ない、そして教室にも姿のない自分を探し回ったのだろうと気付いて素直に謝る空路に、絵里は呆れ目で溜息を吐いた。


 ドッと疲れた様子で教室に入ってきた絵里は近くの机と椅子を空路の向かいに寄せて座り、花柄の可愛らしいお弁当箱を巾着袋から取り出して広げた。


「ふふん、どーよ」

「器用だな。凄く美味しそうだ」

「でしょ?私だってやれば出来るってわけ」


 弁当の出来栄えを自慢する絵里を空路が褒めると、絵里は分かりやすく嬉しそうにしながら自身で作った弁当を食べ始めた。

 高校初日からパンのみだった絵里の昼食だが、来る度に隣で空路が食べる家庭的な弁当を見て一念発起し、今日作ってきたという訳であった。

 別に空路からの「お前料理出来ない」認定が響いただとか、「やっぱり料理出来る女子の方がモテるのかな」とか思った訳では無いと本人は言う。


「ほら、この間の卵焼きのお返し」

「そういう所ちゃんとしてるよな」

「え、借りたら返すでしょ普通」


 そう言って絵里が箸で摘んで差し出したのは、空路の好物の一つである、中にほうれん草を巻いたちょっと豪華な卵焼きであった。

 貸し借りとかしっかり気にしてしまう辺り、根の真面目さが出てしまっているのは言わぬが花かと空路は口を噤んでおいた。


「お前その指……」

「見んなバカ忘れろバカ」

「んぐっ」


 有難く卵焼きを貰おうと思った空路が絵里の箸を持たぬ方の指に巻かれた絆創膏に気付くと、絵里は空路を睨みつけながらその口を黙らせるため卵焼きを空路の口に突っ込んだ。

 空路は薄々気づいているが、この数日間の間に花宮母からの徹底的指導があった事を、絵里の口から直接聞くことはきっとないだろう。


「むぐむぐ」

「どう、かな……?」

「美味いな」

「よかっ……ん゙ん゙っ、あっそ」


 空路が卵焼きを咀嚼し終えるのをソワソワと待っていた絵里だったが、第一声に美味しいと言われた事で彼女は花が咲いた様に顔を綻ばせ、直ぐに我に返って素っ気ない態度で取り繕った。


「ありがとな、俺の好物だって分かってて作ったんだろそれ」

「いやっ?!ぐ、偶然ほうれん草が家にあったから一緒に巻いただけよ。うん、偶々だし……」


 自身の好物であることに気が付いていた空路が少し微笑んで礼を言うと、ツンツンとしていた絵里の態度が段々としおらしくなる。

 この男のそういうところに気がつく辺り、鈍感なんだか敏感なんだかどっちかにして欲しい。


 その後、「この箸使ったら間接キスでは」という事実に絵里が一人で悶絶したりはあったが、何事もなくいつも通りに静かな昼食を終えた。

 昼休憩にまだ余裕がある事を確認した空路は、昼食の最初に考えていた問題の延長線上として絵里に聞きたいことがあった。


「なぁ」

「何?」

「雪城ってどんな女子だ」

「……は?」


 雨の音が静かに聞こえる空き教室で、幾分かドスの効いた絵里の声が空路に突き刺さる。

 彼はそこで自身の言葉が彼女に曲解して伝わった事に気がついたが、既に絵里のテンションは急降下しており、空路の事を完全に軽蔑の目で見ていた。

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