バカの罪と罰
尾八原ジュージ
バカの罪と罰
その頃、わたしは借家に大きな水槽を置いて人魚を飼っていた。黒い髪に藍色の鱗の、とても綺麗な人魚だ。
ある日家に帰ると、頭の悪さには定評のあるわたしの当時の彼氏が、人魚の水槽の前で倒れていた。それも下半身素っ裸で、血まみれの股間を押さえて悶絶している。人魚は口の周りを血塗れにして、涼しい顔で何やらくちゃくちゃと咀嚼している。
状況から判断すると、つまり男は人魚に局部を食い千切られたらしく、ということはそれなりの悪戯を試みたのだろう。気持ちはまぁ、わからなくもない。確かに人魚の顔は、人間の美しい女によく似ている。だけど基本的に会話は通じないし、肉食だし、ピラニアみたいな歯が生えているし、いい塩梅のおしゃぶりができるとはとても思えない。たぶん普通の素面の人間は思いついても試さない。バカめと思いつつも憐れみながらのたうつ様を見守っていたら、突然ドアチャイムが鳴った。
「こんにちはー。何かありましたぁ?」
この声は大家のおばさんだ。
困った。もしも瀕死の彼氏を目撃されたら非常に面倒なことになる。というのも、わたしがこの家に巨大水槽なぞ持ち込む許可を得られたのは、この家がそもそも、このバカ男の親戚の持ち物だからなのだ。バカの面倒を看るかわりに、特別に融通をきかせてもらっているというわけである。のんびり見守っている場合ではなかった。
慌てるわたしに追い打ちをかける再びのピンポン。そしてコンコンというノックの音。
「もしもーし! さっきすごい悲鳴してたけど大丈夫?」
ドア越しにおばちゃんの声が畳み掛ける。
大丈夫どころの騒ぎではない。彼氏は股間からドブドブ出血しつつ、ピクピクと痙攣している。うーん、これほっといたら死ぬんだろうなぁなどと悩んでいるわたしの横で、水槽の中から人魚がパチャッと音をたてて顔を出し、咥えていたものをペッと外に吐き出した。すでにフニャフニャに萎えているそれはさながら噛んで噛んで味のなくなったガムのよう、そして濡れた黒髪を頬に貼りつかせ、藍色の瞳を煌めかせる人魚はとても綺麗だった。ああ、あと百年飼っていたい。あまりの美しさに、わたしはつい死にかけている彼氏のことも、ドアをガチャガチャさせているおばちゃんのことも忘れそうになり、しばし恍惚としてからはっと我に返った。
なんとかしてこのピンチを切り抜けなければならない。この人魚の水槽を抱えて引っ越すとなると、わたしの給料と貯金ではどうにもならない。まずい。とてもまずい。
外からは「合鍵をとってきますからね!」と声が聞こえる。バカはバカゆえに、これまでも何度か幼児みたいな理由で死にかけてきた。そのため、合鍵はわりと簡単に召喚される。遠ざかっていく足音を聞きながら、わたしは(まずいなぁまずいなぁ)と頭の中で繰り返した。
もはやかくなるうえは、あれをやらねばなるまい。わたしは覚悟を決め、キッチンから出刃包丁と生肉を持ち出した。
「おいでおいで」
わたしは左手に生肉、右手に包丁を持って人魚を呼んだ。人魚は人外の笑顔を振りまきながらこちらに近づいてくる。わたしはごめんと呟きながら、やにわに人魚に包丁で切りかかり、肩から肉を一片削いだ。
人魚は物凄い絶叫をあげてわたしの左手にかぶりつく。わたしは悲鳴を堪えながら、切り取った人魚の肉を、辛うじて生きている彼氏の口に押し込む。言うまでもなく、人魚の肉を食べたら不老不死になるからだ。
かくして五分後におばちゃんが戻ってきたときには、人魚は水槽の隅で唸りながら鶏肉とわたしの指を食べており、彼氏はその前で下半身裸のまま高いびき、わたしは泣きながら「包丁で手を切っちゃってぇ」と指が二本しかなくなった左手を見せてオーナーに言い訳し、悲鳴をあげられた。
かくして彼氏は不老不死になり、彼の死によって借家を追い出されることはなかった。でも結局、わたしたちは別れてしまった。だってこの男、あるべきところにあるべきものがないのだ。わたしはそれでは物足りないのだから仕方がない。人魚の肉も、失ったブツを生やすことはできなかったのである。こんな体で永遠に生きていくなんて罰ゲームだよと言って、自業自得のバカは泣いた。
肝心の人魚は人間を喰ったかどで結局保健所に連れていかれてしまったし、こうなれば尚更バカと付き合っている意味などない。別に不老不死なんかなりたくないけど、こんなことなら人魚の肉、わたしが食べてしまえばよかったと思った。こんなバカ男なんかより、わたしの方がずっとずっとあの子を愛していたのに。艷やかな黒髪の靡く頭から紺色に輝く尻尾まで、全部全部食べてしまえばよかった。
やっぱりバカは罪だと思いながら、わたしはその後六十年ほど普通に生きて寿命で死んだ。バカな元彼は大事な倅をなくしたまま、今もたぶんどこかで生きている。
バカの罪と罰 尾八原ジュージ @zi-yon
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