第52話 ユリウスの手紙 後編

 ルイサに宛てたユリウスの手紙は、まだまだ続く。

 途切れることのない謹厳な文字は次に、ともにナーセリを発った仲間のことに触れていた。


『リランも元気だ。』


 と、ユリウスは書いていた。


『少し元気すぎるのではないかと言いたくなるほどに元気だ。元気すぎて、シエラの騎士たちの稽古に毎日勝手に参加しているほどだ。おかげで、リランはシエラの騎士たちの間ですっかり“隻眼のリラン殿”として有名になってしまった。稽古をつけてほしいという若手の騎士もたくさんいる。本人も満更ではなさそうだ。』


 騎士リラン。

 その文章に、ルイサは兄が旅立つ朝、不意に現れたリランのずんぐりとした姿を思い出す。

 歴戦の騎士として有名なリランのことは、ルイサも以前から知っていた。

 だが、荒々しい騎士たちの中でも特に荒っぽい雰囲気を持ったリランの姿を宴席などで見かけても、敢えて近付くことはなかった。

 いかにもとっつきづらそうであったし、ルイサにとってリランは、話題といえば剣術のことしかない騎士たちの筆頭というイメージだったのだ。

 しかし、あの日の朝、館の門前に立ったリランは、ルイサの知っている彼とはどこか違った。

 口調の荒さは以前と変わらないものの、どっしりとした中にも柔らかく落ち着いた雰囲気をまとっていた。

 彼なりの飾らない言葉で、ルイサを慰めてもくれた。

 兄と並んで旅立っていくその背中に、ルイサはある種の覚悟を見た。

 もしかしたら、兄は生きて戻らないかもしれない。ユリウスは、常にそういう危うさを持った人だった。けれど、兄が戻る戻らないにかかわらず、リランはもう生きて戻るつもりはないのではないか。

 必ず戻る、という彼の言葉とは裏腹に、そんな悲壮な覚悟が透けて見え、ルイサはリランをまともに見ることができなかった。

 だから、リランが無事で、なおかつシエラでの療養生活を楽しんでいると聞いて、ほっと胸を撫で下ろしたのだ。


『リラン本人はもう、いつでも帰ることができるのだが』


 と、ユリウスは続けていた。


『私の傷の治りが遅いので、待ってくれている。一緒にシエラに来たからにはナーセリに帰るときも一緒に帰るのが道理だ、とリランは言うのだ。旅立ちの時に、私を引きずってでも連れて帰ると、ルイサに言ってきたからだそうだ。』


 その文章に、ルイサは思わず微笑んだ。

 騎士は、約束を守る。

 兄の口癖のような言葉。

 だがそれは決して兄だけのことではなかった。

 ルイサにとって、兄は誰よりも特別な騎士だ。

 しかし、約束のために命を懸けて戦うのは、どの騎士も変わらない。

 見返りを求めるでもなく、命を懸けて約束を守る。そして、約束を守ることができてよかったと、笑顔だけを残して次の戦いへと去っていく。

 騎士とは、そういう男たちなのだ。

 ありがとうございます。リランさま。

 ルイサは心の中で、リランに感謝した。

 リランが隣にいてくれたからこそ、兄は今も生きている。

 戦いのことは何も分からないルイサだが、それは間違いないという確信があった。

 私におっしゃったことを、守ってくださったのでございますね。私からは、何も返すこともできませぬのに。

 手紙の文章が、涙でぼやけた。

 慌てて目をこすりながら、続きを読む。


『とはいえ、リランも国に残してきた妻のラーシャ殿のことが恋しくて仕方がないようだ。毎日、私の胸をばしばしと叩いて、私が痛がると、貴公の傷はまだ治らぬのか、そんなことではいつになってもナーセリに帰れぬではないか、と苦情を言う。だが、私も最近気付いたのだが、毎日リランに叩かれるせいで傷の治りが遅いのだ。現に、腕や足の傷はもう治ったが、胸だけが治らぬ。』


 ならば、やめてくれと言えばよいではありませぬか。

 ルイサは、溢れかかっていた涙がすっと引いていくのを感じて、顔をしかめた。

 人のいい笑顔を浮かべて、律儀に毎日リランに胸を叩かれている兄の姿を思い浮かべ、ため息をつく。

 リランさまに本当に感謝しているからこそ、何も言わないのでしょうけれど。

 ルイサは思った。

 早く治れ、と言いながら傷口を叩き、そのせいで治らないと気付きながらも毎日それを甘んじて受ける。こんなことは言いたくありませんが、それは馬鹿のなさることです。


『私に感化されたのか、リランもラーシャ殿に手紙を書き始めた。だが、酒を飲みながら書くのでいつも書き損じてしまい、なかなか出せぬとこぼしておった。面白い男だ。』


 ええ。お二人とも仲のよろしいことはよいことです。

 ルイサは冷静な顔で頷いた。

 その後もリランのあれやこれやがこまごまと書かれていたが、ルイサはさらさらと読み流した。

 リランの話の後には、ナーセリ王やナーセリの騎士たちについてのことが続いた。

 王のご様子はいかがか、騎士たちは皆変わりないか。

 この国では自分が誰よりも心配されているというのに、ユリウスは律儀に王と仲間たちのことを気にかけていた。

 皆さま、お元気ですよ。

 ルイサは心の中で語りかける。

 兄上と、アーガ様たち騎士の方々が、そのお命を懸けて魔王を倒してくださったおかげで、こちらは平和そのものです。王は、ユリウスが帰ったら盛大に祝わなければならぬ、とおっしゃっておいででした。

 その後でユリウスは、ようやく家族のことを尋ねてきた。

 自分や家族のことは後回しにする、ユリウスらしい順番だった。

 父母のこと、館の使用人たちのこと、それからルイサのこと。


『ルイサ。そなたは夢中になりすぎると周りが見えなくなることがあるゆえ、無理をしがちだ。怪我をしたり体調を崩したりはしていないか。』


 よく人のことを言えますね。兄上の方こそ、真っ直ぐに前しか見ないお方のくせに。

 ルイサの口元は、優しく綻ぶ。


『子供の時、コガネノヅメの群生が見たいとそなたが言い出した時のことを覚えているか。母上や私が止めるのも聞かずに一人で家を出た挙句、途中の岩場で転んで怪我をした。』


 そんな小さな時のことを。

 ルイサはもちろん、その時のことはよく覚えていた。

 岩場で転び、動けなくなったルイサを、必死な顔で真っ先に探しに来てくれたのが、兄だった。

 兄は無茶をした妹を咎めるでもなく、館まで背負って帰ってくれた。途中で他の場所を探しに行っていた使用人たちも合流してきたが、ユリウスは自分が背負った妹を最後まで決して下ろさなかった。

 怪我が治ったある日、兄が不意にルイサを連れ出してくれた。

 兄と一緒に見た王都の南の草原の、まるで黄金のじゅうたんを敷き詰めたような美しい景色を、ルイサは一生忘れることはないだろう。

 当のユリウスは、こんなものを見てどうするのか、とでも言いたげに退屈そうにしていたが。

 あの日から、ルイサにとってあの場所はお気に入りの、特別な場所になったのだ。


『もうお前も年ごろなのだから、まさかとは思うが、ああいう無茶をしてはいかん。父上も母上も心配するのでな。どうしても無茶をしなくてはならぬことがあったら、私が帰国した後にこっそりと相談せよ。とはいえ、兄にもできることとできぬことがあるゆえ、そこは承知しておくように。』


 兄の気持ちは、あの時のまま変わらないのだ。

 ルイサは、微笑む。

 大きくなり、もう少女とは呼べない年になり、自分に生意気なことを言うようになっても、兄にとってルイサはいつまでも心配な妹のままなのだ。

 そして、今も変わらず、何かあったら自分を頼れと言ってくれている。

 ついこの間、その両肩に二つの国の未来を背負わされたばかりだというのに。その傷も癒えぬというのに。まだ背負うと言ってくれているのだ。


『秋が来たのだから、花壇の花も少しずつ枯れ始めたのではないか。ナツミズタチアオイはまだ咲いているのか。あれはきれいな花だ。ナツミズタチアオイを見ると、秋が深まったと感じる。』


 またいい加減なことを。

 手紙を読みながら、ルイサは自分の感情があっちこっちに揺さぶられ、どういう顔をして読み進めればいいのか分からなくなる。

 どうやら兄は、ナツミズタチアオイ以外に花の名前をよく知らないようだ。

 そういえば、カタリーナさまへの最初の手紙を書いた時も、花壇の花で名前を挙げられたのはこれだけだった。

 よくぞコガネノヅメの名前を思い出せたものだ。

 そして、名前が示す通り、ナツミズタチアオイは夏の花だ。夏の間に咲き誇り、秋にはとっくに枯れている。

 何が、ナツミズタチアオイを見ると秋が深まったのを感じる、ですか。秋が深まった頃には枯れて茶色くなった茎くらいしか残っておりません。

 ユリウスとしては、妹が一生懸命世話をしている花壇のこともちゃんとわかっているぞ、と言いたかったのであろうが、完全に逆効果であった。

 しばらくルイサの身辺の心配などを書き連ねた後、ユリウスは不意に話題を変えた。


『シエラに、コキアス殿という騎士がいる。私のこちらでの旅にも同道した、極めて勇敢な騎士だ。』


 急に何を言い出したのか、と思いながら、ルイサは手紙を読み進めた。


『最後の戦いが終わった後で、私もリランもコキアス殿も、三人とも傷ついてその場から動けなかった。歩くこともできなくてな。』


 壮絶な戦いの一端が垣間見える記述に、ルイサは息を呑む。手練れの騎士三人が、歩くこともできぬ負傷。

 やはり、魔王“北風”はラクレウスとの戦いを経てもなお、そこまでの力を有していたのか。


『救助の部隊が来るまでに時間が有り余ってな。話すことにも事欠き、それでそなたの話をしたところ、コキアス殿が大変な食いつきようでな。』


 ななな。

 ルイサの顔が真っ赤に染まった。

 兄上。あなたはいったい何を。


『実はコキアス殿には以前、国境の魔人討伐の折にもそなたの話をしたことがあった。健康的な女性は最高だ、などとその時もコキアス殿は鼻息を荒くしていたのだ。若いというのはいいものだな。ははは。』


 ははは、ではありませぬ。

 ルイサは思わず手紙を握り潰しそうになって、慌てて手の力を緩めた。

 勝手に、見知らぬ他国の騎士に自分の妹を紹介していたのか。

 兄は、いったいそのコキアス殿という方にどのようなことを喋ったのであろうか。

 おかしなことを言っていなければよいのだけれど。

 兄のことだ。あまり期待はできない。おそらく、おかしなことを言っているだろう。

 ルイサは軽いめまいを覚える。


『ぜひお会いしたい、紹介してくだされ、と頼まれてな。それでは手紙に書こうと約束したものだから、ここにこうして書いている。』


 ああ、兄の律義さがこんなところにまで。

 律義さも時には迷惑なものだ、とルイサは改めて思う。


『コキアス殿は次の武術大会には必ずナーセリに来るであろう。それほどの騎士だ。そのときに会ってはみぬか。無理にとは言わぬが考えておいてくれ。』


 また困ったことをおっしゃって。

 ルイサは困惑したが、次の一文に少し惹かれたのは事実だった。


『コキアス殿は、騎士のわりに剣の話をあまりせぬ男だ。絵や、音楽や、花の話を好むようだ。私には話し相手は務まらなかったが、そなたとであれば、話が弾むかもしれぬ。』


 絵や音楽や花の話を好む騎士。

 今までルイサの周りには、そういう騎士はいなかった。

 ……会ってみようかしら。

 少し、心が動いた。

 だがまだ、結論を急ぐことはない。

 次の武術大会までに、一体何を話したのか、どうしてそんな話になったのか、じっくりと兄を問い詰める必要がある。お会いするか決めるのは、それからでも遅くはない。

 ルイサはそう考えて、心を落ち着けた。


『私は今、カタリーナ殿とともにいる。』


 長い手紙の最後に、ユリウスはそう書いていた。


『様々なつらいことがあったが、カタリーナ殿はそれらをすべて受け入れ、そして前を向いてくださった。抗うのではない。受け入れたのだ。強い女性だ。私にはとても太刀打ちできぬほどに、強い女性だ。』


 ユリウスの文章からは、具体的なことは分からない。だが、何か切迫したものが二人の間にあったということだけははっきりと伝わってきた。


『カタリーナ殿の弟のエアルフ殿とも会った。成長したら、エアルフ殿は素晴らしい騎士となるはずだ。』


 ラクレウスとカタリーナの弟のエアルフをそう称えた後で、ユリウスは彼らしからぬことを書いていた。


『いつか両王の御前で、私は彼に敗れるであろう。だが、その時が来るまでは、誰にも敗れるわけにはいかぬ。私は第一の騎士として、彼の前に立たねばならぬ。』


 その言葉の意味は、ルイサには分らなかった。

 けれど、何となく察されるものはあった。

 ユリウスが手紙に書けなかったこと。曖昧に濁したこと。

 きっと、そこにユリウスがこの文章を書いた理由があるのだと。


『カタリーナ殿は美しい。』


 突然、臆面もなくユリウスは自分の婚約者をそう称えた。


『毎日、お会いするたびにそう思うのだ。二人が離れている間に色々とつらいこともあったが、それは私たちから何一つとして奪えはしなかった。かえって、私たちの絆は強まった。だが、互いの不在に耐えることができるのは、そこに終わりがあるからだ。雨はいつか止み、瘴気はいつか晴れ、夜はいつか明ける。それを信じることができるからだ。』


 ユリウスの文章が滑らかになったのは、そこに彼の真情があるからであろう。

 カタリーナ嬢を前にした時、ユリウスはいつでも真剣だった。


『それで、私たちはもう離れぬと決めた。これよりは、もう何があっても離れまいと。ゆえに、父上や母上への手紙にも書いたが、療養が終わった暁には、カタリーナ殿を伴ってナーセリに帰る。』


 カタリーナ殿を連れて帰る。

 そういえば、父母宛てにもぺらりとした薄い手紙が届いていた。

 おそらく、あれにまたいつもの事務的な文章でそのことが書いてあるのであろう。

 これは家じゅうが大騒ぎになる。

 ルイサはそう予感したが、それでも二人への祝福の気持ちの方がはるかに勝った。


 もう離れぬと決めた。


 今までずっと、国のため、民のためにその命をなげうってきたユリウスが、初めて己のために示す、強い意志。

 それをどうして邪魔立てできようか。

 兄上は、ナーセリの騎士ユリウスは、その騎士らしい勇敢さで、美しいカタリーナさまの手を引いてご帰還なさるのでしょう。

 その光景を思い浮かべ、ルイサは今度こそ本当に頬を涙が伝うのを感じた。

 おめでとうございます、兄上。


『カタリーナ殿と二人でいると、日ごとに新しい発見がある。新しい驚きがある。今まで見えなかったものが、美しい色を伴って私の目に映る。』


 ユリウスはそう書いていた。

 兄の穏やかな笑顔が、目の前に見えるようであった。


『世界は美しいのだな、ルイサ。私はカタリーナ殿に出会うまで、それを知らなかった。アーガやラザやテンバーが、ラクレウス殿が、数多の騎士たちがその命を賭して護ろうとした世界は、こんなにも美しいものであった。』


 はい。美しいです。

 ルイサは頷く。

 兄上の護った世界は今日も、昨日までと変わることなく。

 ユリウスの手紙の最後の文章が、かろうじてルイサの涙に濡れた目にも読み取れた。


『じきに帰る。』



 お帰りを、お待ちしております。


 兄上。

 カタリーナさま。

 お二人にお会いするのが、楽しみです。









 騎士ユリウスの文通  完







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騎士ユリウスの文通 やまだのぼる @n_yamada

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