第51話 ユリウスの手紙 前編
秋。
人々が存亡の危機に立たされた悪夢の夏が終わり、ナーセリとシエラ両国も平穏を取り戻していた。
二つの国に立て続けに現れた強大な魔人、“詩人”と“北風”と名付けられた二人の魔王は、騎士たちの決死の戦いによって討たれた。
それとともに、それまで加速度的に増えていた魔人出現の報告は、ぱたりと途絶えた。
騎士たちが今回も、国を、人々の暮らしを護ってくれたのだ。
そう悟った両国の人々は、魔王との戦いで命を散らした騎士たちに感謝の祈りを捧げた。
ナーセリの魔王“詩人”が討たれてから数か月。
秋も深まり、冷たい風が近付く冬を伝え始めた頃。
ナーセリでは、あれ以来一人の魔人も現れていなかった。
王都にいながらにして、ルイサにも国に平和な空気が戻ってきたことが実感として分かった。
いつもと変わらぬ日々。
今日と地続きの明日。
穏やかな暮らしがこれからも続いていくのだという安心感。
それは、兄ユリウスが同僚の騎士たちとともに命を賭して取り戻したものだった。
だがユリウスは、ナーセリにはいない。
ナーセリの魔王を討った後、身体を休める間もなくシエラの魔王“北風”を討ちに隣国へと旅立ち、そしてその戦いで深く傷つき、いまだにかの地で療養中であったからだ。
その兄から、手紙が届いた。
受け取った封筒の分厚さに、ルイサは目を見張った。
その分厚さには見覚えがあった。
辺境から王都のルイサ宛に、シエラ第一の騎士であったラクレウス・ダンタリアの妹君カタリーナ嬢への手紙を同封してよこしたときは、確かにこれくらいの厚さがあった。
だが、兄は今、シエラにいる。おそらくはカタリーナ嬢もともにいるはずだ。彼女への手紙をルイサ宛に同封してくるということはあり得ない。
ならば、これは全て自分宛の手紙なのだろうか。
確かに出発の朝、シエラへと旅立つ兄に手紙を送ってくれと頼んだ。だが、大きな期待はしていなかった。兄は今まで一度としてルイサ一人に向けた手紙を書いてくれたことなどなかったからだ。
兄上は、一体何を書いて寄越したのだろう。
何か得体の知れない不安に襲われながら、ルイサは手紙の封を切った。
『ここは寒い。』
ユリウスの手紙は、いきなり身も蓋もない時候の挨拶から始まった。
嘘でしょう、とルイサは目を疑う。
誰があなたにそんな書き方を教えましたか。
『ルイサ。シエラはひどく寒いぞ。ナーセリはまだ暖かいのではないか。なぜならば秋だからな。だがシエラは寒い。まだ秋だというのに、寒い。もう冬が来たかのようだ。寒い。』
もういいです、寒いのは分かりました。
寒い、という字がいっぺんに目に飛び込み過ぎて、ルイサは思わず目を閉じた。
何度、寒いと書くのですか。
おそらく兄は、「ものすごく寒い」ということを表現するには、繰り返し何度も寒いと書けばよいと思っているのだ。
そうではないのです、とルイサは小さく首を振る。
そういうときは、寒さが伝わる風景や、寒さの中で生きる動物や植物の様子などを、寒いという言葉を使わずに書くのです。そのほうが、より相手に寒さが伝わるものなのです。
寒い、寒い、といくら重ねて書いても、伝わるのは兄上の間抜けなお顔ばかりです。
そんなルイサの気持ちに関係なく、ユリウスの謹厳な字で書かれた時候の挨拶は続く。
『ジャム作りを覚えているか。カタリーナ殿が手紙に書いてくれたワンベリーのジャム作りだ。シエラ伝統のジャム作りが今年も始まったのだ。いや、今年もと言っても私は去年までのジャム作りを見ていたわけではないので知ったような口をきくのもおかしいのだが。だがとにかくジャム作りが始まったのだ。シエラ伝統のワンベリーのジャム作りはいつもこの時期に行うのだ。このジャムを作ると、この国の人々は、ああ秋だなあ、秋が終わればもう冬になるなあ、その次に春が来てさらには夏が来るのだなあ、と思うのだ。私はナーセリの人間だから特にそのような感慨はないが、とにかくこれは人々に秋を感じさせる伝統で、ルイサもご相伴にあずかって秋を感じるがよい。』
何をごちゃごちゃと。
ルイサはため息をついた。
ワンベリーのジャム作りのことを書こうと思ったのは、兄にしてはよい判断だったと思うのだが、いかんせん、しつこい。
私はナーセリの人間だからそんな感慨はない、とかそんな余計なことまで書かなくともいいのに。
それに、秋だなあ、ともうすぐ冬だなあ、くらいまではいいとして、それが終わると春が来るとか夏が来るとか、何を当たり前のことをだらだらと書いているのか。シエラの人々もそんなことまで思うわけがないであろうに。
変なところで律儀な兄のことだから、おそらく季節を四つ全部書かなければ自分の中で収まりが悪かったのだろう。だが読む方からすれば、ただ単に、季節を順番に羅列されただけにしか見えない。
それに、ご相伴にあずかって秋を感じろ、とは何だ。ご相伴にあずかる、の使い方もおかしいし、おそらく兄は自分の文章で妹が秋を感じ取ってくれるかどうか不安だったから、いっそのこと自分からはっきりと伝えることにしたのだ。ほら、私は時候の挨拶で秋を感じさせているぞ、お前もここで秋を感じよ!と。
兄はこんな恐ろしい手紙をいつもカタリーナさまに読ませていたのだろうか。
そう思うと、なるほどルイサも少し肌寒くなってきた気がした。
優れた時候の挨拶には風情や優美さ、優雅さが必要だが、一歩間違えると押しつけがましい表現になる。ルイサ自身気を付けていることだ。
筆が乗って、自分に酔ってしまうと、ついつい鼻につく気取った表現になってしまいがちで、しかも書いた当人がそれに気付くのはとても難しい。
だがユリウスのこれは、もうそういうところをはるかに突き抜けて、いっそ清々しいとさえ言えるほどであった。
兄の人となりがよく表れた時候の挨拶だということも、言えなくもない。
兄上の律義さ、素直さ、清廉さ。そういったものが表現されているのだわ。
ルイサは自分をそう納得させた。
全然要領を得ない時候の挨拶が、なおもだらだらと続いた後で、ようやく手紙は本題に入った。
『私は無事だ。』
力強く書かれたこの一文に、ルイサは心底安堵した。
ユリウスが無事だったということは、もちろんすでに王宮からの連絡で把握していたが、本人の筆でこうしてはっきりと断言してもらえることほど、安心できることはない。
あの兄が、無事だというのだ。ならば、無事なのだろう。
自分の心にようやく訪れた、兄は生きているのだ、紛れもなく元気なのだという実感。
ルイサはその一文をしばし見つめ、その感慨に浸った。
『魔王は倒した。』
兄はそう続けていた。
『うむ、私が倒したわけではないのだが、他の騎士が倒した。魔王はな。まあ、そういうことだ。とにかく魔王はもういない。この辺りのことは手紙で書くには適さぬゆえ、帰ったら話そう。』
ユリウスの珍しく曖昧な、奥歯にものが挟まったかのような書きぶりにルイサは首を捻った。
魔王を倒した。それは素晴らしい、祝福すべきことであるのに、ユリウスはなぜかその報告を書きにくそうに綴っていた。
魔王のとどめを刺したのが自分ではなく、他の騎士、例えばリランさまとかだったということを言いたいのだろうか。
ルイサはそう推理した。
魔王を討ったという名誉が自分のものではないことを気にして、それで律儀な兄らしく、魔王は倒したが、倒したのは私ではない、とそう言いたいわけなのか。
確かに魔王を討ったという事実が騎士にとって最大の名誉であるということは、騎士の妹であるルイサにもよく分かる。だが、仲間全員で勝ち取った栄誉なのだから、誰がとどめを刺したというようなことにこだわらなくてもよいのではないか。
そしてルイサは、兄がそんなことにこだわる小さな男ではないということを知っていた。
それで、その文を読み返し、何となく察した。
手紙に書くには適さぬゆえ、帰ったら話そう。
この一文に込められた兄の苦悩。
きっと、兄は騎士として何かを、おそらくはひどく辛いことを、飲み込んだのだ。こんな軽い一文からは想像もできないような、言葉にできぬ重い何かを。
兄の、そして騎士たちの、決して口には出さぬ苛烈な世界の一端を、ルイサはそこに垣間見た。
帰ったら話そう。
だが、兄はそう書いてくれた。
ええ、話しましょう。
ルイサは思った。
わたくしに、兄上のお話を全部聞かせてくださいませ。
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