第50話 真の騎士
まるで別の生き物のように、びくびくと脈動を繰り返していたはずの、ラクレウスの口元の血管。
それが、いつの間にか消えていた。
「ラクレウス殿」
ユリウスは思わず驚きの声を漏らす。
「貴公、まさか」
「魔人の力を使うためには、瘴気を左腕に集めるのだ」
ラクレウスは静かな口調で答える。
「ちょうどそこを、貴公が斬り落としてくれた」
「では」
ユリウスは目を見張った。
「貴公はもう魔人ではないのか」
その言葉に、ラクレウスはまた静かに首を振る。
「そう都合よくはいかぬ。瘴気はとっくに全身に回っているのでな。また先ほどのようになるのも、時間の問題だ」
そう言うと、にこりと口元を綻ばせた。
「だが、今は頭の中の霧がいっぺんに晴れた気分よ」
ラクレウスは右腕と繋がったままの剣を下ろした。
ユリウスも剣を下ろし、ラクレウスと向かい合う。
「色々と醜いことを口にした」
ラクレウスは言った。
「己の本心ではないが、全く心の中になかったことかと言えば、そうとも言い切れぬ。無様を晒した」
そう言うと、ラクレウスは目を伏せた。
「許せとは言わぬ。すまぬ、ユリウス殿」
「人である以上、不満も怨嗟も侮蔑も、必ずその心に宿る」
ユリウスはラクレウスを真っ直ぐに見つめ、答える。
「私とて、的外れなことを言われたわけではない」
「それは」
「貴公と剣を交えていると、カタリーナ殿のことばかりがよぎった」
ユリウスは苦笑した。
「貴公に勝って、世界を救わねばならぬというのに、だ。大層なことを言って強がって、カタリーナ殿に見送っていただいてここまで来はしたが」
そう言って、ふと空を見上げる。
「貴公の言う通り、未練がましいと自分を恥じた。だが、世界は醜いか美しいか、と貴公に訊かれた時に、悟った」
「悟った」
ラクレウスは片眉を上げる。
「何をだ」
「世界は美しい。私がそれを知ることができたのは、カタリーナ殿が、美しいとはどういうことかを私に教えてくださったからだ。つまり、私にとって世界を救うこととは、カタリーナ殿を救うことと同義であった」
ユリウスは微笑んだ。
「ならば、戦いの間中、カタリーナ殿のことが頭をよぎるのもやむを得まい、と自分を納得させた」
そう言って、鎧の胸当ての中に無造作に手を突っ込む。
「これだ」
ユリウスが取り出したのは、黄色く染められた羽根飾りだった。
「カタリーナ殿は常に私とともにあった。これが私の胸にある限り、私の心はそれ以上揺れることはなかった」
呆気にとられたように羽根飾りを見つめたラクレウスが、不意に噴き出した。
「貴公。よくぞ」
ラクレウスは肩を震わせて笑う。
「よくぞ義理の兄の前で、そこまでのろけられたものよ」
「言わぬ方が良かったか」
「いや」
ラクレウスはなおも、おかしそうに肩を震わせながら、首を振る。
「言ってもらえてよかった。カタリーナは、幸せな女だ」
「全て、貴公のおかげだ」
「何が私のおかげなものか」
ラクレウスはさっぱりとした表情でそう言うと、目を細めた。
「出会うために生まれた二人が、出会うべくして出会っただけのこと」
大きく息を吐き、柔和な笑顔をユリウスに向ける。
「ああ、心配事が消えた。妹の婿殿は騎士の中の騎士であったわ」
ラクレウスは大声でそう言うと、表情を引き締めた。
「約束を果たそう、ユリウス殿」
生前の彼と変わらぬ、気取らない快活な声。
一瞬、ユリウスは自分たちが今いる場所があの日の武術大会の試合場のような錯覚を覚える。
「今こそ、我らの約束を」
それだけで、ユリウスにもラクレウスが何を言わんとしているのかが分かった。
「うむ」
ユリウスも精悍な笑顔で頷く。
「貴公とは一勝一敗。余計な邪魔が入ったが、これで我らの決着を付けよう」
ユリウスの全身には、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうなほどの激痛が走っている。それは、胸を斬られ左腕を落とされたラクレウスにしても同様だろう。だが、二人の騎士は向かい合い、微笑み合った。
「コキアス」
ラクレウスは大きな声で、魔眼の力で弾き飛ばされ、それでも何とか立ち上がったコキアスの名を呼んだ。
「我らの戦い、貴公が見届けよ。そして、シエラの次代の騎士に伝えよ。騎士の生き様、死に様を」
「ラクレウス殿」
コキアスは悲痛な表情で叫んだ。
先ほどまでの、全ての責任を背負い込んだ孤独な顔ではなかった。それはまるで、敬愛する兄に泣きつく弟のように無防備な顔であった。
「私は、まだラクレウス殿に教えてもらわねばならぬことが山ほどあります。私にはシエラは背負えませぬ」
「先ほどはつまらぬことを言ったな。許せ、コキアス」
まるで裏表を感じさせぬ明るい声で、ラクレウスは言った。
「貴公が若いくせにあまりに良い剣を使うものだから、私の嫉妬心が膨れてあのようなことを口走らせた。それほどの剣であった、自信を持て」
「ラクレウス殿」
緊張から解き放たれたように、コキアスの目からぼろぼろと涙がこぼれた。
「見届けよ、コキアス。泣いてもよいが、最後の矜持だけは捨てるな。瘴気はそこを狙っている」
ラクレウスは言った。
「私の最後の教えだ。そこを付け込まれた私が言うのだから、間違いはない」
コキアスはもう何も言えなくなった様子で、ただ何度も首を振った。
「俺も見届けさせてもらうぞ、ラクレウス殿」
もはや立つ力も残っていないのであろう、胸から血を滴らせたリランが、地面に座り込んだままでそう言った。
「ナーセリとシエラの第一の騎士同士の対決だ。これを見逃す手はあるまい」
「リラン殿。そう願えれば幸いだ」
ラクレウスは笑顔で答える。
「片目を失っても、挫けぬその勇気、その力。認めよう、貴公こそ真の騎士よ」
「なんと、真の騎士とは。口の悪いのが治ったと思ったら、次は歯が浮くような世辞の連発だ。両極端に過ぎるな」
リランは苦々しい顔で言った後で、にやりと笑う。
「だが、悪い気はせぬ。ユリウス。やれ、思い切り」
「うむ」
頷き、ユリウスは剣を構えた。
身体の状態からいって、おそらく、剣は振れてもあと二刀。
だが、そこには微塵の不安もなかった。ただ、やるべきことをやれるのだという清々しさだけがあった。
ラクレウスも剣を構える。その口元が、まるで大好きな遊びを待ちきれぬ子供のように綻んだ。
私も同じ顔をしているのだろう。
ユリウスは思った。
お互いの視線が一瞬交錯する。
「いざ」
二人は同時に踏み込んだ。
真正面からぶつけ合った全速力の剣が、大きく弾け飛ぶ。その一撃で、ラクレウスの剣がへし折れていた。
「おおっ」
ラクレウスが目を見開く。
間髪入れずに振り抜かれたユリウスの返しの斬撃が、ラクレウスの胸を深く切り裂いた。
勝者が誰であるかを告げるかのように、青い血が噴き上がる。
「見事」
そう言うと、ラクレウスはその場にぐらりと倒れかかった。
ユリウスはとっさに剣を捨てて、その身体を支える。
「ラクレウス殿」
「カタリーナを頼む」
青い血に染まったユリウスの腕の中で、ラクレウスは微笑んだ。
「私を斬ったことは、妹には言わなくてもよい。私は魔王“北風”に敗れ、死んだと。いや」
自分の言葉に首を振る。
「余計なことは言うまい。万事、貴公らのやりやすいように。汚名も恥辱も、悪きことは全て、死にゆく者が向こうへ持っていくゆえ、これからを生きる者の生きやすきように」
それは、騎士としてのラクレウスの最後の矜持。
シエラの将来のため、自分が全ての汚名を背負っていくという覚悟。
だが、ユリウスは首を振った。
「ラクレウス殿、私はカタリーナ殿に話す。貴公を斬ったのは私だと」
その言葉に、ラクレウスの顔がもの問いたげに歪む。
「心配は要らぬ」
ユリウスは言った。
「私は知っている。真実を受け入れられぬほど、カタリーナ殿は弱い方ではないと。あの方は紛れもなく、シエラ第一の騎士たる貴公の妹だ」
ラクレウスの肩が弱々しく震えた。
ラクレウスは笑っていた。
「そうか。いつの間にやら、貴公の方が私よりも深く妹のことを知っておったか」
穏やかな顔で、ラクレウスは言った。
「実に素晴らしいものなのだな、文通というのは」
意外な言葉に、ユリウスが目を見開く。
「妹と弟を頼む」
そう言うと、ラクレウスは顔を上げ、最後にシエラ第一の騎士としての役割を果たした。
「コキアス」
ラクレウスは叫んだ。
「貴公にシエラ第一の騎士の称号を託す。貴公ならば、必ずや私を越える騎士となれる。次の武術大会で、この男を」
ユリウスの肩を、ばん、と叩く。それはまるで怪我一つしていないかのような力強さだった。
「打ち破って、シエラに優勝の栄誉を」
「はい」
叫ぶようにコキアスが返事をした。それを聞くと、満足したようにラクレウスの身体から力が抜ける。
「ラクレウス殿」
ユリウスの呼びかけに、もう返事はなかった。
「ラクレウス殿!」
コキアスの悲痛な叫び。
「ふん」
リランが低く唸った。
「何が、真の騎士だ」
その声が、この男らしからぬ湿り気を帯びた。
「自分こそが正真正銘の真の騎士だと証明してから逝ったではないか」
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