第49話 美しい



 ラクレウスに吹き飛ばされ、地面に叩きつけられたユリウスは、それでもすぐに立ち上がろうとしたが、全身の骨がばらばらにされたかのような激痛に、低く呻いた。

 魔人の力で、天地を反転され、吹き飛ばされ、その後で強烈な重力に押しつぶされたのだ。

 傍目には地面を転げていったようにしか見えなくとも、実際は高い崖から突き落とされたようなものだ。軽傷で済むわけがなかった。

 騎士でなければ、一撃で致命傷になっているだろう。

 全身が、悲鳴を上げている。

 おそらく、肋骨あたりは本当に折れているに違いない。

 だが、それでもユリウスはその苦痛をそれ以上、敵に見せることはなかった。

 騎士は、再び立ち上がる。

 額から一筋、血が流れた。

 それを見て、魔騎士は微笑む。

「やはり立つか。そうであろう。それでこそ、騎士」

 それには答えず、ユリウスは剣を握る手に力を込めてみる。

 身体は、動く。

 それだけ分かれば、それでよい。

 深く息を吸う。

 まだもう少し動け、この身体よ。

 ユリウスはゆっくりと呼吸を整えながら、ラクレウスに向かって歩み寄っていく。

 この魔騎士を討ち果たすまでで良い。

 その後はもう指一本動かなくなっても良い。だがそれまでは、変わらずに動け。

 鍛え続けてきた己の肉体に対する信頼。

 今までの鍛錬は、まさに今日この時のためにあった。

 ユリウスは空を振り仰いだ。

 夕焼け。

 太陽は、ユリウスの背後にあって背中を照らしていた。

 日没はもう間近に迫っている。

「世界に裏切られる気分はどうだ、ユリウス」

 ラクレウスの言葉に、ユリウスは前に向き直る。

「今まで見ていた世界が逆転してしまう気持ちは、いかばかりか。察するに余りあるぞ。それでも剣を棄てることはできぬか」

「魔騎士ラクレウスよ」

 ユリウスは歩を進めながら、言った。

「貴様を斬る前に、先ほどの質問に答えておこう」

「ほう」

 ラクレウスは目を見張る。ユリウスは額の血を腕で乱暴に拭った。

「私の目に世界がどう見えるのか。そう訊いたな」

「訊いた」

 ラクレウスは悠然と頷く。

「答える気になったのなら、聞こうではないか」

「そもそも私にとって」

 ユリウスは言った。

「世界には、美しさなど存在しなかった」

 その答えに、ラクレウスは低く笑った。

「何を言うかと思えば。最初から醜い世界であったと、そう強がりたいわけか」

「違う」

 ユリウスはきっぱりと魔騎士の言葉を否定する。

「私にとっては、世界の美醜になど意味はなかったのだ」

 ユリウスの脳裏に、己を騎士たらしめてくれた人々の姿がよぎる。

「王。護るべき民。討つべき魔人。私にとって、それが世界の全てであったからだ」

 戦いに身を置く騎士の、シンプルな世界。ユリウスにとって、世界は美しくも醜くもなく、ただただ明瞭で、そして残酷であった。

「騎士よな」

 ラクレウスは笑顔のままで言った。

「忌々しいくらいに、騎士よ。騎士の模範解答だ」

「だが、今は違う」

 ユリウスは足を止めた。

 ラクレウスまで、ちょうど五歩の距離。

「世界は、美しい」

 ユリウスは言った。

「カタリーナ殿が、それを教えてくれた」

 その言葉に、ラクレウスが目を見開く。

「まだ、そのようなことを」

「ラクレウスよ。己の目が濁ったものしか映さぬのを、世界のせいにするな」

「なに」

「世界は美しいのだ」

 ユリウスは微笑んだ。

「カタリーナ殿が美しいように、世界もまた美しい」

「ほざけ」

 苛立ったように、ラクレウスが左腕を掲げた。

「つまらぬ強がりを」

 左腕に宿る、異界の力を宿した赤い目。それをユリウスに突き付ける。

「死ね、ユリウス」

 その瞬間、ユリウスは低く身を屈めた。

 世界よ。

 心の中で、強く念じる。

 私に、力を貸せ。

「吹き飛べ、世界の果てまでも」

 ラクレウスが叫んだ。

 邪悪な赤い目が、ユリウスを捉える。

 だが、ユリウスは吹き飛ばされなかった。低い姿勢のまま、一直線にラクレウスに向かって踏み込む。

「ばかな」

 ラクレウスが、初めてうろたえた。

 沈みかけた夕日の、最後の残光。

 ユリウスが身を屈めたことで、その一筋の光がちょうどラクレウスの左腕の目を射ていた。

 まるで、それが世界の意志だとでも言うかのように。

 視界を失った赤い目が虚しく瞬く。


 世界は美しい。


 ユリウスは剣を振り上げた。


 カタリーナ殿。

 貴女がいてくれるならば、この世界が美しくないわけがない。


 雷光の一撃。

 だが、魔人に堕ちたとはいえ、ラクレウスの剣の腕もまた尋常ではなかった。魔騎士の剣はぎりぎりでユリウスの剣を受け止めた。

 激しい金属音が荒れ野に響き渡る。

「貴様、ユリウス」

 怒りの表情を浮かべたラクレウスが、今度こそ左腕をユリウスに向けようとした時、脇からコキアスが突っ込んできた。

「ラクレウス!」

 シエラの騎士の、決死の突撃。

「ああ、うるさい」

 ラクレウスはユリウスと激しく切り結びながら、左腕をコキアスに向けた。

 コキアスを見ようとすらしなかった。

 赤い目が瞬き、邪悪な力がコキアスを吹き飛ばす。

 だが入れ替わりにその影から、もう一人の騎士が姿を現した。

「むっ」

 左腕をそちらに向けたまま、魔騎士は嘲りの笑みを浮かべる。

「小虫がもう一匹。貴公の剣など届かんよ」

 しかしリランは剣を振るわなかった。

「剣を振るうばかりが騎士ではないわ」

 そう叫びざま、ラクレウス目がけてリランが投げつけたのは、燃え盛る二本の松明だった。

 ここにたどり着くまでに、ユリウスたちの目の代わりとなってきた松明。

 それをリランは、時間差で思い切り投げつけた。

 ユリウスと対峙しながら、とっさに両方の松明を打ち落とすことは、さすがのラクレウスにもできなかった。

 左腕の目の力で、吹き飛ばされるリラン。代わりに、松明の炎がその目を焼いた。

「おのれ、貴様」

 ラクレウスのあげた怒りの叫びを、一筋の閃光が断ち切った。

 ユリウスの渾身の一撃だった。

 斬り飛ばされたラクレウスの左腕が、宙を舞う。

 これで、全て終わらせる。

 ユリウスの全霊を込めた返しの一撃を、ラクレウスの剣がしっかりと受け止めた。

 その強靭な受けを、ユリウスの身体が覚えていた。

 まさか。

 ユリウスは、ラクレウスの顔を見た。

「見事だ、ユリウス殿」

 先ほどまでとはまるで違う、穏やかな声。

「……ラクレウス殿」

 ユリウスは思わず剣を止めた。

 ユリウスのよく知る、好敵手ラクレウス。微笑を湛えた理性ある瞳が、ユリウスを見返していた。

「よくぞ、私を止めてくれた」

 ラクレウスは静かに言った。

「礼を言うぞ、ユリウス殿」



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