後世の評価:ウイキペディアより

 董卓

 時代 後漢・聖漢

 官位 相国

 生誕 永和4年(139年)

 死没 建徳22年(215年)

 出生地 涼州隴西郡臨洮県

 字 仲穎

 主君 桓帝劉志→霊帝劉宏→少帝劉弁→廃帝劉協→初代聖帝劉生


 董卓(とうたく)は、中国後漢末期から聖漢初期の武将・政治家。涼州隴西郡臨洮県(甘粛省定西市臨洮県)の人。字は仲穎(ちゅうえい)。


 最初は涼州三明の下で戦う辺境の将軍の1人にすぎなかったが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになり、南北で度々起こった反乱鎮圧に活躍した。


 その後中央の政治的混乱と距離を置き、涼州・幷州・益州・荊州を中心とする辺境にて力を蓄え、南陽にて独立勢力を保ち、洛陽の袁術、皇甫嵩らの政権が倒れると洛陽より廃帝を救出し、事実上政治の実権を握った。


 廃帝が出奔して袁紹のもとへ向かうと聖帝を擁立し、袁紹の勢力を打倒して中国の再統一を果たし、聖帝を頂点とする聖漢を興した。


 隠居して息子たちに1本の槍はたやすく折れるが、5本の槍は折れないとした教えは有名だが、その場で董卓は10本の槍を軽々と砕いて、たまにはこういった者が出るから気をつけよと言ったが息子たちに引退は早すぎると言われたという。


 建徳22年(215年)に老衰で死亡したが事実上の聖漢の建国者にしてその基礎を全て固め、早めに引退しつつも、実際には晩年まで事実上の政治的な実権を握っていた人物として知られる。


 廟号は太祖、謚号は武光相国


 目次

  1 事跡

  2 評価


 事跡


 4歳のときには裸馬に騎乗して弓を撃ち始め、蹴鞠に混ざり、7歳には蹴鞠のリーダーとして子供達が集まった集団を率い、8歳には子供の間で象棋において無敗を誇るなどその才覚は幼い頃から発揮されていた。


 また弟の董旻が生まれた時には自ら羊毛の産着を編んで着せたという。


 馬術・弓術・格闘術・蹴鞠・象棋などを行いつつも孫子呉子六韜三略などの兵法もこのころから通じており輪栽式農業を行い始めたともされる。


 元嘉2年(152年)には後々までの名参謀となる智謀の士である賈詡との出会いがあり、弟の董旻とともに最も頼りにされた。


 元嘉2年(152年)に成人して3人の妻を娶ることになり、馬騰、牛輔、韓遂は有力な配下武将となる。


 羌族の顔役たちが面会に来ると、董卓は農耕に使う耕牛を殺し、その肉で宴会をしてもてなし、族長はとても感激し、帰ると董卓に畜獣千頭を贈ったという。


 その後、涼州三明の張奐、皇甫規、段熲に従って戦って、大将軍の竇武討伐に参加し功績を上げたことにより羽林中郎将から四品の武衛将軍まで昇格した。


 その後李膺、荀爽、陳寔、陳紀、何顒、伍瓊等を皇甫規のもとへ逃し、何顒はその後に洛陽に再び潜入して党錮の禁で弾圧された党人達を救出し并州に逃がすという役割を果たした。


 さらには荀爽の甥の荀彧、荀攸なども党錮の禁の難を避けるために後を追うように幷州へ向かい、後に影で董卓を支える曹操や李儒もこの時に董卓の配下になっている。


 その後并州に戻って孤児であった呂布と出会った董卓は彼を家族同然に養育し始めた。


 建寧3年(170年)に并州刺史を兼任することになった時には皇甫規が引退して皇甫嵩が代わりに赴任してきている。


 安めの武器防具を量産し医療の普及にも務め、呂布と上の兄弟二名が義兄弟の契りを交わしている。


 建寧5年(172年)は会稽で起こった許昌の反乱討伐をして功績を上げており 熹平2年(173年)には会稽の反乱の討伐に成功、司隷校尉に任じられる。


 その後熹平4年(175年)には鮮卑の侵入の対応で北へ、熹平5年(176年)には交州の反乱のために南へ、熹平6年(177年)には鮮卑対応のためまた北へ向かい光和3年(180年)に南に向かい北方の異民族の侵入対処や南方での反乱を鎮圧した。


 中平元年(184年)には荊州の南陽の黄巾賊を討伐し、その後豫州潁川黄巾軍、益州の五斗米道、黄巾党を討伐し、中平2年(185年)には涼州の反乱を抑えた。


 中平3年(186年)に霊帝が崩御するととその後中央における権力争いがおこり董太后と董重、何進、何皇后と何苗は相打ちとなり、董太后や何皇后の回りの宦官も殺され、袁紹が汝南に逃げ出し、袁術が中央を把握したがこの時は長安より西と并州を抑えていたが、何皇后の息子であり一度は帝として即位した劉弁は弑逆され、劉協が傀儡の皇帝として即位した。


 中平4年(187年)袁術からの命令で董卓は荊州南部の反乱を鎮圧、その間に反袁術連合軍を率いる袁紹と袁術が正面衝突したが反袁術同盟のほうが先に自壊し、この間に董卓は揚州を統治域に入れている。


 霊帝の崩御の混乱の後の政争に勝ち抜き、洛陽と廃帝を手中にした袁術だったが、袁紹とその同盟者の兗州・冀州を中心とした中原における反乱と董卓の袁紹の反乱への不介入宣言により税が収められなくなったことで、糧秣の調達に苦しみ、それを解消するために反袁術同盟が駐留したことを理由に兗州陳留郡・豫州潁川郡の諸県へ攻め込み、略奪を行って兵糧を集め、そのまま冀州へ攻め込んだが袁紹は青州黄巾賊と手を結び、袁術は袁紹と黄巾賊の連合軍に大敗して、洛陽へと逃走した。


 そして皇甫嵩による軍事クーデターが起こって袁術は処刑され、民衆がへそに芯を立てて火をともしたところそれは燃え続けたという。


 洛陽における政権を掌握した皇甫嵩に対して甥の皇甫酈は董卓に対し罪人を引き渡す様に進言し、この要求を拒否した董卓は謀反人とされたが、この時は袁紹と同盟して皇甫嵩に対抗し、青州黄巾と皇甫嵩が激突したのちに袁紹が洛陽を制圧した。


 袁紹は劉虞と公孫瓚との対決を優先したため、董卓は体制固めに専念していたが初平元年(190年)に劉虞が殺され、初平3年(192年)に公孫瓚が攻め滅ぼされると袁紹との決戦が始まった。


 初平4年(193年)には董卓の暗殺未遂事件が起こり、廃帝が王允などとともに袁紹の元へ逃げたが、鄴城が包囲されると廃帝が袁紹に弑された。


 そして鄴城が攻略されると、その後袁紹は死にその息子たちは青州へ逃げ出したが袁譚は降伏し、袁尚などその他の兄弟は倭国に逃亡した。


 建徳元年(194年)には国号も変え、その後国家の基礎となる法などの様々な制度を固めた。


 建徳2年(195年)5本・10本の槍の教えを息子たちを集めて行なう。


 建徳22年(215年)老衰により死去したが聖漢は588年に隋により滅亡させられるまで、394年の長きにわたって中国に君臨し、西のローマ、東の聖漢と称され古代の高度な文化を栄えた。


 評価


 聖漢の中興の祖としてしられ、高祖のように部下を活躍させつつも、武帝のような神の如き軍才知謀を持つとされる。


 あまりにも完璧な軍事的勝利や政治を行ったため、実在の人物では無いのではないかという説も出るほどだがその実在は間違いない。


 特筆すべき事項として早めに引退して後進に道を譲ることで、老害問題を起こさなかったこと、息子にも15年で引退するように指示し、それが定年制につながったことで聖漢が長く続いたところがある。


 もっとも本人は本格的に隠居したくても結局はできなかったようであるが。


 そして董卓が遺言を残した際には10本の槍を折ってしまったなどという荒唐無稽なまでに誇張されて伝わる部分も多々あるようである。

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三国志の悪役董卓に生まれ変わったけど死んだあとへそに芯を立てて燃やされたくない! 水源 @minamoto1616

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