泣かないで青葉さん、どうしても泣くならそれ僕にだけ見せて

和田島イサキ

いずれ来る鮫の迎えの鉄仮面わらべは見たりその花咲むを

 氷の鉄仮面で知られる学年一の才媛、あおさんが今にも泣きそうな顔をしているのを見た。


 というか、泣いた。近所のスーパー『いなとく』の店内、俯き加減にじっと立ち尽くしたまま、唇をぎゅむっと引き結んで嗚咽をこらえていた。いちご大福みたいな丸いっぺたに、大粒の涙がぽろぽろ伝うのが見えて、その目の前ではスーパーの店員さん、たぶん今日だけのバイトと思しき大学生くらいの女性が、「えぇーっどうしたらいいのこれ」って顔で固まっていた。そりゃそうだ。たぶん僕でもそうなると思う。さっきまでおすまし顔だったちっちゃい子が(青葉さんはとても背が低い)、いきなり自分の目の前でぽろぽろ泣き出したとき、人はただ天を仰いで固まるかスマホで動画撮影するしかなくなる。


「だって、レアだと思ったから」


 あのクールな青葉さんの泣き顔だ。これを逃したらもう二度と見られないかもと思うと、もう走り出す気持ちを止められなくなった。あとは編集して音楽をつけてアップロードすれば完成というところまで来て、ものすごい形相の青葉さんにスマホを押さえられた。それでこのざまだ。

 スーパー『いなとく』の入ってすぐのところ、泣きはらした目で僕を見下ろす青葉さんと、床に正座したままの僕。そしてそのふたりのそば、「本当どうしたらいいのこれ……」って顔で固まるバイトの人。そりゃそうだ。たぶん僕でも固まると思う。せっかくの晴れの日、年に一度のいなとく大創業祭がぶち壊しだ。


 怒られた。

 ここで正座するとみんなの邪魔になるからって、異常事態に気づいて駆けつけた他の店員さん、百戦錬磨のパートのおばちゃんから。恥ずかしい。弁解の余地なんかもう何ひとつなくて、僕と青葉さんは河岸を変えることにした。店の外に出てすぐのところ、自動販売機コーナーの木製ベンチまで、なぜか僕が青葉さんの手を引いて歩いた。まだ泣いてて、なかなかその場から動こうとしてくれなかったから。


 ベンチに座らせ、自販機で買ったエナジードリンクをあげて(これが一番元気が出ると思った)、ついでにハンカチも添えたあと。改めてもう一度、彼女の目の前に正座する僕。

 そのまましばらく、たぶん数分か十数分くらいの時が流れた。足は痛かったけど、春の陽気はうららかで、なんだか眠たくなるような心地がした。


 すん、と小さく鼻を啜り、ハンカチを小さく畳んで、顔を上げる。それが合図で、つまり「ちょっと落ち着きました」のサインのように思えて、でも青葉さんはそのまま黙っていた。何も言わない。きっと僕に話すべきこと、説明すべき事柄が多すぎるからだ。僕はあまり気の利く方ではないけど、こういうときは僕から水を向けた方がいいんだろうな、と、そう言外にわからせてくれる何かオーラのようなものがあった。さすがは学年一の優等生だ。頭のいい人って格好いいと思う。


「えっと、青葉さ——」


 質問ついでに腰を浮かしかけて、でもそれは手振りで遮られる。再び正座に戻って、一息ついてから問い直す。


「青葉さん。いろいろ聞きたいことはあるんだけど、とりあえず、なんで泣いてたの」


 何してたの。っていうか、どうしてこんなところにいるの。

 ここスーパー『いなとく』は僕の家から徒歩五分くらいのところにあって、つまり常日頃からお世話になっているお店で(実はさっきのおばちゃん店員ともうっすら顔見知りだ)、でもここで青葉さんを見かけたことは一度もない。同じ高校に通う生徒同士ではあるけど、でも同じスーパーを利用するほどのご近所さんだなんて話は聞いたことがなくて、その時点でもういろいろ不自然というか、単純に新鮮な感じがした。自分の生活圏で目撃する、今まで学校でしか接点のなかった同級生の女子。それもガチガチの優等生の、その休日らしいごく私的な姿。


「すごい服着てるね」


 とは、でも言えない。オーバーサイズかつ真っ黄色のフーディ。上手いんだか下手くそなのかわからないアヒルの絵がプリントされてて、確かにすごい服には違いないのだけれど、それが本当に似合って見えるのだから不思議だった。こんなに格好悪いアイテムなのに、総体として見る彼女自体はぜんぜん格好悪くなくて、普通に最初からそういう生き物だったみたいな納得感がある。学校ではいつも真ん中分けにしているおかっぱボブも、今日は6:4くらいの位置に分け目があって、しかも4の側がしっかりヘアピンで留められていることに、僕はなぜだか妙にどぎまぎしてしまった。おしゃれだ、ということそのものより、「あの地味で真面目な青葉さんがこんなに自然におしゃれをしている」という、その事実が僕の胸をソワソワさせるのだ。


「だからその、レアだと思って」


 いよいよスマホを取り上げられた。文句は言えない。正直なんでもかんでも撮りすぎだという自覚はあった。

 青葉さんが小さく指を差す。目を向ければそこは駐輪場、一台の立派なマウンテンバイクが見えた。いやロードバイクか? 僕は自転車に詳しくないからわからないけれど、とにかくパッと見て「スポーティだ」ってわかるやつだ。どうやらそれは彼女の私物のようで、そういえばっきめのフーディにレギンス(スパッツ?)というその格好といい、「あのおとなしくてインドア派っぽい青葉さんが」という勝手なイメージとのギャップが、また僕を落ち着かなくさせるのだけれどそれはいい。


 青葉さんは、あれに乗ってきた。結構な距離を、わざわざ、たかが『いなとく』の創業祭のために。

 スーパー『いなとく』なら県下全域にあって、つまり青葉さんがどこ住まいだろうともっと近くの店舗があるはずなのだけれど、でもそれだといろいろ不都合らしい。どうしてか? それは今日が他でもない、年に一度の大創業祭だから——。

 一体なにがどうしてそうなるやら、その先をもじもじ言い淀む青葉さん。結局、彼女が意を決して白状するよりも早く、その答えの方から勝手に転がり込んできた。


「あの、落ち着きました……? それでその、まだ残ってるんですけど、三回分……」


 さっきの、大学生くらいのバイトの人。おずおずと、青葉さんの機嫌を伺うかのように声をかけてきた彼女の、その手元を見て青葉さんの表情がこわる。なんだっけ、確か「カルトン」とかいう名前の、お会計時に金銭を受け渡すためのトレイ。そこに乗っているのはもちろんお金ではなくて、つまり青葉さんが途中でやめてしまったがために、わざわざ移し替えてくれたのだろう——。


 無数の、おおよそ豆粒大の、プラスチック製と思しき小さな玉。


「あ、そっか。福引」


 そういえばこのごろ福引券配ってたっけ、と、すぐピンと来たけどでもおかしい。だってカルトンに並んだその玉、ざっと見ただけでも二十か三十個くらいはある。なのにその全部が見事に真っ白、すなわち残念賞のポケットティッシュだなんて、一体どれだけのこの福引——と、そこまで考えたところでようやく思い当たる。正確には、そのハズレ玉の山を見つめる青葉さんの、露骨に濁ったその瞳を見て理解する。


「まさかこれ、全部、青葉さんがやったの?」


 例年通りならだいたい三個に一個は小当たりが出るのに——と、そううっかり声に出してしまうから面倒なことになる。バイト店員さんの「あっ」という小声、ショックに見開かれた青葉さんの目、こうして見るとぱっちりとした目がとても魅力的だなあ、なんて、そう思ううちに俯いてぷるぷる震え出す彼女。思わず手をやったポケットにスマホはなく、そういえばさっき取り上げられたんだったと思い出す。


 泣いていた。

 せっかく少し落ち着いたのが、でもまた、こんな簡単に。


 心的外傷トラウマだ。完全に。まあ気持ちはわかる。いや理解できるわけでは全然ないけど、でも想像はできる。

 福引を連続三十回も引いて、でも繰り返し吐き出されるのは白玉ばかり。その光景を、どんどん積み重なっていく「うそ、そんな、どうして」という重苦しい空気を——残り三まで追い詰められていよいよあふれ出た悔し涙を、僕はついさっきこの目に見たばかりだ。動画も撮った。いつも白くて滑らかな青葉さんの頬っぺたが、目元のあたりから一面紅潮しているのなんて初めて見て、それを「あのいつも物静かで冷静な青葉さんが」と、そう思った瞬間の胸の高鳴りがまた蘇る。


 おそらくのこと、これを毎年繰り返してきたのだと思う。青葉さんには最初から〝こうなる〟ことがわかっていて、だから遠く離れた別の店舗、僕んちの近所の『いなとく』まで遠征する必要があったのだ。このたまれない空気、自分が普段利用するお店でやるのは、さすがにしばらく尾を引くことになるだろうから。


 よっぽどツキがないんだろうな、とか。

 なんか前世でよほどひどい悪事でも働いたのかな、とか——。

 そんな理由にもならない理由をごちゃごちゃ考えるより、僕にはやるべきことがある。


「あのさ、青葉さ——」


 そう腰を浮かしかけて、でもまた手振りで遮られる。再び正座の体勢に戻る僕。ビリビリと痺れて痛む足、その苦痛を堪えながら提案する。

 その三回、残されたチャンス。もしよければ、僕に預けてもらえないかな——と。

 これはお詫びだ。なんかいろいろ迷惑をかけてしまった、その埋め合わせと思ってくれればいい。雪辱を晴らす。きみの代わりに、僕が、この手で。


「だからスマホ返して。お願いします」


 その頼みに、彼女が小さく鼻を啜る。啜りながら小さな声で、でも確かに「うん」と返事を返す。初めて聞いた気がした。今日、青葉さんの声を、嗚咽や啜り泣きの声以外で。綺麗な声だ。女の子の声って綺麗だなって改めて思うし、そんな綺麗な女の子の声が青葉さんから出てきた、その事実が僕にはなんとなく嬉しかった。そういえば、彼女の声は普段もあまり聞いたことがない。無口で、地味で、おとなしくて真面目な優等生で、そんな彼女がド派手なアヒルのフーディ姿で、悔しさにぶるぶる泣いて震えているところに出くわす——そんな出来事が自分の人生に起こるだなんて、ついさっきまでは想像だにしなかったのに。


 僕が倒す。

 彼女を、青葉さんをこんなに泣かせた悪の福引を、僕がこの手で成敗してやる。


 ——なんて。


「そんな勢いだけでどうにかなるほど、世の中都合よくできてはいないんだよね、普通に」


 でもやるだけやったんだしとりあえずスマホ返して、と告げる、その僕の視線の先に転がる白玉三つ。終わった。こんなものは適当に回せばなんとかなるのだと、いやそもそも回し方で当たり外れが決まるものじゃないんだし、と、気負わずパパッと済ませた結果がこの有様だ。三つ目の『スカ』が転がり出たとき、ついさっきまで「えっ早、せめてもうちょっと溜めたり気合い入れたりしないの?」的な顔でまじまじ僕を見ていたバイトの店員さんが、はっきり聞こえる声で「だからぁ!」って悲鳴をあげるのが聞こえた。そんなに。たかが福引、どこまで行っても運否天賦の勝負でしかないのに。


「まあね、これに懲りたら来年からはもう、福引自体を諦めるとか——」


 そう言いかけた僕の手元に、しずしず差し出される僕のスマホ。フードをかぶって俯いたままの青葉さんの、とても素直で聞き分けのいいその対応。続けて、まるで蚊の鳴くような声で呟かれた、「うん、ごめん」というそのダメ押し。

 痛い。胸の奥がズキズキと、「もう二度と男を名乗るなよお前」と僕を責め苛んで、「はいうそうそ今のなしじゃあ引くとこからもっかいリテイクで」なんて、そんな都合のいい奇跡が起こるほど世の中甘くない——。


 そのはず、だった。

 もし僕が、あるいは青葉さんが、僕たちだけでその世界を完結させていたなら。


「あのですね! 間違いでした! その、数え直したら、ありました! もう一回分、福引!」


 バイトの店員さん。さっきから必死で何をしているのかと思えば、青葉さんの渡した福引券を数え直していたらしい。思わず「本当に?」と詰め寄る僕。彼女はこれまでの一部始終を見ていて、だからこれはいわゆる泣きの一回、お情けでくれたサービスだったりしないだろうか?

 この福引は青葉さんのプライドをかけた戦い、単に景品が欲しくてやっているのではなく、己の過去と運命に打ちつのが目的なのだ。ならば同情から与えられた猶予でそれを成したところで、もとより何の意味も意義もない——。

 という、その僕の言葉に、

「本当です! 本当に一枚数え間違えてて——っていうか何の味方なんですかあなた!」

 と、彼女。正論だと思う。露骨にキレ気味になるのも仕方がない。


 急に降って沸いた最後のチャンス。

 正真正銘、最後の一回。

 福引器の前に立ち、再びそのハンドルをサクッと回そうとする僕に——。


「……ううん。いい」


 青葉さん。彼女の小さな両手が、僕の服の裾をきゅっと引いている。弱々しいわずかな力ながら、でもはっきりとした拒絶と拒否の姿勢。

 彼女は言う。やっぱりやめよう、と。もう私は諦めたから、と。だってこれでまたハズレを引いたら、この永遠に終わらない屈辱の白玉地獄に、きみまで巻き込むことになってしまう気がするから——と。


 彼女が福引に負けたくない理由。僕らはいま高校の二年生で、つまり再来年の今頃はもう大学生だ。あるいは浪人生や社会人だったりするかもしれないけど、とにかく順当に行けばこの街から出ている公算が高くて、だから悔いは残したくない。負けっぱなしのままでは永久にこの街を去れない。本当にただそれだけ、なんのことはない勝手なこだわりでしかないから——と。

 そう聞かされ、「なるほど」と訳知り顔で頷く僕は、でも胸のうちで考える。


 ——えっ? いや僕、青葉さんが遠くに行っちゃうの、だけど。

 じゃあ逆に、一生負け犬のままにしておけば、ずっとここにいてくれるってこと——?


 なんだろう。急にやる気がなくなった——とまでは、さすがに言わない。僕だって立場的には彼女と同じで、ずっとここにいるとは限らない、というのもある。ただ、さっきまでは「どうしても倒さなきゃいけない怨敵」だったはずのものが、実は一番頼れる味方だったみたいに思えて、でも僕の隣の青葉さん、その目深に被ったでっかいフードの奥の、負けず嫌いな瞳がまた涙に潤んでいるのも見えちゃったりして、もう本当、一体、僕はどうしたらいいんだろう? そんなに勝ちたいものかな、あんな福引如きに——なんて、あの怒涛の白玉ラッシュを見てしまってはそんなこと言えない。


 ——仕方ない。

 どうあれ、これも乗りかかった船。

 なによりここでごんがあったなら、そんなの彼女に勝手な下心を抱く、その権利ごと切り落とされたようなものだ。


「わかった。でも大丈夫、任せて」


 僕にいい考えがある——と、今一度、再び向かい合う福引器。それを両手で抱え込むように掴んで、そしてその向きをぐりんと反転させる。握るべきハンドルを、でもいま、こちら側ではなく向こう側へ。その先、「……ん?」と目をぱちくりさせるバイト店員さんの手を、しっかと掴んでハンドルへ。


 青葉さんは負けた。その代打を買って出た僕もあのざまだ。最後の一回、天の与えたもうた敗者復活戦に、まだ戦える駒はあとひとり——。


「一等、ハワイ旅行。お願いします」


 僕の言葉に、青葉さんの瞳がにわかに輝く。蘇る。失いかけていた生気が、潰えつつあった闘志が、「そっかまだ彼女がいた」というその希望に。

 山と積まれた白玉の楼閣、死屍累々のその幽明の境に、ひとり立ち向かわんとする最後のいくさおと。その名も、しまむら。もとい、『しまむら 笑顔で接客中☺』さん。名札に書かれた小ぶりな文字は、いかにも半人前の大学生バイトといった風情だ。

 状況をまるきり飲み込めないまま、いつしかハンドルまで導かれていたその手。ギュッと握られたその細い手指が、いま、ワンテンポ遅れて慄き出す——。


「……………………エッ? ちょ、何、うそ、やだ」


 怯えた顔。ありもしない希望に縋るかのようなその眼差しに、僕は優しく背を押してやる。


「まあほら、所詮はただの福引ですから。気負わず、軽〜い気持ちで引いちゃってください」


 だいたいこの一回はあなたが数え間違えていたせいですから——その追い討ちに彼女、しまむら笑顔で接客中はいよいよ悟る。もはやどこにも逃げ場はなく、ここで自分がこの福引器を回し、そして一等を引き当てるより他にないのだと。

 絶望。見開かれた瞳はその色を失い、もはや抑えることも叶わぬ濁った嗚咽と共に、流れ落ちる涙はまさにぼうの如し。それを、捉える。しっかりと、余すことなく、この撮影画面の中央に。誰かが見届ける義務がある。誰かに語り継ぐ必要がある。戦士の散りゆくその姿は、ちゃんと加工・編集して音楽をつけてアップロードして、みんなに見てもらうことで初めてはなむけとなるのだ。


「しーまむらっ! はいっ、しーまむらっ!」


 まだ決心がつかないみたいなので元気いっぱい囃し立てて、そしてそのおかげで僕は知る。なるほど、目は口ほどに物を言う、とは本当のこと。勇者しまむらの眼球が左右にぷるぷる、見たことも聞いたこともない異常な高速振動を見せて、このとき彼女の胃袋は急性のストレスから潰瘍の一歩手前まで行っていたと、のちに僕らはそう知るのだけれど、とまれこのままではキリがない。らちも明かない。往生際が悪い。大人なんだからいいかげん聞き分けてほしい。

 結局、このあと力ずくで、それも青葉さんとふたりがかりでハンドルを回させて(店内中に響き渡る「ヤダーッ!」はもう語り草だ)、そして彼女は成し遂げた。この「成し遂げた」というのは本当に文字通りの意味で、結論から言うならこの勇者しまむら——。

 どうやら、本当に勇者だった。


 ——一等、ハワイ。


「——しまむらさぁんっ!」


 青葉さんの声。ぴょこんと飛び上がってそのまま飛び込むみたいに抱きつく、その頬を流れ落ちる歓喜の涙。ああよかった、という気持ちと、あと「あのいつも無表情で遠慮がちな青葉さんが」という驚きがないまぜになって、またぞろ僕の心臓をどきどきさせる。あるいは、しまむらの心臓も。いや彼女の方は逆にもう止まっていただろうか。しまむらは顔中を脂汗でドロドロにして、その場にぐったりしたままもう動かなくなっていた。いい人なのだと思う。こんな見知らぬ子供の無茶なわがまま、適当に流して終わりでよかったろうに。


「お疲れ、しまむら。それと、青葉さん。おめでとう」


 ——もっとも、さすがにそこまで世の中甘くない、というか。

 まあこの先の〝オチ〟付きでも十分、出来過ぎな話ではあるのだけれど。


「惜しかったね。本当はハワイのはずだったのに」


 再びの店外、さっきのベンチ。青葉さんにエナジードリンクを手渡しながら(元気が出ると思った)、今度は僕もその隣に座る。実はつい癖でというか、最初はまた彼女の前に正座しようとしてしまったのだけれど、でも青葉さんに手振りで制された。もうそんな理由はないから、って。

 ベンチの上の彼女は、でも僕の差し出したエナジードリンクを受け取ってくれなかった。というか、受け取れないみたいだ。完全に埋まっているというか、顔も胴体も見えない。

 ——でっかい、サメのぬいぐるみ。

 それを、両手で抱き抱えるように。ハワイの代わりになんでも好きなものをどうぞ、と、そう言われた彼女が選んだものだ。

 しまむらが、一等ハワイを引き当てたのは間違いない。転がり出たのは目にも眩しい金色の玉で、でもそれが福引器の中にあること自体が手違いのようなもの——もともと一名様のみだったはずの一等は、先日もう別の客が引き当てたばかりだったのだとか。


 惜しかった、とほぞを噛む僕に、でも青葉さんはまったくの無表情だ。

 しかも小さな声で「サメは好き」なんて、両手でしっかり抱きかかえながらそんなことまで言う。

 ——それなら、よかった。


「うん。よかったね、青葉さん。本当に」


 まあもともと、単純なプライドの問題だ。どうあれずっと勝てなかった相手を打ち負かして、これで彼女に思い残すことはない。立ち去れる。堂々と、長年過ごしたこの街を。いや今日明日に、という話じゃないのは知ってるけれど、でも僕がその背を押す形になってしまった。そんな気もないのに。むしろ、どこにも行ってほしくないと誰より思うのに。

 別に、まったく知らない人ではなかった。でも、こんなふうに話すのは今日が初めてのこと。

 実質、今日が最初の出会いみたいなもので、鉄仮面の下の素顔を初めて知って、なのにやったことがお別れの後押しだなんて。


「だから、せめて動画だけでも」


 そうスマホを向けた先、でかいサメを抱えた小さな生き物が、高そうなマウンテンバイクに激突する。よたよたと、もう歩き方の時点で危なっかしいというか、明らかに前が見えていない。小さすぎる。体が。どう見てもちっちゃな子供みたいな微笑ましいけ方をしたのに、まだそんなつんと澄ました顔でいられる、その胆力がもう本当に最高だと思った。好きだ。ああ本当に可愛いなあこの青葉さんって人は、と、その心の声がうっかり漏れてしまったというか、


「ウオーッ! 青葉さん、すきだー!」


 と、きっと店中どころか世界の果てまで響き渡る絶叫となって、だってこんなの仕方ない。

 聞いてるんだか聞いてないんだか、そも聞こえているのかどうなのか。あの氷の鉄仮面を眺めていると、どうにも不安で仕方がないから。


 怒られた。

 例のベンチ、また僕だけが正座させられて、それを放置したまま自転車に跨る彼女。

 童は見たり、野中の薔薇。唐突に響き渡るシューベルトは、夕方五時を報せる防災無線のチャイムだ。キコキコと、本当に「さよなら」のひとこともなく、普通にその場を去ってしまう彼女。


 こうして、僕のおそらく初めての恋は、わずか数時間のうちに玉と砕けて散った。


 ——のだろうか?


「やだねえ。そんなわけあるかね」


 じゃあそれは一体なんなんだい、と、ちょうどシフト上がりのおばちゃん店員。彼女の言う〝それ〟は一目瞭然、青葉さんが僕の膝の上に置いていったサメだ。彼女はサメが好きで、でもカゴもないスポーツタイプの自転車には荷が重くて、でもその程度で諦めるはずがない。確かに、僕の家はここから五分だって話はした。なら去り際、青葉さんの言った「こんど取りに来る」というのは、つまり文字通りの意味と思っていいのだろうか?


「おばちゃ——店員さんは、どうでしたか。こういうの、高校のとき、どんな感じの恋を」


 青葉さんの無表情。僕には真意を見抜くのが難しすぎて、だから女性心理の参考にと思って訊いたその質問に、「やだよぉこんなおばちゃんにそんなこと聞いて」とおばちゃん。

 花盛りの頃はとうに過ぎたはずのその頬が、まるで乙女のようにほんのり桜色に染まるのが見えて、そのまま切々と語られた青春の思い出に、みるみる張りと艶を取り戻すそのこわ。心なしか潤んで見えるその瞳の向こう、おばちゃんの見ている景色はきっと忘れ得ぬ初恋の日々で、そういうかけがえのない記憶がこの街にあることに、僕はほんのちょっぴりながら勇気づけられた気がした。膝の上のサメもきっと同じ気持ちだ。

 それは、桜咲く春のこと。唐突に降って湧いた高嶺の鉄仮面への恋の、その期限はひとまず二年間。再来年、どこか遠くへ行っているかもしれない僕らの、その出会いとしてはまあ上出来な方だ。よくやった。僕にしては十分すぎる戦果だ。


 恋のやり方は正直、よくわからないけど。

 なら、『当たり』を引くまでサクサク繰り返せばいい。


 僕は青葉さんが好き。

 そう確信できただけで、僕にとっての今日はもう一等賞も同じだ。




〈泣かないで青葉さん、どうしても泣くならそれ僕にだけ見せて 了〉

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泣かないで青葉さん、どうしても泣くならそれ僕にだけ見せて 和田島イサキ @wdzm

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