第4話

 年が明けると、この学院の三年生は自由登校となります。十二月までにすべての授業を終わらせ、よりレベルの高い大学へ行くため、各自が必要な勉強をするためです。ほとんどの三年生が寮の自室にこもり勉強をする中、理恵さんは一日も休まずに登校していました。

「授業はないから来る意味もないのだけど、教室や図書室で勉強している方が集中できるの。それに、瑠花と少しでも長く一緒にいたいの」

 私の授業がある以外の時間、登下校やお昼休みは、私たちは二人で過ごしました。一緒にいてすることと言えば何気ない会話や勉強だけでしたが、私は私たちの間に流れる時間が何よりも大切で、何よりも好きでした。できることなら、この時間がいつまでも続けばいいと考えてもいました。それでも、私が理恵さんの時間を奪ってしまい、進学に影響が出ないように配慮はしているつもりでした。もちろん、優秀な理恵さんのことですから、有名大学への進学を学院中から期待されていましたから。しかしながら、その期待は全て無意味なものだったのです。

 学院生の多くが受験した各大学の入試結果が公開される二月下旬ごろに、学院中が大騒ぎとなりました。理恵さんが、受験したすべての大学で不合格となったのです。それも、必ず受かるだろうと誰一人として心配していなかったすべり止めの私立大学でした。周りの慌て様をよそに、当の理恵さんは平気そうな顔をしていました。むしろ、不合格がわかるごとに元気になっていくようにすら見えました。私は、あまりの結果を心配した教職員や生徒たちに、一体何があったのか理恵さんに尋ねるように頼まれました。

「もしかして、試験日は体調がすぐれませんでしたか?」

 理恵さんが実力であんな結果になることは決してありえませんので、私はそのように質問しました。

「そうね。みんなには、そう伝えておいてくれるかしら」

 この返答に、理恵さんにはきっと何かわけがあって試験にわざと落ちたのだと、そう考えました。それならば、その意思は尊重しなければと思いました。ですが、私は私として、理恵さんのことが心配でたまりませんでした。

「わかりました。……でも理恵さん」

「ねえ瑠花」

 理恵さんは私の言葉を遮り、こう言いました。

「三月三日、私の誕生日の夜、空けておいてほしいの。プレゼントなんていらないから、用意しないでね。瑠花の時間を私にちょうだい」

「……わかりました。必ず空けておきます」

 その時の理恵さんは、私がそれまでに見た中で一番うれしそうに笑っていられました。私は、きっと理恵さんには何か考えがあるんだ、もしかしたら、国立大学の入試に向けて自らを追い込んだのかもしれないし、それとも海外留学を考えていらっしゃるのかもしれない、そう思っておくことにしました。そして、他の皆には、理恵さんは何の心配もいらないと伝えました。


 三月三日、昨日のことです。私は約束通り、授業以外には何も予定を入れず、なるだけ理恵さんと過ごすことに決めていました。そして、もはやあなたは覚えているかもわかりませんが、三月四日は私の誕生日です。理恵さんがそのことをご存じかこのときの私は知りませんでしたが、出来れば日付が変わるその時、理恵さんと二人で過ごしたいと考えていました。私たちはルームメイトですので当たり前に同じ部屋にいるわけですが、就寝時刻を破って二人でこっそりお祝いができたら、と勝手に想像していました。……何て能天気なのでしょうね。理恵さんのお気持ちも知らずにこんなことを考えていたなんて、恥ずかしくてたまりません。

 昨日の朝、私は起床してすぐに理恵さんにお祝いを言いました。

「理恵さん、おはようございます。それから、お誕生日おめでとうございます」

「おはよう。ありがとう。今日の夜、空けておいてくれた?」

「もちろん空けています」

 理恵さんはまた嬉しそうに笑いました。

「みんなが眠った後、そっと寮を抜け出して時計塔へ来てほしいの。誰にも見つからないようにね。二人きりで過ごしましょう」

 その言葉で、愚かな私は舞い上がりました。きっと理恵さんは、私の誕生日も知っていて、二人で過ごすために時間を作ってくださったのだと、そう思っていました。もっとも、その考え自体は間違ってはいませんでしたが……。

 日中、すれ違う生徒や教職員たちに理恵さんがお祝いの言葉を贈られること以外は、私たちは普段と同じように過ごしました。理恵さんは、朝以来、夜の約束のことを一切口に出しませんでした。私はあれやこれやと考えましたが、どれも幸せな、穏やかな時間の妄想ばかりでした。

 夕食の後、理恵さんは部屋へ戻ってきませんでした。ご友人の方々とお話をしていたからです。少し寂しくもありましたが、私は一足先に部屋へ戻り、支度をしました。しかし、消灯時刻の十一時を過ぎても、理恵さんは部屋へ戻られませんでした。心配にはなりましたが、きっと先に時計塔へ向かわれたのだと思い、私は一人で他の生徒をやり過ごし、予定通りそっと寮を抜け出しました。

 時計塔につくと、やはり理恵さんはもうそこへいらしていました。時計塔の大きな窓は開けられ、窓辺にたたずむ理恵さんの美しい髪が夜風になびいていました。その光景は、これまでの私の人生でみたどんな景色にも比べられぬほど、美しいものでした。

 理恵さんは、私に気が付いて振り向きました。

「……来てくれてありがとう」

「いいえ。理恵さんと二人で過ごすことができて、とてもうれしいです」

「瑠花」

 理恵さんは、窓辺に立ったまま、両手を広げて私を呼びました。私は迷わず理恵さんの腕の中へ飛び込みました。私たちは、そのまましばらく抱き合っていました。冷たい夜風が、私たちのことを包み込み、世界から遮断されたようでした。……どのくらいの時間そうしていたのでしょう。長い階段を上って弾んだ私の呼吸が収まったあとも、しばらくそうしていたと思います。

「誕生日おめでとう、瑠花」

 ふいに、理恵さんがそう言いました。時刻が十二時を回り、三月四日になっていたのでした。

「ご存じだったんですね」

「当り前じゃない」

 理恵さんはそう言うと、私の髪を撫でました。

「妹の誕生日だもの。忘れたことなんてなかったわ。十八年間、一日だって」

 妹のような、という意味だと、私は一瞬思いました。しかし、それにしてはおかしいのです。私と理恵さんが出会ったのは、昨年の四月なのです。不思議に思いながらも、とっさに聞き返せずにいると、理恵さんがこう言いました。

「私ね、誕生日のプレゼントはいらないなんて言ったけど、一つだけどうしても欲しいものがあるの。瑠花がそれをくれるなら、私も瑠花にとびきりのプレゼントを用意できるわ」

「……何でも言ってください。私があげられるものなら、何でも用意します」

 このとき、この間の理恵さんの言葉を真に受けてプレゼントを用意しなかったことを後悔しました。だからこそ、可能であるならば、むしろ可能でなくとも、何を頼まれようとも理恵さんの望むものを渡したいと思ったのです。

「瑠花」

 理恵さんはこれまでの中でも一番の優しい声で私の名前を呼びました。そして真っ直ぐに私の目を見て、こう言ったのです。

「私と死んで」


 理恵さんの言葉が文字となって意味を取れるようになるまで、ずいぶんと時間がかかりました。私は声を発することも忘れていました。

「瑠花、あなたをちょうだい。そうしたら、私はあなたに幸せをあげられるわ」

「……どういうことでしょうか?」

 やっと発したその言葉は、今思えばあまりにも緊張感のない、間の抜けた質問だったかもしれません。そして、理恵さんは眉一つ動かさずに話し始めました。

「新入生名簿であなたの名前を見た時、まさかと思ったわ。出ていった母親の旧姓、実の妹と同じ名前で、年齢も一致している子がいる。だけど、入学してきたあなたを見ても、ピンとこなかった。当り前よね。十年以上会ってすらいないんだから、成長したあなたを見てもわかるわけがなかった。どうやらあなたは父親の名前も、姉の私の存在も知らないようだったし、確かめようもなかった」

 ゆったりとした理恵さんの口調が、なぜかすっと私の中に入ってきたのでした。理恵さんがこと叔母を重ねるたび、私は私たちのことを理解していくのでした。

「けど、あなたの母親の名前を知って確信したの。あの女と、私と父を捨ててめちゃくちゃにしたあの女と同じ名前だったから」

 今更あなたを責めようなどとは思っていませんが、私がこのことをもっと早く知っていたのなら、こんな結末にはならなかったのかもしれません。

「ね? 瑠花。私たちが惹かれあうのは必然なのよ。だって私たちには、同じ血が流れているのだから」

 あんなにも素直に理解できたのは、私自身、それを心のどこかで感じていたからかもしれません。絶対そうに違いないのです。そうでなければ、私たちが周りから似ていると言われることも、理恵さんのような素晴らしい方が私に惹かれることも、ありえないのです。それにしても、まだわからないことがありました。

「どうして、私と死ぬのですか?」

「あなたが幸せなら、それでいいと思った。私と父を捨てても、妹と新しい幸せを築いているなら、それでいいと思っていた。けど……どう?」

 理恵さんがゆっくりと私に近づき、窓枠へとその背中を押し付けました。

「瑠花、あなたには私以外必要ないわ。あなたが幸せになるためには。ねえ、私と一緒に幸せになりましょう?」

 理恵さんに肩をつかまれ、私は反射的にその体を力いっぱい拒絶していました。美しい理恵さんの体が力なく崩れ、大きな窓の向こうへ消えていくのが見えました。しばらくして、——どのくらいたったかわかりませんが——私は、理恵さんが消えていった窓の下を覗いてみました。そして、時計塔の下に、理恵さんの体が赤い池を作っているのが見えたのでした。


 これが、私の犯した罪のすべてです。私はこの手で、愛する人を、そして実の姉を殺したのです。そして私の罪のその実態とは、私の命そのものなのです。この一年間……いいえ、きっと理恵さんが生きた十八年間、私の存在が理恵さんを苦しめていたのです。恨まれ、殺されるのは私のはずが、心優しいあの人は最後まで私の幸せを考えてくださいました。それなのに、私はそれを拒んでしまったのです。逃げるように自室へ戻りこの日記を書き始めるまで、安堵と後悔が波のように押し寄せました。どこをどうしたら、私たちは普通の姉妹として、あるいは友人、先輩と後輩、恋人として暮らすことができたのでしょう。

 夜が明ければ、誰かが理恵さんを発見するでしょう。そうなる前に、この日記を書き終えて私は理恵さんのもとへ行きます。もうあの人を一人にはしたくないのです。理恵さんは、私のたった一人のお姉ちゃんは、私のことを許してくれるでしょうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ポピーレッドの恍惚 蒼生 @aoilist

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ