第3話

 その日、二人で部屋に戻った後、理恵さんのご家族の話を聞きました。理恵さんのご両親が離婚なさったのは、彼女が四歳の頃でした。お母様が突然、幼い妹一人を連れて出ていかれたそうです。

「三月の、私の誕生日の前日のことだったわ。母は買い物に行くと言って、妹を連れて家を出たの。そしてそのまま帰ってこなかった。母が帰らないことを心配して父に聞くと、父は『お母さんはもう帰ってこない。これからはお父さんと二人で生きていくんだよ』って」

 それから数年間、理恵さんとお父様の仲は良好だったようです。お父様は、平日理恵さんを近所の知り合いの家に預け、夜まで働いていました。休日は、理恵さんと自宅でテレビや映画を観て過ごしたり、時にはショッピングや遊園地へ連れて行ってくれたりもしたそうです。そんなお父様の苦労をみて育った理恵さんですので、恩を返そうと勉学に励み、小学生時代から成績優秀だったそうです。理恵さんが完璧を目指すようになったのはこの頃のようでした。

 しかし、理恵さんが十歳になった頃、二人の仲に変化が生じました。その頃には、理恵さんは誰かに預けられることなく、小学校から帰宅した後、自宅でお父様の帰りを待っていました。そしてお父様が帰宅し、二人で夕飯を食べ、テレビを見ながら談笑し、理恵さんが先に就寝する、というのが理恵さんとお父様の日常でした。その日も、理恵さんはいつもと同じように学校から帰宅しました。いつもと少しだけ違ったのは、朝から下腹部に鈍い痛みがあったことです。帰宅後、トイレに行った理恵さんは驚きました。自分の下着に、真っ赤な血がべったりと付着していたからです。

「小さい頃に女親が出て行って、姉なんかもいなくて初潮を迎えた女の子は、一体どうしたらいいのかしら。もちろん学校の授業では習っていたわ。でも、大人の女がいない家庭に生理用品が常備されているわけないし、もしかしたらそういうのを用意している家もあるのかもしれないけれど、少なくともうちはそうではなかった」

 幼い理恵さんは、急いで近所の薬局へと向かいました。薬局について、生理用品が並んでいる棚の前に行ったところまでは良かったのですが、何種類も並べられた生理用品からどれを選べばよいのかわかりませんでした。また、お小遣いから握りしめてきた二百円ではどれも買うことができません。理恵さんは、初めてはっきりと起こった体の変化といつもと違う体調とで不安になり、その場で半泣きになってしまったそうです。そんな理恵さんの様子に気がついた一人の女性が声をかけてくれました。安心感と申し訳なさから、理恵さんは本当に泣いてしまったのでした。

「そうしたら、その人が気づいたのね。私の履いていたズボンに、血がついていたの。それでその人は状況を察したのか、一緒にナプキンを選んでくれて、さらには足りない分のお金を貸してくれたの。その人に連れられてトイレに行って、なかなか泣き止まない私を心配してくださって、その人が家まで送ってくれたの」

 その日は偶然にも、お父様が早く帰宅していたそうです。家にいない理恵さんをお父様が探しに出ようとしたところ、ちょうど見ず知らずの女性に連れられた理恵さんが帰宅しました。女性はお父様に事情を説明し、お父様は女性にお金をきっちりお返しし、目と鼻が真っ赤になった理恵さんを連れて家へ入りました。そして、ドアを閉めた途端、理恵さんの頬を打ったのでした。

「『他人に迷惑をかけるな。もう子供じゃないんだ。自分のことは自分でなんとかしろ』って、そんなことを言われたわ」

 私は、そんなことがあるなんてとても信じられませんでした。まだたった十歳の娘相手に、そんなことを言う父親がいるのでしょうか。

「父に殴られたのもあんなに叱られたのも、後にも先にもあれっきりだった。私は自分が悪いことをしたんだと思ったの。人に迷惑をかけてはいけない、なんでも自分一人で解決しなければいけないって、そう思ったの」

 なるほど、理恵さんが周りを頼らない理由がわかった気がします。それから、理恵さんは父に叱られぬよう、心配をかけぬよう生きるようになりました。全寮制であるこの学院への入学を考え始めたのも、この出来事がきっかけであったそうです。お父様から離れて自立した人間になれるよう、ひとりでも立派に生きていけるよう、そう考えたそうです。そのことにお父様も賛成なさいました。あなたもわかっていると思いますが、特別お金のあるわけでもなく、片親の家庭で育ち、市立の中学校に通っているということは、この学院への進学においてとても不利な条件になります。まして、母親とその恋人が娘を追い出すためにお金を与える家庭とは、訳が違うのですから。理恵さんは一層勉学に励み、本当に自分の力のみで、特待生として学院への入学を果たしたのでした。

 お父様と理恵さんの関係に再び変化が生じたのは、理恵さんが入寮のためにこちらへ来る前夜のことでした。理恵さんは、お父様へのこれまでの感謝を綴った手紙を、お父様の前で読み上げたそうです。

「お仕事も大変なのに、私をここまで育ててくれてありがとうって。心配も迷惑もたくさんかけてごめんなさいって。お父さんを支えられる大人になるために頑張ります。本当は離れ離れになるのが寂しいですが、頑張ります。お父さん、愛していますってね。たった十五歳の子供が、父親に向けた『愛してる』。言葉の意味よりも、口にした当の本人は軽い気持ちだったわ」

 しかし、理恵さんのその言葉が、変貌させたのでした。涙を浮かべながら理恵さんからの言葉を聞いていたお父様は、その言葉を聞いた途端に目の色を変え、理恵さんの小さな体を乱暴に床に押し倒しました。そのまま理恵さんの髪を押さえつけ、服を引き剥がし、力のままに体を重ねました。理恵さんの泣き叫ぶ声は、お父様の大きな手に塞がれ消えていきました。

「そのあと、私は気を失った。目が覚めたときには、辺りはまだ真っ暗で、身体中がギシギシと音を立てるように痛んだ。起き上がると父はそこにいなくて、机の上に置き手紙があった。『理恵、ごめん。いってらっしゃい』って。私はその後一睡もできずに、朝早く家を出たわ。私が家にいる間、父は家に帰ってこなかった」

 私は耳を塞ぎたくなりました。声が出ませんでした。泣き出してしまいそうでした。どうして理恵さんが、このような目に合わなければならないのでしょう。彼女が何をしたと言うのでしょう。実の母親には見捨てられ、実の父親には犯されたのです。どうしてこんなことになるのでしょう。きっと、理恵さん自身が一番にそう思っていたに違いありません。ですが、彼女はこのことを誰にも話せずにいました。なぜなら、その頃には、人に迷惑をかけてはいけないという思考が染み付いてしまっていたからです。

 理恵さんは、中等部に入学して以来、一層勉学に励みました。それは、優しいお父様にもう一度会うためでした。

「お父さんが私に乱暴したのは、きっと私がわがままだったからだ。家を出て行く私が、お父さんを捨てると思ったんだ。だから、私が完璧な人間になってもう一度会うことができれば、お父さんもきっと安心して元の優しいお父さんになるわって」

 理恵さんがお父様と再び顔を合わせたのは、一年生の夏休み、帰省なさった時でした。久しぶりに会ったお父様は、理恵さんを襲った野蛮な男の影はなく、元の優しいお父様に見えたそうです。なので、理恵さんは、きっとあれは何かの間違いだった、と思いました。

 家に帰った理恵さんは、真っ先に成績表を広げてみせました。学年でトップの成績を見て、先生方からの信頼を寄せられたお言葉をみて、お父様は理恵さんを褒めました。

「理恵はえらい子だ、なんだってできる賢い子だ、って頭を撫でてくれたわ。ああ、やっぱり私がしっかりしていれば、お父さんがおかしくなることはないんだって思った」

 そして、理恵さんはご実家で二週間ほどお父様と過ごされました。その日々は、理恵さんが学院へと行く前と何ら変わりのない、幸せな日々だったそうです。しかし、理恵さんがご実家で過ごされる最後の夜、再びお父様の態度が急変したのでした。

「お父さんはその日、私と過ごす夏休みの最後の日だからと、珍しくお酒を飲んでいた。二人で楽しく夕食をし、その後に談笑していたの。すると、突然お父さんが泣き出した。そして、私をあの時と同じように床に押し倒したの。……私を押さえつけて、自分のしたいがままにしている間、お父様はなんて言っていたと思う?」

 私は黙って首を横に振りました。理恵さんは、それまでに見たことのない、険しい表情をして、こう言いました。

「母親の名前を呼んだの。何度も、何度も。そうして、『愛してる。愛してると言ってくれ』って、何度と言うの。私は、愛してると言うしかなかった。春に家を出たときには、自分から言った言葉なのに、父にせがまれて苦し紛れに言うしかなかったの。それも私じゃなくて、私を見捨てた母親に向けられた言葉に返すように」

 理恵さんはその日の夜のうちに家を抜け出し、寮へと戻ったそうです。そしてその後、一度もご実家へは帰られていません。お父様が病気で倒れられたのは、昨年の冬のことでした。それでも理恵さんは、お父様に会っていないと言います。

「どんなに努力しても、私のことを見てもらえないんだって思ったわ。母が連れて行ったのは何もできない赤ん坊。父が求めたのは自分を置いて出て行った女。私は誰にも必要とされない。けれど学院の中で完璧であれば、他の生徒からも教師からも求められる。だから、私は完璧でないと意味がないの」

 理恵さんはそう言いました。私は泣いていました。どうしてこんな目に合わなければならなかったのでしょう。どうして理恵さんでなければならなかったのでしょう。理恵さんは、ごめんねと言って、私の涙を指でぬぐいました。私はその手を取って、力強く、しかし優しく握りました。

「私は理恵さんを、理恵さんだけを見ています。理恵さんだけを愛しています」

後から後から流れてくる涙に声を詰まらせながら、私は理恵さんにそう伝えました。理恵さんは、私のその言葉に返すように微笑みました。

「ありがとう、瑠花。私にも、瑠花だけよ。瑠花だけを愛してるわ。」

 それから、私たちはただの先輩と後輩の関係ではなくなったのでした。理恵さんのご家族のこと、今の理恵さんが作られるまでのことを知ってからは、理恵さんの全てが悲しく、つらく見えました。理恵さんが安らげる場所になりたい。私はその一心で理恵さんに接しました。しかし、私が理恵さんを癒すことなどできるわけがなかったのです。理恵さんを一番傷つけていたのは、他でもない私の存在だったのですから。

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