不発パン③

「『、か……」


 公園を出て、家までの帰り道を歩く。

 佐々木は忠告をしたようだが、当のおれはもうどうしようもない状況であることは彼に言えなかった。


 大量の借金、貯金無し、夜逃げ予定。


 客観的に見れば、だいぶまずい状況ではあるが、不思議とおれは落ち着いていた。きっと、正常性バイアスでも働いているのだろう。


「さて、どこに逃げようかな」


 青い空を見上げて、漂う白い雲の行き先を眺める。

あの雲は一体どこに行くのだろうか、雲について行けば借金から逃げ切れるだろうか。

 そんな事を軽く思ってみる。


 (とりま交通費とか野宿場所、いろいろと足がつかないとこを探さねぇと)


 スマホで「夜逃げ、やり方」と検索を打って調べてみると、いろいろと興味深い情報が出てくる。訳ありの奴らを匿うシェアハウスやら、使われていない山小屋に、楽して稼げる蟹工船。


「ははっ、んだよこれ」


 内容のおかしさと哀れな自分に変な笑いが出てくる。こんな事を調べたところで、夜逃げが確実に成功するわけではないのは自明であった。

ネットから安易に正解を求めてしまう自分が情けなくてしょうがない。


 (おれって馬鹿だなぁ……)


 もう今日は休もう。まだ18時くらいだけど、家に帰ってぐっすり寝よう。凝り固まった思考も休んだら、きっとまともに動くようにはなるだろう。


 ベッドに入りたいと思うと、アパートの階段を駆け登るスピードが上がる。しかし、自分の階につくと、なにやら小さい少女がおれの部屋の左隣のドアの前で突っ立っていた。

 はランドセルを背負っており、歳で言うと9、10歳くらいだろうか。


「えっ、なんだありゃ?」


 たしか隣の部屋の左隣は空き部屋だったはずだ。幽霊じゃないのかと、目をゴシゴシと擦るが、少女は依然としてそこに存在していた。


 (誇大市は治安が悪いで有名なのに、親は何やってんだか)


 少女が幽霊だろうが人間だろうが、おれには関係ない。あの少女に何かあったら、親が悪いのさ。おれは少女の後ろを無言で通り、ポケットから鍵を取り出して部屋の中へと入った。


「夜ご飯は……もういっか」


 鞄を床に投げ出し、私服のままベッドへと飛び込む。目を瞑ると、すぐに意識が暗い海へと沈む感覚がしてきた。なんだかんだで一日中歩き回っていたから体も疲れてんだな。


 次に目を開けると、きっとまぶしい太陽と青い空が俺を出迎えるだろう。









『タダヒラ、困っている人がいたら必ず助けろ。パンを売るのと同じだ。恩は先に売りに行け、待ってても買ってくれる人は現れない』


まったく意味わかんねぇよ



「………んあっ」


 昔、オヤジに言われた言葉の夢をみていたようだ。おれは落ちていた意識を取り戻し、ゆっくりベッドから体を起こした。スマホで時間を確認すると、どうやら1、2時間ほど寝てしまっていたらしい。

ふと気になったおれは、そのまま玄関へと向かい、ドアの覗き穴から少女がまだいるか確認する。


「うわっ、まだおるやん」


 少女は直立不動で立っていた、まるでマネキンのようにその場を動かない。

 不安になったおれは覗き穴から目を離し、部屋の電気をつけてリビングにある椅子へと腰掛けた。何気なしに、天井のしみを一つ一つ数えてみる。心なしか、2、3年前よりも天井のしみの数が増えているような気がする。


 (今の時代、大人が安易に他人の子供に触れちゃダメだからなぁ)


 別にあの子のことが気になっているわけではない。ただ、あの子が何か事件に巻き込まれたら、隣に住んでるおれもなんかアリバイを疑われそうで嫌だった。


 夜逃げする前に警察と関わると、いろいろと足がついちゃうかもしれない。


 (声をかけるか? いやでも防犯ブザーでも鳴らされたらやばいな)


 ブルン、ブルルッ!と遠くで走り屋が暴れている音が聞こえる。もう日は落ちて、月明かりが空から街を照らしていた。おれが住んでる誇大市は、夜になると誘拐やら暴行やらで一気に犯罪率が上昇するらしい。

 昔、大学で受けた講義の教授がそんなことを言っていた気がする。


「……恩を売って一体何になるって言うんだよ」


 おれは上から赤色のジャケットを着て、部屋の外へと出る。少女は人形のように整った顔を動かさず、冷たい視線だけをおれに与えた。その視線にゾクリと裏の首筋が震える。


「なぁ、結構前からそこにいるけど、大丈夫か?」


「………」


 少女はおれの問いに首を動かさず、うんともすんとも言わずに無言を貫いた。かなり大きい声で話しかけたのに反応が返ってこないので、「本当に人形なのかもしれない」と目の前の少女に疑問を持ち始める。


「寒いだろ? なんかあったかい飲み物でも出してやろうか?」


「………」


「えーっと、なんだ、親に電話かけたりしないのか? もしかして携帯持ってないとか……」


「………ダメ……」


「あん?」


 なかなか会話が始まらず、焦って早口で話しかけていると、ようやく少女は聞き取れないほどの小さい声で喋った。


「なんて?」


「……パパが知らないおじさんとはしゃべったらダメって言ってた」

「だから、しゃべりたくない」


「おれはまだおじさんって呼ばれる歳じゃねーよ」


 いきなり、「」と呼ばれ、脳に血が昇ってくる。おれ自身、そんなに老け顔ではないと思っていたから余計頭にきた。


「ってか扉の前で何してんだ? 1、2時間弱も」


「おじさんには関係ないでしょ」


「いや、おれは夜に子供一人だと危ないから聞いてるんだけど」


「おじさんの方があぶなく見える」


「あーはいはい、そうかよ。おれは危ないおじさんでーす。一生そこで突っ立ってろ、馬鹿野郎が」


 完全にブチ切れたおれは捨て台詞だけ吐くと、ドアをバタンと勢いよく閉めて中に入った。これだから子供は嫌いだ。いつだって癪に触るようなことしか喋らない。今時のガキは全員こうなのだろうか。

 部屋の電気を消して、再びベッドへと飛び込む。


 今度こそ寝る、絶対に寝てやる。

 しかし、目を瞑ると、もやもやとまた親父の後ろ姿が浮かび上がってきた。


『態度がでかい店のパンを誰が買うと思う?』


知るかよ、わかるように話せ。


『恩の押し売りは優しさとは言わないぞ』


「あー!! もう!!」


 頭をくしゃくしゃと掻きながら、ベッドから再び体を起こす。寝ようとしても、いつか聞いた親父の言葉を思い出して頭の中で反復する。親父の言葉はいつだってわかりにくいし、すぐにパンやら商売で例えようとするから苦手だった。


 (戸棚になにか無かったかな。お菓子とかあれば……)


 キッチンの戸棚をゴソゴソ漁るが、金が無いだけあって、戸棚の中もスカスカだった。そんなことより、子供を物で釣ろうとするおじさんってモロ不審者じゃないのだろうか。と不安になる。


「おっ」


 戸棚の奥に、何やら茶色の小袋があるのを発見し、手に取ってみる。小袋には「ミルクココア」と印字されており、カカオ特有の甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐった。


「試してみるか……」


 ココアを見ると、考えるよりも先に体が動き、ポットに水を入れて湯を沸かす。カップにスプーン4杯分の粉を入れ、そこに沸騰した湯をゆっくり掻き混ぜながら注いでいく。このままだと熱いと思うので、気持ち5分くらい冷ましてみた。


 (どうか、警察をよばれませんように)


 出来上がったココアを持って、ドアを開けてゆっくりと外へ出る。少女はまだそこにいたが、さっき会った時よりも距離を取られていた。


「さっきはキレて悪かった」

「夏の夜は冷えるだろ? ココアを入れてきたぞ」


「あやしいから飲まない」


「……別にいいさ、飲まなくても。手すりに置いとくから、気が向いたら飲みな」


 若干ぬるくなったココアを少女の近くの手すりに落ちないように置く。外の風は今の季節にしてはやはり冷たかった。おれはタバコの火をつけて、少女が誤って吸わない場所に煙をふーっと吐き出す。


「……なんでまだいるの?」


「お前のパパとやらが帰ってくるまでタバコを吸うだけだ。気にすんな」


「おじさん、気持ち悪いよ」


「………」


 子供の何気ない一言はなんでこんなにも攻撃力が高いのだろう。

 少女の言葉に喉仏の辺りが詰まり、ングッと喉を鳴らす。


「パパはいつ帰ってくるんだ? もう19時回るぞ」


「わかんない」


 少女は首を左右に振って適当に答える。

 おれだってそこまで彼女の生活について気になるわけでもないので、特に深入りしようとは思わなかった。そうこうしているうちに、5分、10分、20分と静かに時間だけが過ぎていった。


 五本あったタバコも吸い終わり、あとだけしか残っていない。


「ココア、冷めてるだろ? 入れ直してやろうか?」


「いい。どうせ飲まないから」


「そうか」


 おれはそれだけ言って、最後の一本を吸おうと口に咥えるが、寸前のところでそれを胸元にしまう。


 (最後の一本はまだ吸っちゃダメだよな)


 廊下にはおれと横にいる少女だけ。近くで通っている車の量も徐々に減ってきた。スマホを見ると「20:10」と表示されている。誰かが階段を上ってきている様子もまったく無かった。


 このままじゃ拉致があかない。


「なぁ、家の鍵とか貰ってないのか?」


「………」


「もしかして、とかさ」


「………っ!」


 一瞬、本当に一瞬だが少女は目を見開き、おれの言葉に強く反応した。それを見て、「おいおい、マジかよコイツ……」と内心で驚く。無反応を貫いていると、返って図星を突かれた時の反応がわかりやすいものなんだな。

 おれは溜息を吐いて、膝を下ろして少女と目線の高さを合わせる。


「どこに落としたんだ?」


「落としてない」


「ということは落としてはないけど、パパから鍵は貰ってるんだな」


「も、もらってない!」


「いやちょっと待てよ。お前のパパは鍵を渡さずに、夜遅くまで扉の前で待たせるのか?」


「……」


 何も言い返せなくなった少女は下を向いて黙ってしまう。少し、意地悪な聞き方をしてしまっただろうか。少なくとも昨日、一昨日はこの通路に夜遅くまでこの少女は突っ立って居なかった。となると、今日に限って何かしらの問題がこの少女に発生したと考えるのが妥当だろう。


「いつ落としたか覚えてるか?」


「……わかんない。気づいたら落としてた」


「はぁ〜マジか。今日はどこを通って帰ってきた?」


「……矮小駅から誇大川……」


「ここから徒歩15分くらいだな。何か目印になるものはついてるか?」


「付いてない」


 厳しいな。

 何か目印になるようなものがあったら探しやすかったのだが。でも、もしかしたらまだ発見されてなくて、地面に落ちたままかもしれない。顎に手を添えて考えた末に、一つの折衷案が思い浮かぶ。


「じゃあ、おれが一気に矮小駅まで15分くらい走って探してくる。お前はここでパパを待ってろ」

「もし、探してる間にパパが帰ってきたら、すぐに事情を説明するんだぞ。いいな?」


「……うん……」


「大丈夫だ、すぐに見つけてきてやる」


 おれは泣きそうになっている少女にそう声をかけて、階段を一気に駆け降りる。出来るだけ早く探して戻ってこなければ。少女を一人にして置いてきたのが不安でしか無かった。


 (警察に預けたかったけど、今はダメだしなぁ)


 矮小駅まで走りながら、道の端や下水溝にキラキラと反射する物が無いか目を光らせる。たとえ暗闇であっても、鍵は月の光に反射しているはず。ハァ、ハァ、と口を大きく開け、息を切らしながらも足を動かした。

 ここ2、3年ほど運動していなかったから、ちょっと走ったら呼吸が苦しくてしょうがない。あの少女の言う通り、おれはもうおじさんなのかもしれない。


「くそっ……!」


 走って6分ぐらい経った頃、ようやく矮小駅へと辿り着いた。呼吸はハァハァではなく、ゼェゼェに切り替わっている。もう全身汗だらけで、サウナからあがったみたいになっていた。


 最初に見つけた駅員さんを捕まえ、ここら辺で小さい鍵が落ちていなかったか聞いてみる。


「あぁ、それなら。ちょっと待ってくださいね」


 何かを思い出した駅員さんは事務室へと入って行き、数分後、銀色の鍵を持ってやってきた。


「夕方ぐらいにモノレールのホームに落ちてるのを発見しまして。これでお間違い無いですか?」


「……ゼェ、ハァ…はい……たぶん、それです……」


 鍵の形状はおれの部屋の鍵と似ており、一目見てウチのアパートのものだとわかった。どこにも落ちてないなと思ったら、あの少女ガキ、駅のホームに落としていやがった。


 (そりゃ、見つからないわけだ)


 その後、駅員に事情説明して遺失物届を提出し、トコトコと息を整えながらアパートに帰ってきた。


 時間はもう21時の半ばを過ぎた頃だろうか。

 階段を登って通路に出ると、少女は扉の前でうずくまっていた。結局、探している間にパパは帰ってこなかったらしい。少女は俺が来た様子に気づくと、むくりと首をゆっくり上げる。


「おーい、鍵あったぞ!」


「ほんと……?」


「ったく、もう落とすなよ」


 俺は銀色に光る鍵を少女に手渡す。

 しかし、何か目印のようなものが無ければ、また落とした時に探しづらいな。


「あっ、そうだ。ちょっと待ってろ」


 アレを思い出したおれは部屋に戻って、押し入れの奥をガサガサと漁る。確か、大学を入学した時に貰ったアレがあるはずだ。あまり時間はかからず、探していたお目当てのものはすぐに見つかった。


「次無くしたら困るから、これを鍵につけとけ」


「なにこれ?」


 おれが少女にあげたのはモルタルボードを被った象のストラップだった。


「かわいいだろ? 名前はくん、だったかな」


「……へんなぞうさん」


「そうか? おれは気に入ってるけどな〜」


「……わたしもう、帰る……」


「お、おう。そうか、これからも気をつけるんだぞ!」


「………」


 少女は鍵を挿して、ガチャリとおぼつかない動きで扉を開ける。何時間も寒い外にいたから疲労がたまっているのだろう。


「おじさん」


「ん?」


「……ありがと」


 扉が閉まる直前、彼女が細くて小さい声でそう言ったのをおれは聞き逃さなかった。それに暗くて見えにくかったが、彼女の顔は笑っていたように見えた。


「うぅ……寒っ!」


 走り回った汗が夏の夜風で乾き、寒さでくしゃみが連続で出る。

 くしゃみの音がおれ一人となったアパートの廊下を素早く突き抜けていく。


 (今日は温かいココアを飲んで寝よう)


そして手すりにカップを置いていたのを思い出し、カップを持ち上げると、中に入っていたココアは飲み干されて

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「もし」と「まだ」のスペクトラム 羅・ダラダ @radarada

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