第25話 逃げる
「……タイムっ! タイム睦美!」
桐華が声を上げて、ようやく睦美は我に返ったように手を放してくれた。肩を上下にして、体内に酸素を送り込む。
「睦美は、背が高くって、足も長いんだから。歩幅とか、ちょっとは気にしてよ」
「……ごめん」
睦美は額に浮かんだ汗を拭う。インドア派なくせに、息を乱しているようには見えなかった。ちょっとズルい。
「さっきの二人って、知り合い?」
桐華の問いかけに、睦美は静かにうなずく。
「うん、ゼミの仲間」
「そうなんだ。だからって急に逃げなくても」
睦美は口ごもって、俯いてしまった。表情が暗がりに隠れる。いつしか街中が茜色に沈みつつあった。
自分の殻に入っちゃったかな、と桐華は思った。だが、その殻は意外とすぐに開いた。
「ごめん……。逃げるのは癖、というか習性なの。小さい頃から、ずっと人目や自分から逃げてきたから」
「……どういうこと?」
桐華は首を傾げる。睦美が一つ息をはいた。
「私は、二親が有名だったし、幼少期からプログラミングとか仕込まれてきたから、学校に上がる頃にはもう注目ばかり。サラブレッドだとか何とか、褒めそやされて。
でも、それのせいでなんだか敬遠されてたし、実際は嫉まれていたのかもしれない。
周囲はよそよそしくて、かと言って親は家にいない。正直、ずっと寂しかった。それでいて、そんな弱音を吐ける相手もいなかった。
だんだん人の目に触れる場所に行くことも嫌になって、私は〈リトルバード〉とか、できた当初の〈バブル〉とかに逃げ込んだの」
睦美の一人語りに、桐華は相づちを挟む間もない。ただ傾聴するばかりだ。
「そこでイルさんやアイちゃんの兄妹と出会った。自然に接してくれる二人といるのは、心地よかった。三人でいるこの世界が、ずっと続けばとか思ってた。
だけど、あるとき〈バブル〉の遊戯施設でアイちゃんがはぐれて、それを必死に探すイルさんを見て、所詮は二人と一人に過ぎないんだって思い知らされたの。
その後、アイちゃんは見つかったけど、泣き疲れてふて寝しちゃった彼女を、イルさんが背負って帰って行った。私も〈バブル〉から出たら、家は真っ暗で私は独りぼっち。
はっきり言って、二人が妬ましく思った。同時にそう思ってしまう自分に、最高に嫌気が差した。こんなにしんどくなるならって、それきり二人に会うこともやめてしまった。
それからは、家に引きこもって仕事して、外に出たくなったら人目のない那智の山を散歩して。そんな毎日を過ごしていた。
だれに見られることもなく、自分の感情も乱されない、そんな境遇に逃げ込んだの」
ここで睦美は、肩を緩めるように一度上げ下ろしした。
桐華は、口の端に労りの笑みを浮かべる。
「……それは辛かったよね。だからこそ、辛くならないように、頑張ってきたんだね」
桐華は覗き込むようにして、睦美の顔を見上げる。
「それじゃ、どうするの? 今回もまた逃げちゃう? しばらく引きこもって、人の噂をやり過ごすのも、ありかもしれないけど」
睦美がどうと答える前に、桐華は腰に手を当てる。
「ちなみに私は逃げるつもりはないよ。だって、ちょっと関与があっただけで疑われてさ、名誉毀損だよ。なんとしてでも挽回しないと」
「……私は……」
睦美が口を開きかけ、一度閉じた。桐華は待った。夕べのやや冷たい風が、二人の間をゆっくりと吹きすぎる。
だが、睦美はゆるゆると首を横に振った。
「……だけど、私たちに何ができるの? たぶん、見張られているとは言わずとも、マークはされてるはず。下手に動くと、余計に怪しまれる」
「いやいや、それは被害妄想でしょ。それに怪しまれたって、先に結果を出しちゃえば文句は言われないでしょう?」
睦美が目を丸くする。桐華の言いたいことが分かったのかも知れない。
「桐華、もしかして……」
「そうだよ」と桐華は胸を張る。「私たちの手で、犯人を探り当てるのよ!」
デジタル魔術〈マギア〉殺人事件 山下東海 @TohmiYA
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