Episode003:最後の話

(no name)

Episode003:最後の話



「人は誰でも、三つの秘密があると言いさあ」

「私はなにも やましい ことなど」

「そう むき にならねえでくだせえ。物の例えでさあ」


そう言って、亭主は二杯目のスコッチウィスキーのグラスを、四角い紙のコースターの上に置いた。


雨が降ってきたみたいだ。

風も強くなってきたようで、たまに酒場はガタガタと揺れ、亭主の後ろに並んだ酒のボトルが、カチカチと揺れた。

紳士がこの町外れにある酒場に入ってきた時よりも、外は激しさを増している。どうやら嵐になりそうだ。


しかしこの、町外れにあるマッチ箱のような酒場に入ってきた時よりも、紳士は幾分か気分が良くなった。スコッチウィスキーのおかげだろうか。客は、この英国然とした紳士のほかに誰もいない。二杯目のスコッチウィスキーに口をつけてから、紳士は言った。


「君はさっき、人は誰でも三つの秘密があると言ったが、あるのかね。君にも」

「そりゃあ、わっちも人ですから」


鼻で笑って、亭主は言った。


「秘密のひとつやふたつや三つぐらい」

「聞かせてくれないか」

「人の秘密を聞きたがるとは、あまり趣味がいいとは言えませんぜ、旦那どの」


擦り切れた前掛けをした亭主のたしなめるような物言いに、紳士は気分を害した様子もなく、言った。


「なあに、こちらは旅の途中。一刻も早く目的の地に辿り着きたいと願うのに、不運にも町外れの小さな酒場で 雨宿りときている。ロンドンでもないのに」


亭主は鼻で笑った。


「しかしながら」


紳士は続けた。


「しかしながら、これもまた旅の一興。ならば一期一会の刹那で、なにか気の利いた思い出話も酒と一緒に作ってくれるのが、もてなし と 言うものではあるまいか」


自分でも不思議に思うほど饒舌になっていた。


「旦那どのがそこまで言うのなら」


亭主はしぶしぶうなずくか、断るかと踏んでいたが、まんざら でもなく言った。

紳士は満足そうにうなずき、亭主に自分と同じ酒をふるまった。


「三つのうち、どの話がいいでさあ」

「それはむろん決まっているだろう」


紳士は言った。


「むろん」


紳士は繰り返した。


「旦那どののようなお方には哂われるかもしれやせんが」

「哂ったりなどせんよ」

「ある女に恋をしたんでさあ」


亭主は言って、琥珀色の液体を舐めた。


「ほう」


紳士はさも興味をそそられたかのように相槌を打ち、それでいて亭主が話しやすいように、控え目に自分もグラスを傾けた。


「それがいい女で」

「令嬢か?それとも百貨店の売り子か?」

「いやあ、商売女でさあ」

「ほう。売春婦か」


紳士は言った。


「結婚の約束をしてたんでさあ。贈り物もしたし、言われるがまま金も渡した」


突然、外が昼間のように明るくなった。そして、大粒の雨がはめ込み式の窓のガラスを激しく打ち始めた。


「ところが待てど暮らせど、一向にわっちの元へ来ることはなく、その気のある素振りを見せるだけ。そこでわっちは女の仕事が終わるのを待って、後をつけた。するとその女、とうに結婚してたんでさあ」


耳をつんざく轟音に、紳士は身をびくつかせた。どうやら近くに落ちたらしい。


「ちょうど今晩のような、生ぬるい突風が吹き荒れて、大粒の雨がアスファルトを打ち付けては跳ね返る晩だった。雷の轟音に、つい、かっとなって」


「殺ったのか」


紳士は訊ねた。


「そんな度胸はねく」


亭主は首を振った。


「そうか」


紳士はうなずいた。紳士は亭主にもう一杯同じものを促したが、亭主はそれを断った。薄明かりの酒場でもわかるほど、亭主の顔は赤かった。


「お前を騙していたのだからな」


「いやあ、女の嘘など呼吸をするのと同じことだ。いちいち咎めていたらこっちの息がそれこそ続かねえ。ましてや商売女との口約束など」


亭主はかぶりを振った。


「確かに」


紳士は認めた。


「しかし、実際に息の根を止めなかったからよかったものの、わっちの心は人殺しと同じでさあ」


亭主はなにかを憂うように、激しく降りつける雨でなにも見えなくなった、丸い窓の外を見た。


「今思えば、そこまでいい女だったわけでもなく、あんなただの あばずれ を、まるで女神のように特別な女だと勘違いしていたことが、今では自分で自分が不思議でならねえ。あんなただの あばずれ を」


自嘲気味に、亭主は鼻で笑った。


「まあ、言ってみても、体がよかったのだろうと言われれば、それまでの話で。まあ、旦那どののようなお方にお話しするにはあまりにも低俗で、つまらん話には違いやしやせんが」


「そんなことはない」


紳士は否定した。


「とても、身のある話だったよ。これ以上のもてなしがあるだろうか。五つ星ホテルのバーテンときたら、皆一様に 能面 で、腹の内じゃなにを考えているのかまるでわからない、まるでヒトに近づけ過ぎたロボットと会話しているようだった!これ以上のもてなしを、私は受けたことがない。これ以上のもてなしを、私は受けたことがないのだよ!」


紳士は饒舌に語り、二杯目のスコッチウィスキーのグラスを空にした。


「最高のもてなしをしてもらった礼に、私の秘密をひとつ打ち明けよう」


空を砕き割るような爆音が響き渡ったが、紳士はもう、身をびくつかせたりはしなかった。


紳士は旅行鞄から新品の葉巻を取り出してちぎり、『the OUTSKIRTS of the WORLD(世界外れ)』と、酒場の名入りのペーパーマッチをこすって、火を点けた。


亭主が三杯目のスコッチウィスキーのグラスを、四角い紙のコースターの上に置いた。


「実は会社が不渡りを出してね、倒産すんでのところまで追い込まれたのだが、なんとか持ちこたえられそうなんだよ。どうやって持ちこたえたかって?なあにそれは、ふたつ目の秘密さ。三つ目の秘密と一緒に、墓地まで持っていくつもりだよ」


スコッチウィスキーのおかげか、嵐のおかげか。それともこの、ハワイ産の葉巻のおかげか。紳士の気分はとても良くなっていた。


この様子なら世界は一度終わるだろう。


紳士は、公的書類を改ざんしたが、世界が何度終わろうと、目的の地の途中にある酒場に立ち寄る限り、墓場には辿り着かないことに、気付いた。しかし、その公的書類を置き忘れた酒場の名は。それが、思い出せない。



<了>

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