押し出される チェーホフ『桜の園』

◆ご挨拶

こんにちは、だいなしキツネです。

今日は、光文社古典新訳文庫全部読むシリーズの一環として、チェーホフ『桜の園』を台無し解説していくよ!

 

◆チェーホフとは?

アントン・チェーホフは、1860年にロシアで生まれた小説家、劇作家だよ。父方の祖父は農奴だったけれど、領主に身代金を払って自由を獲得したそうだ。つまり、当時のロシアにおける新興の階級だったということだね。チェーホフ自身は、モスクワ大学の医学部を卒業し、医師の資格を取得。作家活動と並行して医師としても活動していたようだよ。

チェーホフは実に個性的な作家だ。小銭稼ぎのために、当初は色んなペンネームを用いてユーモア短編を書き散らかしていたのだけれど、あまりにも文才があるので批評家から「真面目に書きなよ」と諭され、少しずつ創作に本腰を入れ始めた。しばらくはレフ・トルストイの影響を受けた作品が多かったものの、次第にその影響からも脱し、1895年以降に書かれた戯曲『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』などは演劇史に残る傑作となる。そして、1904年、チェーホフがこの世を去る年に初演されたのが、今日ここで取り上げる『桜の園』だ。

 

◆桜の園とは?

美しく咲いた桜の園に、当主の夫人が帰還する。しかし、この桜の園は、夫人が抱えた負債のため、間もなく競売にかけられることになっていた……。

これが『桜の園』の導入だよ。ちなみにここでいう桜とは、サクランボのことだよ。

『桜の園』には、「四幕の喜劇」という副題がつけられている。実は、この作品を喜劇と呼ぶことの意義が、従来から論争の的なんだ。この作品の初演を演出したスタニスラフスキーは、これを真面目な劇、悲劇であると捉えた。その演出プランに則って演じられた初演は大喝采を浴びることとなる。しかし、チェーホフ自身はその状況を大層不満に感じていたという。チェーホフにとっては『桜の園』はあくまで喜劇、もう少しいうと、ファルス(※お笑いコント)でありヴォードヴィル(※大衆向けのショー)だった。

それでは、ここからはもう少し詳しく『桜の園』のあらすじを追って、この作品がいかなる意味で喜劇であり得るのかを考えていこう。

 

第一幕

いまも子ども部屋と呼ばれる部屋。明け方、間もなく日が昇る。すでに五月で、サクランボの花は咲き誇っている。

当主のラネフスカヤが5年ぶりに桜の園に帰ってくる。

 

ラネフスカヤ ほんと、私、帰ってきたのね? (笑い声を立てる)はねまわって、両手を振り回したい気分だわ。(両手で顔をおおって)夢じゃないかしら! ほんと、私は自分が生まれたこの国が好き、とっても好きなの。汽車の窓からながめていられなくて、ずっと泣きどおしだったわ。(涙声で)それはそうと、まずコーヒーをいただかなくてはね。

 

娘のアーニャらも一緒に帰宅する。留守を任されていた養女のワーリャとは久々の再会となる。商人のロパーヒンがラネフスカヤを出迎える。彼はラネフスカヤと懇意にしており、桜の園が八月には競売にかけられてしまうということを心配している。ロパーヒンの父はかつてラネフスカヤの父の農奴だったが、ロパーヒンはラネフスカヤに親身にしてもらったことがあり、感謝しているのだ。彼は、桜の園を別荘用地に開発し、別荘として貸し出すことを提案する。しかし、ラネフスカヤやその兄ガ―エフは、これを非現実的だとして否定する。この桜の園は百科事典にも載っている由緒正しいもので、ラネフスカヤたちにとっては思い出がたくさん詰まった土地。開発して貸し出すなんて考えられないようだ。彼女たちは、娘のアーニャを金持ちに嫁がせるとか、仲の悪い親戚にお金を無心するとか、益体もないアイデアを捻り続ける。

かつて子ども部屋であり、今も子ども部屋と呼ばれるこの部屋に、子どもはひとりもいない。

 

第二幕

野原。長らく手入れされていない礼拝堂の前。やがて日没というとき。

屋敷の使用人たちが思い思いに暇を持て余している。そこにラネフスカヤ、ガ―エフ、ロパーヒンがやってくる。第一幕からひとしきり時間が経ったようだが、借金返済の算段はついていないようだ。ロパーヒンはしきりに別荘地として貸し出すことを勧めるが、ラネフスカヤらは関心をもたない。ロパーヒンの必死の訴えをほとんど聞いていないかのようだ。ロパーヒンはその様子に困惑を隠せない。

 

ロパーヒン 失礼ですが、お二方のように能天気な、世事にうとい変人は見たことがありません。ちゃんとロシア語で申し上げているじゃありませんか、この領地は競売にかけられているんだと。それなのにお二人とも何も理解しようとなさらない。

ラネフスカヤ じゃあ私たちはどうすればいいのよ? 教えてよ、どうすればいいか。

ロパーヒン 毎日お話ししているじゃないですか。来る日も来る日も私が申し上げているのはひとつのこと。この桜の園も土地も、別荘地になさいと。すぐさま、一刻の猶予もなく――

ラネフスカヤ 別荘だとか別荘地だとか、こう言っちゃなんだけど、いけ好かないわ。

ガ―エフ まったく同感だね。

ロパーヒン ああ泣きたくなってきた、大声を出しそうだ、気が遠くなる。もういやだ! お二人に振り回されてくたくただ!

 

こんなふうだけど、ラネフスカヤはロパーヒンを嫌っているわけではない。むしろ、彼と話していると気が晴れるそうだ。ラネフスカヤは心の中に罪の意識を抱えている。彼女はこらえ性もなく散財してきた。嫁いだ男は借金をこさえるしか能のない男だった。そいつはシャンパンを浴びるほど飲んで勝手に死んだ。ラネフスカヤは他の男を好きになった。それもろくでもない奴だった。その頃、息子が川で溺れて死んだ。彼女は川を見たくないという一心で外国に逃亡した。すると、男があとから追いかけてきた。そして病気になった。彼女はその看病でくたくたとなった。男は回復すると、他の女のもとへと去っていった。ラネフスカヤは毒をあおったが生き延びた。そして故郷に戻ってきた。

生きることはとても困難だ。ラネフスカヤには、もはや現実を直視する力が残されていないのかもしれない。彼女はふと、ロパーヒンに結婚を勧める。その相手には養女のワーリャが相応しいのではないか。ロパーヒンは否定もせず、肯定もせず。時間だけは闇雲に過ぎ去っていく。

 

第三幕

シャンデリアがまたたく客間。控えの間からは楽団による演奏が聞こえてくる。夕刻。大広間で大円舞(グラン・ロン)が踊られる。とはいえ、出席者は芳しくない。いつものメンバーのほかには駅長や郵便局員がいるぐらいだ。かつては国中の名士が集まったこの館のパーティも、今ではいかにも侘しい有様。

まさにこの日、桜の園は競売にかけられている。ラネフスカヤはその結果を恐れながら待ち受ける。結果はガ―エフが持ち帰ってくるはずだ。

すると、ロパーヒンが少し酔った様子で客間にあらわれる。ガ―エフもまた青ざめた様子で帰宅する。

 

ラネフスカヤ 桜の園は売られたの?

ロパーヒン 売れました。

ラネフスカヤ で、だれが買ったの?

ロパーヒン 私が買いました。

 

ロパーヒンは狂ったように競売の様子を語り始める。桜の園は自分のものだと叫ぶ。農奴の子どもが領地を買った。これから桜の園に斧をふるう。木という木が大地に倒れ伏す。そこに別荘を建て、孫もひ孫も新しい生活を目にすることだろう。

 

ロパーヒン どうして、なんだって私の話を聞いてくださらなかったのです? かわいそうな奥さま、大切な大切な奥さま、もう取り返しはつかないんですよ。(涙を浮かべて)ああ、こんなこと、一刻も早く過ぎ去ってほしい、こんならちもない、よろこびのない生活なんてとっとと変わってしまえばいいんだ。

 

勝利者であるはずのロパーヒンこそがもっとも激しく慟哭している。ラネフスカヤを娘のアーニャが慰める。

 

アーニャ ねえ、ママ、ここから出ていきましょう!……そして私たちで新しい庭を作りましょうね、いまよりもっともっと豊かな庭をつくりましょうね。それを目にしてママははっと気づくの、おだやかで深いよろこびが、たそがれ時の太陽のように、ママのこころを満たしてゆくの。そうしてママはうっとりほほえむの! さあ、行きましょう、ママ! 行きましょう!……

 

第四幕

子ども部屋。第一幕と同じ場所。わずかに残る家具は、まるで売り物のように部屋の隅に片づけられている。

ラネフスカヤはすでに新しい生活に向けて晴れ晴れとした様子を見せている。以前住んでいたパリにまた戻るようだ。ガ―エフは銀行に働き口を見つけた。いったん桜の園が売れてしまうと、みな気持ちの整理がついてしまった。最後にラネフスカヤは、ロパーヒンに助言する。ワーリャに求婚しなさいと。いざロパーヒンとワーリャが二人きりになると、彼らは他愛のない雑談をして別れた。ワーリャはさめざめと泣くけれど、このすれ違いは『桜の園』に散りばめられた無数のすれ違いの一コマに過ぎない。ワーリャはすぐに気持ちを切り替えて、ラネフスカヤを見送る。一家は晴れやかにこの家を出立する。しじまの中を木を伐る斧のくぐもった音が、ひっそりと侘しく響く。

一人、忘れられていた人物がいた。この家の召使で、87歳にもなるフィールスだ。彼は大昔からラネフスカヤの家に仕えており、今では病に冒されていた。彼は誰もいなくなった子ども部屋で横たわり、ぴくりとも動かなくなる。遠くから、ただ木を伐る斧の音だけが聞こえてくる。

 

◆主題としての喜劇

以上が『桜の園』のあらすじだよ。ラネフスカヤの桜の園が失われてしまったという点に着目すると悲しみを感じるけれど、彼女を含めた多くの登場人物が新しい生活に向けて巣立ったと考えれば喜びもある。役割を終えた桜の園は新たに別荘地として開発される。最後に横たわるフィールスでさえ、次の世界に旅立ったとみることができるだろう。響き渡る斧の音は、桜の園とともに最期まであった彼だけを包む弔鐘だ。

従来、『桜の園』をめぐる議論は、その主題性については悲劇が、その表現方法については喜劇が取り沙汰されることが多かった。悲劇的な内容ではあるけれどもコミカルに演じられることで、その内容のおかしみとかなしみ、深みが強調されると考えるんだね。表現方法が喜劇的であるべきだという主張について、キツネに異論はない。ラネフスカヤにいかに悲しい過去があろうとも、徹頭徹尾現実逃避する彼女の態度は滑稽以外の何ものでもなく、その通りに演じてあげないことには馬鹿馬鹿しくて見てられない気がする。その他に注目すべきは、この作品の台詞や行動にはノイズが多いこと。会話はしょっちゅうすれ違うし、すれ違う会話自体が様々な生理的欲求によって中断される。真面目な話をしている真っ最中にきゅうりを食べ始める人とか出てくるよ。これは、台詞や行動といった演技が、形而上学的な意味の体系ではなく身体的なリズムに則っていることを示唆する。高尚なカタルシスに向かって意味を積み重ねるのではなく、あくまでも舞台上の現実の面白さにとどまろうとするんだね。つまり、この作品はダンスやパントマイムといったパフォーマンスに近いんだ。その辺りが、チェーホフの強調していたヴォードヴィルの性質を反映しているのかもしれないね。

ただ、キツネが指摘しておきたいのは、やはりこの作品は、方法的側面だけでなく、主題的側面においてもなお喜劇的だということだ。主題的な次元において、悲劇が喪失や後退を表現するとしたら、喜劇は獲得や前進を表現する。その点、『桜の園』は確かに前進している。先ほど述べた通り、ラネフスカヤたちは新たな生活に向けて前進している。それだけじゃない。おそらくチェーホフが描いたのは、人類全体の前進のあり方だ。キツネたちは仮に確固たる意志がなかったとしても、やむにやまれぬ事情によって前進してしまう。言い換えると、世界や社会、環境や自然の状況によって前に押し出されてしまう。人間の、ひいては生物の存在の条件は、〈押し出されること〉に他ならない。決して立ち止まり続けることはできない。チェーホフの喜劇はこの残酷な事実を暴き立てる。押し出された先でどうなるのか、それはその人次第だろう。思いがけない出会いがあるかもしれない。予期しない発見があるかもしれない。残酷な困難に直面するかもしれない。あるいは、その内実を誰も知らない〈死〉というものと向き合うことになるのかもしれない。いずれにせよ、前に進むこと。これがチェーホフの喜劇だ。

チェーホフは「どこにも行けない」という感覚を描いたり、「合理的な行動が何もとれない」という無力を描いたりしたため、不条理劇の先駆けであると論じられることがある。チェーホフの演劇のパフォーマンスに着目すると、この指摘は余計に説得力を増すだろう。しかし、敢えていうなら、キツネは反対の立場だ。チェーホフは、不条理劇の先へと前進してしまっている気がするよ。チェーホフの場合、ただ待つだけでも、存在はどこか未知の場所へと旅立ってしまう。それは、不条理劇が入念に破壊してみせた因果律や、丹念に築き上げた閉塞状況をも乗り越えて、なんだかわけのわからないフワフワした場所へと観客を連れていく。まったくもって未知なるもの。それを希望と呼ぶか、恐怖と呼ぶかは、やはり観るもの次第というべきか。

 

◆遠いものの表現

さて、存在は何かに向かって押し出される。その何かとはなんだろうか。それは眼の前に無いもの、遠くにあるだろう何ものかだ。

チェーホフの演劇には、視界に入らないものが、ただ遠くから聞こえてくるという状況が多用される。第四幕の伐採の音が象徴的だ。それ以外にも、例えば第一幕では子ども部屋の外から様々な会話が聞こえてきて、居合わせない人の存在を感じ取れる。第三幕の客間に響き渡るのは、舞台上に存在しない楽団の演奏だ。これらによってチェーホフの演劇はその見かけ以上に立体的になる。この遠近法は、視覚ではなく聴覚によってもたらされる。わたしたちは世界を視るだけではない。それを聴き取る力がある。眼の前のドタバタ喜劇を眺めながら、より遠いものへの想像力を働かせること。それが『桜の園』というお芝居だ。〈見えない〉ことによって〈何かがある〉という事実が確証される。こうしたパラドクスをさりげなく活用してみせるのは、チェーホフが本質的にユーモラスな作家であり、喜劇作家である所以だろう。そして、この喜劇にこそ、〈どこか遠いところへと押し出されていく〉という人間存在への告発が潜んでいるのさ。

 

というわけで、今日はチェーホフ『桜の園』を台無し解説してみたよ。

ちゃんと台無しになったかな??

それでは今日のところはご機嫌よう。

また会いに来てね! 次回もお楽しみに!


◇参考文献

チェーホフ『桜の園/プロポーズ/熊』(光文社)

神西清「チェーホフ序説」

沼野充義『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』(講談社)

浦雅春『チェーホフ』(岩波書店)

佐藤清郎『チェーホフ劇の世界』(筑摩書房)

ソフィ・ラフィット『チェーホフ自身によるチェーホフ』(未知谷)

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