2.フラッシュバック

 大学の後輩を家に招き入れた。インターホンの画面越しに秋野は、貸していた本の表紙を無言で掲げて見せた。返しに来たのだと、彼女は思った。


 気遣ってティッシュペーパーを箱ごと手渡したが、外から来た秋野は鼻をかまなかった。


「花粉症は? 大丈夫なの」


 彼女が心配して尋ねると、秋野は首を横に振った。


「山、山崎先輩は」


 秋野は大急ぎで1人暮らしの先輩の家にやって来た。鼻詰まりゆえに口呼吸を余儀なくされていたため、喉が乾燥して仕方がない。


「先輩は、どうですか。大丈夫ですか」

「私は花粉症じゃないの、秋野は知ってるでしょ」


 サークルの後輩が声を出すのも苦しそうにしているのを見て、去年以上に彼の花粉症が悪化している事を山崎は悟った。

 前回、彼女が秋野を家に上げてから半年以上経過している。本を貸したのは大学のカフェテリアでだ。わざわざ家にまで来なくても、明日、大学で返してくれれば良かったのに。と彼女は思ったが、口には出さなかった。ドアを開けて入って来てからずっと、辛そうにしていたからだ。

 目が泳いでいる。


「何か飲む? 秋野が好きなの置いてないけど」


 山崎は冷蔵庫に飲み物を取りに行った。その間、秋野は何かを考え込むようにじっと、宙を見つめている。


「もしかして、泣いてる?」


 壁の方を向いて動かない秋野の姿を見て、彼女は尋ねた。彼の顔の、マスクに覆われていない部分が左の目を中心に、涙で濡れているように見えたのだ。


「ははは、泣いてるわけ、無いじゃないですか。花粉症ですよ。目が痒いんです。僕が花粉症なのを知っているくせに、ひどいな」


 否定する秋野の顔が山崎先輩を見上げるように動いた。


「良かった。でも、変だよ。右側と左側で、随分と目の症状が違うね。花粉症ってよく知らないけど、そんな風になるの」


 冷たいお茶の入ったマグカップを手渡して、山崎は彼の顔を覗き込んだ。


 様子がおかしく見えたのは、彼の充血し目脂まみれになっている左目を泣いているのだと山崎が勘違いしたのに対して、右目は全く何ともないように見えたからだった。非対称の2つの目が山崎を見上げている。


「さっきスマホで見たけど、大学から私が帰ってから、そういえば火事があったんだって。知ってた? 図書館の近くのボロ小屋で不審火だって。あそこ使ってるサークルの人がすぐに気がついたみたいで、燃え広がらなかったらしいよ」


 花粉症から話題を変えようとして、世間話を振るつもりで彼女が出したのは、2人が通っている大学で発生した小火騒ぎの話題だった。以前、彼があまり花粉の事について話したがらなかったのをようやく思い出した山崎は、うっかり「ひどいな」と言われてしまった事もあって、気まずい。


 一方、秋野はしきりに右目を気にしている。彼が花粉症であるにもかかわらず、きれいな方の右目だ。


「駄目だなあ、よく見えないや。藪医者だよ、何も言ってくれなかった――」


 マスクを下側からずらしてお茶を飲み干した後、左目を片手で塞ぎ、空いている右目で何かを見ようとしている。


「え?」

「助けてくれませんか」


 今度は、右目を擦っている。


「何を?」


 彼のマグカップを持つ手が、小刻みに揺れていた。


「あの時思い出したんです……塗り替えさせて下さい」


 秋野が立ち上がる。そして、先輩の肩を掴み、揺らし、押し倒そうとした。


「ちょっと!」


 山崎が戸惑っている間に、秋野は抵抗する彼女の肉体を支配しようとして、額の上の方を目掛けマグカップを振り下ろした。1度目は力加減が分からず、軽い音がしただけ。


 山崎は、突然の暴力性を発露した後輩の目の中に、何かを見た。焦点の定まらない右目の暗い瞳の奥に、針状の影のようなものが揺れていた。ついに重心を崩して足元のカーペットに手と腰をついた彼女は、迫る秋野の顔を遠ざけようとするも、上手くいかない。そのまま、組み伏せられてしまった。彼の表情は、怯えと興奮が入り乱れた、山崎がこれまでに見たことの無いものだった。



 指先の血を見つめたときに思い出した光景は、まず、彼の体に覆い被さった化け物のごつごつとした影だった。



 再びマグカップで頭を殴ろうとした彼は、手を滑らせて鈍器を取り落とした。柔らかい音を立ててマグカップがカーペットの上に転がる。

 力ずくで抑え込まれる状況を脱しなければ、何をされるか分かったものではない。それだけは理解している山崎の頭は、無心でマグカップを彼女の手中に奪い取らせ、反撃した。



 布団に横たわる秋野が目を覚ますと、息苦しさの他に、耳鳴りがした。そして、ベランダに通ずる引き戸が動き、カーテンが激しくざわめく中、金縛りによって動けない。身動きの取れない秋野をよそに侵入するそれは、月光を背に、影のように揺らめきながらどこまでも伸び続け、天井に枝を這わせる。



「待って、行かないで、くれ! このまま死にたくない!」


 頬骨を殴打されて怯んだ秋野を押し退け、彼女は逃げ出した。秋野が掠れた声を張り上げるのを尻目に、山崎は玄関へと急ぐ。隣の住人が通報してくれている事を脳裏で期待したが、僅かな可能性だ。防音に優れた部屋を借りた事を、彼女は初めて後悔していた。



 声が出ない。安全なはずの自室の中で、意識はあるのに動く事のできない状況が引き起こす恐慌状態。秋野の脳をそれだけが満たしていた。開いた窓から轟音が彼の部屋の中へ吹き抜ける。真夜中の住宅街に、気配は秋野自身を除けば今、見開かれた両目に映る何者かの影だけだった。



 半ばパニックになった状態で、スマホを忘れた事に気づいた山崎は、玄関のドアへ真っ直ぐ向かうのと同時に引き返そうとした。山崎は靴を履かずにそうしようと思えばドアノブへ、あと少しで手が届くところまで来ていた。外へ逃げ出すか、警察に通報するか。同時に遂行する事のできない行為を両方掴もうとした彼女の思考は、つまり、足がもつれる結果を生じさせた。


「来るな、来ないで」


 片方の手首を捻挫しただけでなく、固い玄関のたたきに頭部を強く打ち付けて、脳が痛みと共にふらつくような感覚を彼女は覚えた。起き上がろうとしたが両腕が震えて、胴に力が入らない。

 秋野は既に立ち上がり、血のついたマグカップをカーペットの外に蹴り飛ばした。



 恐怖の中で仰向けになっていると、動きが止まり、いつしか枝は広がるのをやめていた。枝が寄り集まる幹はベランダの方から伸びているので、化け物の根元は彼の視野の中に捉えられず、そもそも全身がどのようになっているのか、さっぱり理解できない。

 彼自身の呼吸音だけが秋野には聞こえている。天井を這うその姿は何も言わず、部屋の中で動かないにもかかわらず、なぜか秋野は自分自身が侵食される恐怖を感じていた。金縛りは解けず、目を閉じたと思っても視界は開けたままだ。

 これは身動きの取れない獲物を目の前に舌なめずりをする時間なのだと、だからベランダから侵入したそれがじっと動かずにいるのだと彼が察した瞬間、まるで豪華な食事の見た目や香りを愉しむかのように、ゆっくりと、それまでは天井すれすれに広がっていた枝が幹と共に秋野のすぐ近くまで下がってきた。

 心臓の鼓動がいっそう速くなり、目を背ける事もできず、ただ、心の準備ができないままに待ち構える事しかできない。

 月明りで見えてきたのは匂いがなく存在感を持たない幹と、枝先でぎちぎちに膨らんだ雄花の房だった。秋野の体に覆い被さるようにして、視界いっぱいに広がる化け物の姿は力強く、秋野の右目は限界まで近づけられた房の先端に釘付けにされていた。

 次の瞬間、秋野の体を動けなくしていた金縛りが解けた。一瞬、秋野は金縛りに付随する幻覚が解けるものと期待したが、そうではなく、もはや金縛りによって体の自由を奪う必要が無くなったからだった。秋野は力いっぱいに暴れた。

 しかし、硬質な肌で抑え込まれ、彼の抵抗ではどうする事もできない。近づけられた枝に生える柔らかい針のような葉が瞼を上下に無理やり押し開き、ついに花粉がため込まれた房が、黒目に執拗に押し付けられた。彼の右目は力ずくで犯されてしまった。



 彼は今度こそと考え、急ぎ台所へ立ち寄った。半年以上前には山崎の家にしょっちゅう来て入り浸っていたので、目当ての物がある場所は見当がついていた。包丁を手に取り、山崎が逃げた玄関の方へと向かう。マグカップではなく包丁でなら、いう事を聞かせられるだろう。

 ぼやける視界の中に、うつ伏せに倒れている山崎を発見した。彼女はどうにかして起き上がろうとしているところだった。これ幸いと秋野は包丁を彼女の喉元に当てて、無理やり引き起こしその場に立たせようとした。苦しそうに息をする彼女は、包丁の存在に気がついていないのか、外に通じる玄関ドアを背にもたれかかって秋野を何度も何度も押し退けようと体を動かす。

 山崎の右手は無意識にドアノブへと伸びていた。秋野がここを通ったとき、彼は鍵を掛けなかった。襲われる恐怖によって固く握られた手がドアノブを回し、外開きのドアが開く。そのまま、2人分の体重が乗せられたドアと一緒に、山崎と秋野は勢いよく倒れ込んだ。

 よく研がれた包丁の刃が柔らかい皮膚を通り過ぎて、山崎の喉の内側深くまで差し込まれた。鮮血が流れ出す。山崎は秋野を見上げて、口を動かした。秋野は彼女が何を言っているのか分からなかった。ただ、これは手遅れだという事が、次第にはっきりする頭で理解できた。か細い正気の中で、秋野は血が噴き出す山崎の体から離れようとして立ち上がると、それ以上前に進む事はできなかった。我に返った秋野には彼女の体をまたいで通り過ぎる事などできない。

 そして混乱する思考が戻って来て、別の出口を探そうとした。逃げる山崎を追ってきたルートを引き返し、床に転がるマグカップの横を通り、あてもなく、彼が強姦しようとした女性の住処の中をぐるぐると歩き回った。どこへ向かえば良いのか? この場から逃げ出すための道は、死にゆく山崎がいる玄関口を除いて1つしかない事に彼は気がついた。



 夜遅くに山崎ミサキの死体は発見された。飲み会から帰ってきた彼女の隣人が、血だまりの中の遺体を見つけ、通報した。凶器の包丁は山崎の動かなくなった体の真横に落ちていた。その後駆けつけた警察官によって秋野の死んでいる姿が発見され、山崎の死は彼の犯行によるものだと考えられた。

 ただ、奇妙な点が残されていた。住人を殺していよいよ動転した秋野が部屋の中に戻った事は何もおかしな事ではない。ベランダと室内を隔てるガラスの引き戸にかけられたカーテンが倒れる彼の手に握られ、引き裂かれていた。そして、苦しみの表情と共に片目は無残にも潰れ、もし目が無事であったならその視線の先に、ベランダの外にあったものは何だったのだろうか。それは誰にも分からなかった。


 この事件は新聞の片隅に記事が載ったが、すぐに忘れ去られた。

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花粉症に溺れる kankisis @kankisis_syousetsu

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