花粉症に溺れる

kankisis

1.リアル・ファントム

 目を擦る。目薬は、あまり効かない。

 大きくくしゃみをすると、居眠りをしている隣の学生が驚き、びくりと顔を上げた。

 

 秋野ハルヨシの花粉症は酷いもので、中学校の入学式に発症してからというものの、毎年、悪化し続ける症状に悩まされていた。目の痒み、鼻水、くしゃみ。抗アレルギー薬を飲もうが、マスクをしていようが、大した効果を感じることは彼にできない。大学のサークルの先輩には、新歓の時期に初対面で泣いているのかと疑われたこともあるくらいだ。幸い、スギ花粉の時期さえ過ぎ去れば彼の症状は治まるのだが、1年の周期で訪れる受難の時は20歳になった秋野ハルヨシの心身を否応なく暗い沼に沈めるのだった。


 大教室の最先端では、思い思いの事をしている学生たちに向かって老教授が意味不明の言葉を並べていた。居眠りをしていようが内職をしていようが、お構いなしに老教授は話し続ける。その老教授が唯一、教室に座る学生に反応したのが秋野ハルヨシの激しいくしゃみに対してだった。

 3発も続くくしゃみを耳にして、老教授の発声が止まった。


「薬くらい飲みなさい」


 薬を服用してこれなのだ、と反論する間もなく、老教授の話はこの場のいったい何人が理解しているのか誰にも分からない講義の内容に戻った。

 隣の学生も、秋野の顔をちらりと見た後、再び居眠りの中に戻っていった。



 大学での用事を全て終え、秋野は寄り道せずに帰宅した。この時期、サークルの部室に顔を出すことはほとんど無い。できることなら、彼はスギの花粉が飛散する時期はずっと、自室に引きこもっていたいと願っている。少なくとも4月いっぱいは続く苦しみの季節が早く過ぎ去るのを祈りつつ、早足で秋野は歩く。走ってしまうと呼吸が乱れ、自身の息によってマスクが浮き上がってしまうため逆効果であることを彼は知っていた。


 アパートの自室の前で立ち止まると、身体に付着した花粉を念入りに払い落とす。こうすることで彼の症状は、住居の中では軽減される。要は、秋野にとっての唯一の安全地帯としての役割を辛うじてこの住処は果たしていた。

 ぼさぼさの髪から擦り切れたズボンの裾まで隅々をはたいた秋野は、鍵をリュックから取り出し、急いでドアを開けた。


 ふた筋の粘り気のある体液がマスクの裏側を伝い落ち、秋野の上唇を冷やしていた。外出時のマスクの替えはとっくに尽きていた。自室に上がった彼は虚ろな目で鼻をかむ。

 丸められた内側で粘液が乾き、硬くなっている紙くずとマスクの残骸で溢れんばかりのゴミ箱に、新たに秋野は湿り気のあるゴミを放り込んで、その脇にある万年床を見つめた。布団で横になっている時にも鼻をかんで捨てられるように、枕元にティッシュ箱とゴミ箱の両方が並べられている。


 秋野ハルヨシはある事を思い出していた。昨晩、特に鼻が詰まって息苦しく、ほとんど彼は寝付けなかった。そして、深夜の丑三つ時ともいう時間帯に、彼は夢うつつで金縛りに遭ったのだ。

 それがただの金縛りであればまだ良かった。金縛りはときに不快な幻覚を伴う。

 仰向けで奇妙な胸の圧迫感から逃れようと必死になっていたとき、秋野は、布団からあまり距離のないところにある、ベランダへと通ずる窓の引き戸が不意に動くのを感じ取った。彼を苦しめるものが屋内に侵入するのを防ぐために、花粉症の時期は常に閉め切ってある。当然、鍵も閉めている。換気のために窓に隙間をつくるなどもっての外で、部屋は澱んでいた。

 とにかく、カーテン越しに薄ぼんやりと拡散した街灯の光が室内を満たす夜中に、窓の向こう側で何者かが部屋に侵入しようとしているのだと彼は理解した。その恐ろしい何者かの影は、冷たく吹き込む風を受けて揺れ動くカーテンの裏で怪しく蠢き、秋野を恐怖させた。やがて半端に覚醒した彼の脳が見せる幻覚は突然消え去り、その場に残ったのは冷や汗と動悸だけだった。


 この幻に植えつけられた不快感は未だに秋野の心中に引っ掛かり続けている。朝になって改めて起床したとき、窓には内側から鍵が掛かっており、何ら怪しい痕跡は残っていない事を彼は真っ先に確認している。つまり夜中に見たものは金縛りに伴う幻以外の何でもなく、にもかかわらず彼は嫌な感じを忘れられず、布団を窓辺から引き離すように動かした。


 滅入る気持ちを誤魔化すべく、秋野は壁際ににじり寄り、テレビの電源を入れた。そして先輩から借りた本を開き、全く理解できぬ講義の中身を知ろうと努力する秋野の視界には、画面の情報など一切入らない。

 しばらくして、目薬をさそうとして本を置き、腰を上げた秋野が目にしたのは、テレビの画面に目いっぱい映し出された樹林の姿だ。それは杉林だった。花粉情報を伝えるコーナーのイメージ映像にすぎないそれを見た彼は、チャンネルを変えようとリモコンを探した。明日の花粉が多かろうが少なかろうが秋野にとって変わりはなく、見るだけ無駄だ。布団の裏側に埋もれていたのを彼が発見してテレビに向けたとき、丁度、画面の中の杉の数々が多量の花粉を放出した。


 チャンネルを変えるのが間に合わなかった。リモコンを握る手から、手汗がにじむ。見たくもないものを見てしまったと、リモコンを持ったまま軽く右目を擦ったその時、刺すような痛みが走った。それは丁度、秋野の瞳の中心部分だった。


 秋野は驚いてテレビのリモコンを落としてしまった。目の痛みは擦った瞬間がピークで、次第に落ち着いていった。しかし痛みのある箇所が箇所なだけに、彼は不安だ。立ち上がって鏡のある洗面台の前に向かい、注意深く自身の右目を観察する。

 肌の荒れた目蓋。まつ毛に絡みつく大量の目脂。充血した白目。それらがあるのはいつもの事で、結局新たな異常は発見できなかった。瞳に何かが見えるわけではない。



 大学を休んで秋野ハルヨシは眼科へ行った。

 そこで彼は、医者に前日感じた右目の痛みの事を説明し、診てもらった。刺すような痛みは夜の間にすっかり引いていたが、何かがあるという不安をぬぐい切れなかったのだ。


「特に傷があるというわけではありませんね。ただし、痒くても絶対に擦らないように」


 無表情で医者はこう言い、どうしても気になるのならと、新しい花粉症用の点眼薬を処方した。


 家に帰って新たな目薬を試してみても、秋野の心は休まらない。どうせ気休めだと彼は思っていた。

 眼科に行くのでさえ億劫だったから、もはや秋野は何をする気にもなれず、眠った。



 次の日の大学では、何も身が入らなかった。言葉は全て、両耳を撫でるだけで意味を成さず、すり抜けていく。

 秋野は再び金縛りに遭った事について1人抱え込んでいた。どうも、金縛りと同時に奇妙な幻覚を見たのも2日前と同じだった。ただ、幻の内容を思い出そうとしても、錆び付いた記憶の引き出しは開かない。朧気に、カーテンの向こう側に何かがいた事だけを覚えていた。


 帰る前、出された課題のための下調べに、図書館へ立ち寄った。数冊の本を抱えた秋野は窓際の席に座った。机の上に本を開いて置く。が、やはり内容が頭の中に入って来なかった。どこから手を付けていいのやら、まるで分からない。

 彼が座った席からは、大学の敷地の片隅に建つ小屋がよく見えた。ほとんど朽ちたような木造の小屋は大学図書館のすぐ近くにあり、その周囲では手入れの行き届いていない木々が枝を思い思いに絡みつかせるようにして伸ばしていた。夕日が雲間から差し込み、鈍い照り返しを頬に受けるのに反応して、秋野は窓の外を見た。演劇サークルの部員が数人がかりで道具を小屋の中から運び出している。

 それだけなら、秋野は何も思わなかっただろう。しかし、学生たちが木造の小屋を離れて数秒後、彼は驚くべき光景を目の当たりにした。

 小屋近くの木々の葉がザワザワと風に揺れた。それと同時に、何と、薄汚れた板が打ち付けてある小屋の外壁から、細かな粒子が大量に浮き上がった。不審に思う秋野の視線が釘付けになる中、壁の表面から湧き出るように出現した粒子は、風に乗って黄土色の霧となり、演劇サークルの人間を追うかのように飛び去った。


 霧が風に乗って消えゆくのを目で追った秋野は、大きなくしゃみをして、再び視線を小屋の外壁に戻した。次にまた、新たな粒子、あるいは胞子のような何かが壁から湧いてくるのではないかと畏怖する彼の内心とは裏腹に、夕日に照らされる小屋は2度と表情を変えてみせる事はなかった。


 図書館の窓に顔を近づけ、少なくとも数分間は小屋の方を凝視していると、秋野の目の痒みが僅かばかり強まった。そこで初めて、彼は窓に隙間があると気づき、窓から顔を離した。以前の座席の利用者が換気のために開けたのだろうが、秋野にとっては迷惑でしかなかった。目の痒みが重力に従って次第に下がっていき、鼻の奥がむず痒くなる。

 再度くしゃみをしたところで、彼は周囲の学生たちの視線が自身のマスクに集まっている事に気がついた。閲覧室の静けさを破ったから注目されているのではない。くしゃみと同時に飛び出した鼻血が、白いマスクの裏側で鼻水と混じり合って、桃色に見せていた。だんだんと鼻血の流量が増していき、顔面とマスクとの間の空間が埋まる。慌てる秋野が息苦しさから逃れるためにマスクの位置をずらすと、顎の辺りにできた隙間から、溜まった液体がぼたぼたと垂れて落ちた。図書館の本を汚さずに済んだものの、彼は自身のズボンで鼻血と鼻水の混ざったものを受け止める羽目になった。リュックから取り出した箱ティッシュである程度拭ったところで、秋野は集まる視線に耐え切れず、席を立った。



 図書館を出た秋野ハルヨシは正門に向かわず、不審な光景を目にした小屋の方へ行った。好奇心が勝っていた。近くには誰も居らず、直に木造の小屋を眺めるために来た秋野にとって都合が良かった。誰にも怪しまれないからだ。

 塗料が剥げかけて表面がささくれだった外壁を指で撫でる。塵と埃が指に付着した。秋野の住むアパートの大家が駐車場に停めている、黒い自動車に積もっていた花粉の層を彼は思い出した。


 先ほど見た黄色っぽい霧の正体はこれだろうか? 彼はそう思い、もう1度撫でるように指を動かすと、棘が刺さった。驚いて棘を抜くと、指先から血が滲む。

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