眼鏡拭き

川野笹舟

眼鏡拭き

 微分積分なんて将来使う予定はない。そんな言い訳をしながら、理解することを早々に放棄して、黒板から窓に目を移した。


 うっすらと鱗雲がかかった空。一匹の鳥が飛んでいる。


 秋の空は何故高いのだろうか? わからない。


 あの鳥はカラスだろうか? カラスはあの高さまで飛べるのだろうか? わからない……。




 窓のこちら側、小刻みにゆれるものが目に入った。


 鈴木さんだ。


 黒板もノートも無視して下を向き、一心不乱に眼鏡を拭いている。口を引き結び、体全体がゆれるほど必死に拭いている。


 彼女も僕と同じで数学が苦手だったはずだ。授業をちゃんと聞いたほうがいいのでないだろうか、と思ったが、僕がいうことではなかった。


 さすがに先生も気付いたのか二秒ほど鈴木さんを見つめていたが、何も言わず、引き続き黒板に式を書き始めた。


 ゆれに合わせて、鈴木さんの尖った肩甲骨にかかる色素の薄い髪が少しずつこぼれ落ちていった。砂時計のごとく一定のリズムで落ちていった。




 ふいに鈴木さんのゆれが止まった。


 おもむろに眼鏡を持ち上げる。


 窓の外を飛ぶ鳥にむかって、宝物を見せつけているかのようにも見えた。


 持ち上げたまま眼鏡の角度を幾度か変え、入念にチェックしている。


 集中しすぎたせいか半開きになっていた口が一度痙攣したかと思うと、すぐに満足そうな笑みに変わった。


 いつのまにか僕も笑っていた。


 先生も微笑んでいた。


 鈴木さんの眼鏡は、秋の光を吸い込み金色に輝いていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

眼鏡拭き 川野笹舟 @bamboo_l_boat

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ