心を繋ぐもの

宵埜白猫

父さんの日記

 僕は生まれて20年、父さんと話したことがあまりない。

 もちろん、明日の予定はどうだとかそんな会話はするけれど、友達の親が言うような、説教だとか進路の指示みたいなことは一度も言われた覚えがない。

 だから父さんと僕の間には、思い出と呼べるものが無いんだ。


 大学に進学して実家を出て2年。

 父さんが倒れた。

 ずっと抱えていた持病らしい。

 そのことすらも、息子の僕は初めて知った。

 病院に駆けつけると、母さんが泣いていた。

 寡黙な父さんとは対照的に、よくしゃべる人だ。

 そんな母さんが、僕に一冊の分厚い本を押し付けるように渡してきた。

 表紙の擦れたその本は、どうやら日記らしい。

 ずいぶん年季の入った物なので、本が崩れないようにゆっくり開く。

 そうして目に飛び込んできたのはいくつもの名前だった。

 『ゆうた』『ゆうき』『かずと』『こうすけ』『かなと』

 その中で一つだけ、大きな丸で囲まれている物があった。

 それは――


 『そうた』


 僕の名前だった。

 次のページには、生まれたばかりの僕と、それを抱えて嬉しそうに笑う父さんの写真が貼ってあって、その隣に僕が生まれてきてどれだけ嬉しかったが綴ってあった。


『5月20日。この日を祝福するように、空は晴れている。今日は、僕の人生で最良の日だ。妻と息子が、僕を父親にしてくれた。元気に生まれてきてくれてありがとう、そうた。』


 そこからしばらくは、育児をしている父さんの様子が、まるでビデオでも見ているかのようにはっきり伝わってくる文章だ。

 粉ミルクの作り方のメモから、買い出しリスト、果てはその日の僕の体温まで、あらゆることを日記に書いて、その一つ一つにコメントが付いている。

 例えばミルクのメモの隣には、


『メモよりも少しぬるめに冷ました方が、そうたは飲みやすいらしい。猫舌かも?』


 と書いてある。

 あんなに口下手な父なのに、文章で書くとこうも饒舌になるらしい。

 しばらく進むと、僕が保育園に入る時期になった。

 正直小学校より前の記憶はほとんどないので、読んでいて新鮮だった。


『4月20日、くもり。園の友達と泥団子を作ったらしく、満面の笑みで持って帰ってきた。そうたが楽しそうなのは嬉しいが、泥団子は玄関横に避難させてもらおう。』


 父さんもこんな風に困っていたことがあったのかと思うと、僕の頬が少し緩んだ。

 だけど次のページを読んだ瞬間、そんな余裕は一気に吹き飛んだ。


『5月19日、雨。がんの診断を受けた。余命は長くて10年だそうだ。そうたが15歳、高校生のそうたを見られるかどうか……。そうたにどんな風に接して良いのか分からなくなった。ひとまずは通院と投薬で様子を見ることにした。』


 今、この余命宣告から15年と少し経っている。

 つまりいつ父さんと別れる事になってもおかしくないのだ。

 僕はベッドで眠る父さんに目を移す。


「母さんは知ってたの?」

「……ええ、もちろん」


 いつもは陽気によくしゃべる母さんが、今はそれ以上口を開こうとしなかった。


「そっか……」


 これまで父さんは、僕に闘病してる素振りなんて見せようとしなかった。

 けれど、父さんが自分の話や僕の将来の話をしたがらなかったのは、きっとこのせいだ。

 まだ起きない父さんから、日記に視線を戻す。

 ページをめくると、僕は小学生になっていた。

 僕にとっては長い6年だったけど、父さんにとっては一瞬に感じるほどあっという間だったらしい。

 反抗期だったり、友達と遊びまわったり、父さんにとっては悩むような事も多かったと思うけど、どれも心底嬉しそうな言葉で彩られていた。


『3月17日。早い事に、もう6年経ったらしい。入学式でまだ小さかったそうたを、昨日の事の様に思う。来月からは中学生になるが、そうなるとクラブや友達との時間で、あまり一緒に過ごすことはできないだろう。だけど、それでいい。学校で知り合った友達や先生は、そうたが辛い目にあった時に、きっと力になってくれるはずだから。』


 中学生は、父さんが考えていた通り、特筆するようなことが無かったらしい。

 強いて言うなら、中3の春。


『3月1日、くもり。宣告を受けてからそろそろ10年になる。だけど今のところ、調子は悪くない。もしかしたらこのままそうたの成長をずっと見ていけるかもしれない。』


 高校の入学式の日には、まるで自分が入学するかのような喜びようで日記が書かれていた。

 学園祭や部活の試合の応援。そんな一つ一つの行事を、楽しそうに描いて、高2の夏の三者面談の日。


『7月28日、晴れ。そうたは大学への進学を考えているらしい。きっとそうたなら大丈夫だ。真面目に頑張っているし、今日も先生に自分の考えをはっきりと言えていた。まだそうたに何も話せていない僕とは大違いだ。』


 それから大学受験に合格して、僕が実家を出た夜。

 父さんは泣いたらしい。


『3月30日、晴れ。今日から、そうたは大学の近くのマンションに引っ越した。家でもよく家事を手伝ってくれたから、一人暮らしに心配はない。けど、親としてはやっぱり寂しくて、そうたが出て行ってしばらくは、涙が止まらなかった。』


 それから2年、つまり今年まではほとんど日記が書かれていなかった。

 だから、最後のページにあったのは、父さんが倒れる直前の物だ。


『5月19日、雨。……ついに来たのかもしれない。もう全身が痛い。明日、そうたが20になる。せめてそれを見てからがいいけど、もし何も残せなかったら、それはそれで後悔しそうだから、今の内に久しぶりの日記を書いておく。日記といっても、僕の日常なんて面白くもなんともないから、そうたへのメッセージみたいなものだけど。』


 そんな前置きの後に、弱々しい字で、僕への言葉が綴られている。

 今まで聞いたことも無いくらいに長い、父さんの本音が。


『人生は、上手くいかないこともある。20年生きてきたそうたなら、もしかしたらもうそれに気づいてるかもしれない。中にはどうしようもなく理不尽な理由で、思った通りにならないこともあるかもしれない。でもそんな時に、その理不尽を取り除こうとやっきになっちゃいけないよ。そういうのは大抵上手くいかないものだから。もし環境を変えて逃げられるなら、そんな時は逃げて良い。でもそれができないときは、その状況の中で、楽しめる事を探してみよう。僕の場合は、それがそうただった。病気がどんなに辛くても、そうたが居たから、ここまで生きてこられたんだ。今まであまり話せなくてごめんね。それから、僕の息子でいてくれて、ありがとう。愛してるよ、そうた。』


 すべてを読み終わって、僕の目はもう使い物にならないくらいに濡れていた。

 こんなに滲んんだ視界じゃ、父さんが起きても分からない。

 けど、その心配はなかった。



「……そうた」


 呼吸器越しの父さんの声が、しっかりと聞こえたから。


「今、何日?」

「……5月20日」

「ふふ。……そうた、誕生日おめでとう」


 父さんは楽しそうに笑いながら、僕を見つめる。


「……ありがとう、父さん。大好きだよ」

「ああ、最後にそれが聞けて良かった」


 このまま泣きわめくことは簡単だ。

 感情のままに父さんの言葉を遮って、「死なないで」と言えばいい。

 だけど。


「頑張れ、そうた。それから、ずっと側にいてくれてありがとう、みなみ。」


 横で涙を堪える母さんに倣って、僕もぐっと涙を押し戻す。


「うん。頑張るよ、父さん」


 その言葉が、ちゃんと届いたのかは分からない。

 けど、僕がその言葉を言い終わるまで、心停止のアラームはならなかった。


 5月20日。空は、皮肉なくらいの快晴だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

心を繋ぐもの 宵埜白猫 @shironeko98

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ