しっそう
鯨ヶ岬勇士
しっそう
「日記か。まともに書いたことなかったなぁ」
小学校の頃の夏休みの日記は、ある日は祖母の家に行ったとだけ書き、その次の日に帰ってきたとだけ書いて怒られたのを思い出した。中学校に上がると三日坊主に終わり、高校生になったら自殺願望を書いて終わった。大学になったら勉学にかまけて、日記そのものから離れた。
今思えば、歳をとるほど自分の考えや想いを文字に起こすことが恥ずかしいというか、難しくなってきたと感じる。大事なものを喪ってからというものの、映画を観ても、音楽を聴いても心が躍ることはなく、活字は目から零れ落ちるようになっている。
——緩やかな死。
そんな思いを抱いて、日々を過ごすようになっていた。
ここ最近は、暗く長いトンネルを、死という出口に向かって闇雲に歩いているような感覚ばかりを覚える。日記はおろか、文字を書こうという気すら起きない。
今日は辞めだ。無理なものは無理なのだから仕方がない。そう自分に言い聞かせて今日も眠りに就く。
その日、夢の中に血に塗れた男が出てきた。その男は帷子を纏い、その鉄の輪の合間は血が膜を張っている。赤黒く鈍い兜のせいで顔は見えず、その手には柄に指が何とか引っ掛かるほどの状態で剣を持っていた。
夢は自分にとって楽園だった。喪った愛犬や祖父と唯一触れ合える場所——それにもかかわらず血でそれを穢す男がいる。
「お前が俺を不幸にしたんだぞ。お前が俺をこんなふうにしたんだ」
千切れかけた帷子から突き出した腕には鱗が並び、指は細く長く、親指からは鉤爪が生えている。そして、自分にそう叫ぶ口の隙間には牙が見え、隙間から血が漏れていた。
「俺をよく見ろ。俺をよく見ろ。見るんだ」
その絶叫で目が覚めた。ベッドから這いずるように起き出し、それから洗面台で顔を洗う。鏡に映った顔を見て、自分がやつれているのを実感する。
「何をしたっていうんだ」
そう呟いたとき、ふとある原稿が思い出された。急いで部屋に戻り、机の引き出しからその原稿を引っ張り出す。そうだ、これだ。昨日の男の正体がそこにあった。
自分が描いた世界、そこで繰り広げられる物語——その主人公があの男だ。一度はネット上に投稿し、その後、公募にも挑戦しようと書き直したが途中で筆を折った作品だ。それを読み返すと、自分が何を書こうとしていたのかを思い出した。
あの頃の自分は、研究し続けていた世界を物語に起こし、それまで抱えていた意見を世間に伝えたかったのだ。
『製造者責任』という言葉が脳裏を過ぎる。この男は、自分が文字通り終止符を打たないかぎり、終わらない苦痛の中にいるのだ。
「終わらせよう、全部」
原稿に再び向き合い、まともに握られていなかった拳で鉛筆を取る——何も思い浮かばない。それもそうだ。ここ最近、まともに文章を書いてこなかったのだから。
まずは準備運動だ。疎かにしていたものを二刀流で良いから動かしはじめ、趣味も再開して、推し活なるものにも挑戦した。そうして自分の好きなことを言語化する練習をする。気がつけば共感できる音楽や映画、本が周りに増えていく。
それでも何度も心が折れそうになり、第六感が目覚めないかと神に祈る。そのようなときに、気晴らしにとお笑い番組を観ると、50代になっても挑戦を続けた結果、夢を掴んだコンビが映る。それを観ていたら、ふと、祖母に久しぶりに電話したくなった。80代になっても趣味を続けているせいか、まだまだ元気だ。これなら米寿を祝う日も近いだろう。
駅から帰り道、焼き鳥屋の香ばしい匂いに誘われても、それを振り切って家に走り、原稿と向き合った。これまで何度も出会いと別れを繰り返し、これを
あのときは自分だけのヒーローをつくって、小説の中で爽快な思いをしたかったが、現実はそう甘くない。その苦味を主人公に与えようともがき、猫の手も借りたい思いで原稿にかじりついた。
真夜中、自分の不甲斐無さに泣いた日もあった。それでも原稿を書き続けた。公募に投稿するんだ。そうしてあの男にも、そして自分にも一つの終止符を打つんだ。そう信じて描き続けた。
気が付けば、目の前に11万字の長編があった。
「終わったぞ。終わらせたやったぞ」
そうロフトベッドの下の机で一人、小さく叫ぶ。それを見ているのは横に飾られたヒエロニムス・ボスの描いた怪物ぐらいだ。
「俺はどうなる。俺たちはどうなる」
どこからかそんな声が聞こえた気がした。
一つの公募を片付けても、爽やかな終わりはやって来ない。その背後には未完の12万字の短編集と、まだ手もつけていない短編の公募が待っている。
これは自分の物語だ。綺麗に終止符を打てそうにない。だから今日も原稿にかじりつき、公募に挑み続ける。
しっそう 鯨ヶ岬勇士 @Beowulf_Gotaland
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