日記を愛する男

棚霧書生

日記を愛する男

 東京は神保町の片隅にある小さな古本屋。ここは俺がつくった城。所有していた会社を他人に売り渡したら、今度は絶対に大好きな本に囲まれてできる仕事を始めて、精神的に豊かな生活を送ろうと決めていた。

 俺が人生で初めてつくったスマホアプリゲームの会社は時流に乗って大きくなり、世間的に見たら大成功をおさめた。しかし、その実、俺はかけがえのない大切なものを失ってしまった。けっして金では買い戻せないものを。

「で、なにを失ったんでしたっけ、店長?」

「親友だよ、自分の命をかけてやっても惜しくないと思える友人が昔はいたのさ」

「だから、友達付き合いは大事にしろって言いたいんですね。含蓄あるお言葉だなー」

 アルバイトとして店で雇っている坂間が焼き鳥を串から外しながら棒読み丸出しで返してくる。かぶりついた方が絶対美味いのにと頭の片隅で思いながらも、そこは指摘しない。

「こんな年上のおっさんしか飲み相手がいない坂間くんがオジサンは心配なんだよ」

「人は自分の言う言葉に影響されるので、自分のことをオジサンって言ってるとさらにオジサン化が進みますよ、店長」

「次のアルバイト先でも決めてきたのか。今日はいつにも増して辛辣じゃないか」

「別に、店長の親友さんに嫉妬しただけですよ」

「嫉妬? なんで坂間が嫉妬するんだ?」

 ギッと坂間が鋭く睨んでくる。最近の若い子は難しいな。地雷がわからん。

「オレ、バイトの面接のときも言ったと思うんですが店長の、結目八千代ゆいめやちよの大ファンなんですよ? ゲーム雑誌に掲載されたインタビュー記事とか全部持ってるし、宣伝のためにテレビ出演したときの映像だって録画で残してる、割とキモめのファン……」

 坂間は自分で言っていて恥ずかしくなってきたのか、頬を紅潮させ、バッと両手で顔を覆った。テーブルに突っ伏したまま、小さく唸る。斜向かいの席にいるカップルが不審そうにこちらを見ている。俺が若人をイジメてると思われてたらヤダな、オジサンの前にパワハラがついてしまう。

「ええと、そうだったな、あー、忘れてたわけじゃないって、ホント。なんかゴメンな。実物はかっこよくなくて」

「はぁ~!? ちーがーいーまーすー! 結目八千代はかっこいいです!」

 急な爆音に俺の鼓膜はキンッとなる。坂間は興奮した口調で結目八千代の凄さを俺に向かって熱く語る。俺が結目八千代本人なんだが……。どうして二回りは年が離れた学生から俺自身の活躍(笑)を聞かなければならないのだろう、イッツァカオスワールド……こんなの罰ゲームだろ。

 一生懸命に俺の昔話をしてくる坂間は小鳥みたいにピーチクパーチクうるさい。だが、そこが可愛く思えてしまうのはやっぱり俺がオジサンになったからだろうか。良いとか悪いとかじゃなく、純粋に時の流れを感じた。

「ふふふ」

「なにを笑ってるんですか! 結目八千代をバカにする奴は結目八千代でも許しませんよ!」

 俺の笑いを嘲りと勘違いした坂間がキレがちに凄む。違うよ、と俺は手をひらひらと振る。

「坂間の話を聞いてたら俺は随分と色んなことをしてきたんだなと感慨深くってな」

 本当に会社を売却するまでは仕事ばかりに時間を割いていた。ビジネスに関係ない、後回しにできることは全部、放ったらかしにした。得たものはたくさんあった。金、人脈、信用、あと女にもモテた。でも、そいつら全部を天秤にかけても俺が失ったものとは到底つり合わない。

 忙しいを言い訳に使って、親友からの連絡にずっと返事をしなかったことは今でも後悔している。仲がいいってことにあぐらをかいていた。あいつなら俺の返事がいくら遅くても怒らないだろうと、ゴメンと一言謝れば、あいつは少しだけ怒ったフリをしてまた昔みたいに俺と時間を共有してくれると思い込んでた。

「バカだよなァ」

 ついうっかり、心の声が漏れ出てしまった。ハッとして坂間を見れば案の定、眉を釣り上げて鋭い目つきをしている。

 俺はゴメンゴメンと坂間に繰り返すうちに、あいつにも謝りたいな、なんて思った。そんなことを考えてしまったのが運の尽きというやつで、知らぬ間に俺の眼からはポロポロと涙がこぼれていた。坂間がドン引いている。早く止めなくては。止まれ、止まれ、情緒不安定オジサンなんてどこにも需要はない。

「アッハッハ……今日は、酒が入り過ぎちまった。悪いけどこれで会計しといてくれ。俺は先に帰る」

 財布から二万を抜いて、テーブルに投げる。坂間が俺を引き留めようとなにか言っていたが、俺は構わず店を出た。


 夏の午後、雨の匂いが店内にまで混じってくる。これからひと雨来るなら、外に出している本に雨よけを掛けなければいけない。いつも雑用を任せている坂間はまだ出勤していないから、自分でやらないといけないと気づいて、俺は店のツイッターアカウントのアクセス数解析の作業を一旦中断した。

 雨が降る前になると、あいつはよく頭が痛いとか雨の匂いがするとかブツブツ言ってたのを思い出す。

「あぁ、クッソ」

 考えたところで会えるわけでもないのに。俺は最近、取り憑かれたようにあいつのことを何度も思い出している。

「お前になら取り憑かれてもいいんだが……」

 ぽつりとつぶやく。雨よけを掛けようと本棚に近づくと俺は見慣れない本があるのを見つけた。背表紙にタイトルはない。こんな本、仕入れただろうか。俺は不思議に思ってそれを手に取った。持った途端、俺の手はとんでもない冷たさを本から感じとる。夏だというのに氷のように冷たい。あまりの冷たさに皮膚が焼けるように痛む。しかし、俺が声を上げる間もなく、その冷たさは一瞬にして失われた。もう普通の本と変わらない温度で、さっきのは俺の気のせいだったのだろうかと自分の感覚の方を疑う。

 その本の表紙には白いシールが貼ってありそこにタイトルが手書きで入っていた。

「日記?」

 どこかで遠雷が鳴る。ポツンポツンと表紙に雨粒が染み込んだ。あっという間にザーッと雨が降り出す。だが、俺は売り物の本に雨よけも掛けず、手にした日記を濡れないように服の中に仕舞い込んで店の中に戻った。


 最近、店長の様子がおかしい。居酒屋での一件以来、店長がどうも落ち込んでいるらしいことは薄々感じていた。だが、それとは関係なしに明らかに変なのだ。日記を付け始めたと言って嬉しそうに報告してきたかと思えば、しばらくして日記を書きたいからと言って、さっぱり店頭に出てこなくなってしまった。

 今が夏休みでオレがフルでバイトに入っていなかったら、どうなっていたことか。それとも道楽でやってる古本屋なんてどうでもいいのだろうか、あの人は。

「日記、日記ってなんなんだよ……」

 まさか、新しい事業計画でも考えているのだろうか。天才起業家、結目八千代の復活の可能性があるのだとしたら、信者としてこれほど喜ばしいことはない。はずなのだが……

「なーんか変だ」

 なにがどう変なのかは上手く言葉にできない。けど、オレがずっと見てきた結目八千代と今の結目八千代は決定的になにかが違う。まとう雰囲気というか放つオーラというか、とにかくそういう感覚的なものの話になってしまうが、今起こっている変化は結目八千代にとってあまり良いものではない気がオレはしている。異変だ、結目八千代に異変が生じている。

 閉店後にオレはバックヤードにこもりきりの店長に接触を図った。

「店長、発注について少し話があります」

「日記を書いているから後にしてくれ」

「オレ、もう帰りたいのでこっちを優先してもらえませんか」

「……発注は坂間くんに一任する。好きなようにやっておいてくれ」

 オレは絶句した。あの結目八千代にここまで仕事を後回しにさせる日記とは一体なんなんだ。


 何度こんなやり取りをしたか、もう両手では数えきれない。オレと店長が話すのは決まって閉店後のバックヤードだった。雨が降っていやにジメジメとした夜更け。事件は起こる。

「いい加減にしてください!」

 オレは店長に吠えた。憧れの人を叱責する日が来るなんて思ってもみなかった。

「最近の子はアンガーマネジメントとか学校で習うんじゃないのか?」

 オレの怒声に顔をしかめた店長は胸の前で大切そうに日記を抱きしめている。

「その日記、オレが預かります」

 店長は日記を放さない。それどころかオレを親の敵かのように睨みつける。

「これは俺のだ」

「てんちょ……、結目さんはその日記に呪われてる。オレは結目さんを助けたいだけなんです。日記を渡してください」

 結目八千代は異様に日記に執着している。日々の生活に支障が出るほどに。仕事をしないだけでなく、食事や睡眠もろくに取ってくれない。このままでは彼が死んでしまう。

「日記は後で書けばいいじゃないですか。ひとまず、ご飯を食べてゆっくり眠ってください」

「後回しになんかしない! 俺はもう絶対に、放ったらかしたりしないんだ!!」

「そんな日記より結目さんの命が大事で」

「これは日記じゃない! 千景ちかげだ!」

 結目さんがオレの話にかぶせて、叫んだ。

「千景?」

 その名は確か、結目さんの……

「千景、俺の親友、千景だ、千景は俺と一緒にいる」

 千景千景と壊れたようにつぶやき続ける結目さんの姿は到底正気には見えなかった。

 オレは覚悟を決め、結目さんに体当りをした。体勢を崩して床に倒れ込んだ結目さんから、日記を取り上げる。

「こんなものッ!」

 オレは引き出しからダンボール箱用の大きいカッターを取り出し、日記目掛けて思いきり振り下ろす。が、刃が日記に触れる寸前でオレは結目さんの反撃にあう。

「俺の親友を殺そうとした、俺の一番大切な千景を!」

 結目さんにカッターを奪われ一気に形成が悪くなる。振り上げられた刃は鈍く光った。

 結目さんの血走った眼、荒い息、紅潮した肌、そして怒号。走馬燈は見えなかった。代わりに狂った結目八千代を見ていた。不思議と後悔は思い当たらない。雨の降る夜、古本屋のバックヤードで、オレは結目八千代に刺された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

日記を愛する男 棚霧書生 @katagiri_8

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ