聖女が日記を読み返す頃には誰にも書けない物語ができあがっている
せてぃ
筆が走る音を聴く
さらさら、さらさらと、羊皮紙の上をインクの付いた羽先が走る。その音をクラウス・タジティは美しい音楽を耳にするような気持ちで聴いていた。
「この時間ということは、日記ですか、シホ様」
「ええ。クラウスさんにはやっぱり隠し事はできませんね」
最近のシホ・リリシアにしては珍しく、『さん』と敬称を付けられた。不快はなく、むしろ好ましいが、それが出てきてしまうほど没頭して、いったい何をしたためていたのか。少し気になってしまう。それにしても……
「……字がお上手になられましたね」
クラウスには、いまシホが書いている字そのものを見ることはできない。視力を失っていた久しい目には、かつての、文字を習い始めたばかりのシホが苦労して『文字らしきなにか』を書いている光景が浮かんでいる。その光景と、羽根ペンが走る軽快な音がどうしても一致しない。
「ようやく人が読めるものが書けるようになったくらいですよ」
「毎日日記をつけてこられた成果ですね」
まだ読み書きもできないシホが、教会に来て学び、その学びを自分のものにする意味も兼ねて始めたのが日記を書くことだった。
「最近では司祭業務の報告書みたいですけどね」
そう言って、はにかんで笑う気配が盲目のクラウスに伝わる。その瞬間だけは、光が戻ったように感じる。
「読み返されることもあるのですか?」
「ほとんどしません。……初めの頃の文字は読めませんから」
恥ずかしそうに尻窄みに口ごもるシホに、そうだった、とクラウスも少しだけ笑う。
「それに、決めていることもあるんです」
クラウスは首を曲げる仕草だけで、シホの次の言葉を聞く用意があることを示した。
「わたしがわたしの日記を読み返すのは、全てが終わったときだと」
「全て……」
神託に導かれて、この天空神教会にやってきたシホ。
その彼女に背負わされたのは、途方もなく壮大で、終わりの見えない戦い。
百魔剣という、超常の力との戦い。
「ええ。全て。そのときにわたしの日記を読み返したら、誰にも書けない物語になっている気がして……」
楽しみだ、とは言わなかった。
だが、シホの言葉はそう言っているとクラウスは感じた。
「では、そのときには、ぜひ一緒に読ませていただきたいものです」
「……ちょっと恥ずかしいですが、これを読むために生きていてくださるなら」
意外な返答と、こちらの様子を伺うシホの目に、クラウスは驚きを隠せなかった。そんな風に言われるとは、思ってもみなかった。
「生きてください、クラウスさん。必ず生きて、この戦いを終えましょう。誰も失うことなく、最後まで」
「……御意、承りました」
シホが笑う。
その瞬間だけは、光が戻ったように感じるのだ。
太陽のように明るく輝く存在。その笑顔。
曇らせはしないと、クラウスは改めて誓った。
聖女が日記を読み返す頃には誰にも書けない物語ができあがっている せてぃ @sethy
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