残された日記 ――被害者と殺人者――

烏川 ハル

残された日記 ――被害者と殺人者――

   

 伯父の春樹はるきが殺されたのは夕方だった。

 食事の時間になっても、食堂に降りてこない。心配した明美あけみが書斎を訪れたところ、胸を刺されて亡くなっていたという。


 ……と、他人事みたいな書き方で始めるのは、少し卑怯かもしれない。

 この俺も、伯父の家で暮らしていた一人なのだから。

 あの時だって、慌てふためく明美を落ち着かせてから、牧彦まきひこと一緒に伯父の部屋へ向かったのだ。

「なあ、たかし。これって、殺人現場ってやつだよな? 刑事ドラマや推理小説で出てくるやつだよな?」

「そうだろうね」

「じゃあ、現場保存の必要あるんだよな?」

「うん、何も手をつけちゃいけないよ」

 そんな言葉を交わしながら、部屋の入り口から覗き込むと……。

 仰向けの格好で、ゆかに横たわっている伯父の死体が、俺たちの視界に入ってくる。

 その胸に突き立てられているのは、銀色のナイフ。には、ゴツゴツした模様が彫られていた。伯父にはナイフ蒐集の趣味があり、これがその中の一本であることを、俺はよく知っていた。


「なあ、隆。あれって……」

 少し声を震わせながら、牧彦が伯父の手元を指し示す。

 亡くなった伯父の指先は、赤く汚れていた。自らの血で、ゆかに何か書き残そうとしたらしい。俺には『あ』という一文字に見えた。

「うん、そうだろうね。きっとダイイングメッセージだ」


 このように、俺は立派に関係者の一人だった。

 いや、ある意味では、一番の関係者と呼ぶべきかもしれない。

 なにしろ、この俺こそが、伯父の春樹を刺し殺した犯人なのだから。


――――――――――――


「では、この家に住んでいたのは、被害者の他に、あなたがた三人だけ。間違いないですね?」

 奈土力などりき警部という捜査責任者が、俺たち三人を一室に集めて、最初にそう確認してきた。


「はい、間違いございません」

 神妙な顔つきで、明美が答える。死体を発見した時の怯え様が嘘みたいに、すっかり落ち着いた態度を見せていた。

 俺たち三人は兄弟姉妹ではなく、従兄弟同士だ。その中で一番の年上は明美であり、だから三人の代表のつもりなのだろう。

「他に使用人が二人いますけどね。彼らは住み込みじゃないから『住んでいる』には相当しないでしょう」

 横から牧彦が口を挟む。

「使用人に聞けばわかると思うので、先に言っておきますね。僕たち三人、ずっと伯父の世話になってきましたが、けっして仲が良かったわけではありません」

 平然とした顔を見せているが、内心は真逆まぎゃくなのだろう。いつもより饒舌なのも、その影響かもしれない。

「死者を悪く言うのも何ですけど、伯父は偏屈な老人でした。今この瞬間も、僕たちは悲しいというより、ホッとするくらいです」

「ちょっと、あーくん!? 何を言い出すの!?」

 叫ぶ明美は、酷く驚いたらしく、体をビクッとさせていた。椅子から飛び上がるかのような勢いだ。

「いいじゃないか、明美姉さん。どうせすぐに知られることだから……」

「ほう? あなたは『あーくん』と呼ばれているのですか?」

 牧彦の言葉を遮る警部。

 眼光は鋭く、いかにも興味津々という雰囲気になっていた。


――――――――――――


「小さい頃のエピソードですの。彼の両親からは『まーくん』だったから、いつのまにか牧彦ったら、自分でも自分のこと『まーくん』と呼びようになって……」

 明美の表情がやわらかくなる。今この瞬間の状況を忘れて、昔を懐かしんでいるらしい。

「……でも『ま』の『M』の子音が、うまく発音できなかったみたい。牧彦が『まーくん』と言っても、私たちには『あーくん』としか聞こえなくて……。だから私たちも『あーくん』と呼ぶようになったのです」

「酷いなあ、明美姉さん。かなり昔の話じゃないか」

「あら、今でも私たちの間では、時々使う呼び方でしょう?」

 黙って聞いていた警部が、ここで会話に割り込んでくる。

「『私たち』というのは、あなたがた三人のことですか? それとも、被害者の春樹はるきさんも含めて?」

 重要なポイントだ、と言わんばかりの口ぶりだった。

 その意味を理解したらしく――そして現状を思い出したらしく――、明美が緊張の様子を見せる。

「はい、私たち従兄弟同士の間だけです。伯父が牧彦を『あーくん』と呼んだことは、一度もないんじゃないかしら? でも……」

 言いづらそうな態度だが、そこまで言ったのであれば、ここで止めても今更だろう。

 そう思ったから、俺が彼女の言葉を引き継いだ。

「……『あーくん』が牧彦を示すってこと、知識としては伯父も知っていましたよ。彼の前で、何度も使われた呼び方ですからね」

 そう言いながら、チラリと牧彦に視線を向ける。嫌そうな表情ではあるけれど、仕方がないと覚悟している顔にも感じられた。

 それを見て、つい調子に乗って、俺は続けてしまう。

「だから伯父の血文字の『あ』は、『あーくん』の意味かもしれません」


――――――――――――


「たかしちゃん! 何てこと言うの!?」

「ほう? 隆さんは、あれを『血文字』と思ったのですか」

 警部の言葉には不思議な重みがあり、慌てた明美の叫びをピシャリと黙らせるほどだった。

 強い視線を向けられて、俺も尻込みしたい気分だが、そうはいかない。警察に対して弱気になったら負けであり、殺人者にとっての敗北は、犯行が暴かれることを意味するのだ。

 だから強気で主張してみる。

「違うのですか? あれって、いわゆるダイイングメッセージでしょう?」

「では隆さんは『牧彦さんが犯人だ』と告発したいのですか?」

「まさか!」

 俺は大袈裟に否定する。自分では「話を飛躍させないでください」というニュアンスのつもりだった。

「俺じゃなくて、犯人を告発してるのは、伯父の春樹でしょう? 死者の告発だからこそ、ダイイングメッセージになるわけですから」

「『死者の告発』じゃなくて『死に際の伝言』じゃなかったかしら? ダイイングメッセージという言葉の意味は……」

「混ぜっ返すのはしてください、明美姉さん」

 揚げ足を取られたような気分で、少しムッとした俺は、あえて厳しい目を彼女に向ける。

「そんな場合じゃないでしょう? ほら、明美姉さんだって、告発の対象ですからね。伯父の『あ』が『あーくん』を示しているとは限らない。『あけみ』と書こうとして力尽きた、という可能性も考えられますよね?」

 発言の最後の部分は、彼女ではなく、警部に対して同意を求めるものだった。


――――――――――――


 実際のところ、伯父がダイイングメッセージを残したこと自体には、とても驚いている。

 伯父のコレクションの一つ、彼が大好きだったナイフで、心臓をグサリと一突き。初めて人を殺す俺にもわかるほど、確かな手応えがあった。

 一撃で絶命したに違いない。そう判断して、俺は部屋から立ち去ったのだが……。

 明美に言われて、あとで牧彦と共に現場へ戻ったら、見覚えのない血文字が描かれていたのだ。びっくりして当然だろう。

 死んだと思った伯父が、実はまだ生きていて、最期の最期の力で書き残したメッセージ。しかし何を血迷ったのか、それは『あ』という一文字だった。

 俺の名前は『隆』だから『あ』は含まれていない。いったい伯父は何を考えていたのだろう? 正面から俺に刺されたのだから、犯人を見誤ることはないはずなのに……。

 結果的に見れば、このダイイングメッセージのおかげで、俺は嫌疑の外へ。『あけみ』の明美と『あーくん』の牧彦だけが疑われる格好だ。

 この点は、伯父に感謝しなければなるまい。そんな気持ちになるくらいだが……。


「三人は、これに見覚えありますか?」

 警部が掲げてみせたのは、一冊のノートだった。

 ダイイングメッセージの議論を中断してまで、わざわざ俺たちに見せるくらいだ。よほど重要な証拠品なのだろう。

 大切そうに、証拠保管用らしきビニール袋に入れられている。その状態でも、ノートの表紙に「2022年」と書かれているのは読み取れた。


「あら。それって、伯父の日記かしら……」

「えっ、日記!?」

 明美の言葉に、俺は驚いて聞き返してしまった。

 牧彦も「知らなかった」という顔をしており、そんな俺たち三人を見て、警部はニヤリと笑う。

「どうやら、ご存知のかたとそうでない方々に別れたようですな。こちらで中身を確認したところ、興味深い事実が記されていました」

 続いて、警部が取り出した別の書類。日記の一部を書き写したものらしい。

「少し被害妄想だったのでしょうか? 春樹さんは、あなたがた三人のうちの一人に殺されるのではないか、と考えていたようです」

「そんな……!」

 明美の悲鳴は無視して、警部は続ける。

「自分自身に対して言い聞かせる、覚え書きの意味もあったのでしょう。同じような記述が、何度も繰り返されていました。『死に際に犯人を示す暗号になるものを用意しておこう』と。『隆ならば赤いもの、牧彦ならば青いもの、明美ならば黄色いもので示す』と」

 そして警部は、改めて俺の方を睨んできた。

 その圧力に負けて視線を逸らすと、壁の時計が目に入る。この部屋に集められてから、まだ5分しか経っていなかった。

「どうやら『あか』と書き残すつもりだったようですな。しかし血文字で記す内容よりも、血を使うこと自体に意味があったのです。血という真っ赤なインクに我々の注意が向けられれば、それだけで十分なのですから」


――――――――――――


 最期の瞬間、何か書き残すのであれば、最も簡単に利用できるのは、おのれ自身の血液だろう。

 赤い血を使用しやすい状況下で「赤は隆」という符号を決めていたのだから、最初から伯父は、俺を最も強く疑っていたに違いない。



 このように、伯父の日記がきっかけとなって、俺は捕まってしまった。

 獄中では、毎日この記録を書き記している。

 まだ始めたばかりだが、死ぬまでには長々と書き溜まるはず。あるいは、案外すぐに処刑されるのだろうか。

 いずれにせよ、死刑囚の日記として、後々まで残されるに違いない。




(「残された日記 ――被害者と殺人者――」完)

   

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