ある日の夜を、あなたと

櫻葉月咲

惑わされ、甘やかされる夜

 ガチャリと、控えめなドアを開ける音が響く。


「ん……」


 ベッドのスプリングがきしんだ事で、美優みゆうはぼんやりと意識を浮上させた。


「悪い、起こしたか」


 遠慮がちな声音が聞こえると同時に、温かい手の平が美優の頬に添えられ、優しく撫でられた。

 声の主が誰なのか、頭では分かっている。

 こうして壊れ物を扱うように触れてくる人は、美優が知る他にただ一人だけだった。


 薄ぼんやりとした 思考の中だが、その人──しゅんがいる心地良さだけが感じられる。

 しかし、霞のかった意識では何を言われたのか理解できず、頬を撫でられ続けている。


「ん」


 美優は無意識のうちに、瞬の手の平へ頬を擦り付けた。


「……明日も早いもんな」


 そんな声が聞こえたかと思うと、額に触れるだけの口付けを落とされた。

 それだけでは止まらず、包み込んでいた頬や鼻先、目尻や唇の端まで余すことなく口付けの雨が降った。


「しゅん、くん」


 これでは眠れそうにない。

 窓の外はとうに暗く、深夜と呼ぶに相応しい時間帯だ。

 抗議すべく、今度こそ美優はぱっちりと瞳を開けた。琥珀色こはくいろの大きな瞳が、しっかりとした意識を持って開かれる。


「んー?」


 ベッド脇に置かれているサイドランプのオレンジ色の光が、瞬の頬に淡く影を作っている。

 こてりと首を傾げ、美優をじっと見つめる黒曜石のような瞳は優しい。


「眠らせる気ない、でしょう……?」


 怒ろうとしたが、あまりにも優しげな表情で見つめられると、語尾の小さな拗ねた口調にしかならない。

 自分の顔に弱いことを、瞬も分かっているのだろうか。


「バレたか」


 瞬はくすりと小さく笑いつつ、蜂蜜を溶かしたような、甘く妖艶な表情を浮かべた。

 慈しみ、大事にしたい時に見せる──ともすれば、これから何をするのか美優に分からせるような、そんな表情だ。


「わかりますよ。だって貴方がこうする日は──」


 ぶつぶつと小さく口の中で呟く。

 そうして美優が起き上がろうとするよりも早く、瞬に身体を押さえられ、美優は再度ベッドへ沈み込んだ。


「ちょ、しゅ」


 名前を呼ぶことは叶わなかった。


「んぅ」


 ぐいと細く小さなおとがいを瞬の骨張った指先で優しく固定されると、柔らかく唇を重ね合わされた。

 何度も角度を変え、時にはんで、甘く唇を味わい尽くされる。


「ん……、ふっ」


 キスをするのは初めてではないはずなのに、こうして不意打ちのように唇を重ね合わされ、獣のように口付けられると頭が働かなくなってしまう。


「や、っ……!」


 吐息を絡め合わせる仕草をされそうになると、美優はドンと瞬の引き締まった胸元を叩いた。

 そうして距離を取ろうとしたが、微かに隙間が空いただけであまり変わらない。むしろ一層距離を縮めようとしてくる始末だ。


「嫌か……?」


 至近距離で瞬の瞳に見つめられると、抵抗する言葉も出なくなる。


(嫌、じゃないけど……でも)


 子犬のような目でこちらを見ないでほしい。

 誘うような声で言わないでほしい。


「言わなくてもわかるじゃないですか」


 じっと見つめられるのに耐えきれず、かといって正直に言う気にもなれず、美優はふいとそっぽを向いた。


「俺は美優ほど勘が良くないんだよ、ごめんな。──なぁ、どうしてほしいのか教えて?」


 わざとらしい口調で謝罪したかと思うと、耳元に唇を寄せて殊更ことさらゆっくりと囁かれた。

 何を言いたいのかわかっているが、あくまでも美優の口から言わせたいらしい。


 瞬はほんの少し揶揄からかうような瞳を、美優に向けた。

 こうなると瞬は引かない。美優は諦めて口を開いた。


「……明日も早いですし」

「うん」


 相槌を打ちつつ、瞬は美優の顔の両側に手を置いた。その拍子で、スプリングがぎしりときしむ。


「えっと……」

「うん、何?」


 ドクリドクリと心臓が脈打つ。


 言ってしまえば、瞬は止めてくれるのだろうか。

 美優をゆっくりと、朝まで眠らせてくれるのだろうか。


(瞬くんのことだから……きっと止めてくれない)


 考えているうちに、睫毛まつげが触れ合うほどの距離まで顔を近付けられる。


「眠らせて、ください」


 美優はぎゅうと瞳を閉じた。あまりにも長く、瞬に見つめられて甘く問い掛けられては堪らない。


「悪い、聞こえなかった。もう一回言って?」


 こてりと首を傾げるさまは確信犯のそれに近い。

 それが美優の本心でない事はとうにわかりきっている、という風だ。


「明日も早いってこと、知っているでしょう……?」


 ちらりと瞳を開け、瞬の方を見る。


「勿論知ってるよ。でも美優は寝てて大丈夫、俺が勝手にやるから」


 壮絶なまでの色香をまとい、瞬はにっこりと微笑んだ。

 口調は優しいのに、その手つきは美優の官能を引き出そうとするように、普通よりも薄い腹や肩をゆっくりと撫で擦る。


「えっ……ぁ、待っ、て」


 抗議の声はもう届かない。

 美優が甘い嬌声きょうせいを上げるまで、そう時間は掛からなかった。

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ある日の夜を、あなたと 櫻葉月咲 @takaryou

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