餓鬼道探訪記

隠れ里

餓鬼道探訪記

 これは、夢の戸口だ。俺は、この場所を知らない。


 ここは、俺の夢の中らしい。何か理由があって、ここに連れてこられたようだ。


 目の前に仁王が、ふたり立っていた。


 仁王といえば、憤怒の形相を浮かべる筋骨隆々な像である。


 寺院などに設置されているのをよく見かける。


 俺の前にいる仁王は、そんなイメージとかけ離れた細身にマントを着用した剣士だった。


 かけ離れているにも関わらず仁王だと理解できたのは、夢の中だからだろう。


 夢は、あらゆる理不尽なことも常識として認識してしまうものだ。


「君を呼び出したのは、餓鬼道に来てもらいたいからだ」


 仁王の口は、真一文字に結ばれたままだ。表情も憤怒の形相を貼り付けたままである。


 餓鬼道といえば、三悪道のひとつで飢えと渇きにさいなまれる世界だ。


 この仁王は、そこに俺を連れて行くと言った。俺の生き方が悪かったのか、なにかの警告なのか。


「君の祖父が、餓鬼道で苦しんでいる。君にその姿を見てもらいたい。これは、夢として君の記憶に断片的ではあるが残るだろう」


 仁王の声は、耳にというより、感情に訴えかけてくる感じがある。


 不思議な気持ちだが、実際に耳で聞くよりも深く心に刻まれるためか、心地がよい。


 祖父が、悪道で苦しんでいると聞いても何ら不思議はなかった。


 疑うこともなく、悲観も憐れみすらない。


 無意識のうちに理解し当たり前なこととして受け入れる。


 ずいぶんと冷静であり、残忍な気もするが……


 祖父の生き方を考えれば、納得しかできないからだ。


 金に執着し、欲望を渇望するような人生。自分のすべてを惜しみ、他人のすべてを求める。


 そのような人だった。


 俺は、祖父の心配などよりも自分のことで餓鬼道に連行されるわけではないことに安堵した。


 おそらくは、選択肢はないのだろう。俺の返事を聞く気もなさそうだ。


 何故なら、ぼんやりとした夢の戸口の景色は、セピア色に変化しつつあるからだ。


「今の君にとって、餓鬼道は危険な場所だ。我々が護衛につくので、安心して欲しい」


 真っ白な空間は、セピア色の空に変わる。柔らかく現実味のない足場が、しっかりと強固になった。


 鼻をつく土煙の匂い。乾燥した大地には、石ころと亀裂や穴しか見受けられない。


 川がある。俺は、何かあるのではないかと覗き込んでみた。


 砂が流れていた。耳にこびりつくような不快な音を立てて流れる砂の川。


「あれを見るがいい」


 仁王は、砂の川の上流を指し示した。


 太鼓腹に細長い口。ボサボサの髪は、炎のように揺れていた。


 餓鬼だ。認識すると同時に餓鬼は、砂の川に飛び込んだ。


 餓鬼は、砂に流されることなく、弾かれて川辺に叩きつけられた。


「あれは……」


 俺の質問に、仁王は答えた。餓鬼は、最後のときになって喉の渇きを我慢できなくなったのだと。


 しかし、砂の川に拒絶されて弾き返されたのだそうだ。


 川辺で、ぐったりとする餓鬼のもとに他の餓鬼たちが寄り付いてくる。


 動けなくなった餓鬼の皮膚を細長い口を突き刺した。


 ストローのようにして、生き血でも飲む気なのだろうか。


 ところが、倒れた餓鬼は黒い煙となって消えていった。

 

 餓鬼たちは、苦しそうな声を上げて空を見上げていた。


「あのような満たされることもなく、飢えや乾きに苛まれている。川に飛び込んだ餓鬼は、寿命を迎えたのだ。寿命を迎えた餓鬼は、最後に選択肢が与えられる。大抵のものは、乾きを癒やすため砂川に飛び込むのだ。そして、拒絶されて他の餓鬼に喰われる」


 仁王から、哀れみの心が伝わってきた。


 俺は、餓鬼たちが、人間以上の寿命を持っていることを知っていた。


 誰に、どこで何時、教えられたのか、或いは知ったのかは分からない。


 あの餓鬼は、死んだ餓鬼は、とりあえず苦しみからは解放されたのだろう。


 次の輪廻では、飢えや渇きから逃げられるといいのだが、それは叶わないのだろう。


 最後の選択肢を誤った彼は、自分の命を大切にできなかった報いを受けるのだろう。


 俺は、救いのない光景を見下ろしながら仁王の導くままに先へと進んだ。





「風の音ではない。餓鬼どもの泣き声だ」


 仁王は、相変わらず哀れみの心を込めて俺の質問に答えた。


 干からびた大地を這いずり回る餓鬼どもは、巨大な塔を見上げて泣いているのだ。


 餓鬼道の中では、唯一の建造物であるという。


 この巨塔に住むことが許されているのは、前世の罪業が軽いものか、誰かに供養されたものだ。


 このような環境下にあっても、渇望する心は消えないのだろう。


 塔を目指す俺たちを羨むように、コソコソと盗み見てくる。


「あまり見ないほうがいい」


 仁王のひとりが、俺の背中にまわって急かすように歩を早めた。


 塔が、近づくごとに線香の匂いが強くなる。徳の高い場所ほど線香の香気が強くなるのだという。


 餓鬼道における線香は、まるで魚を焦がしたような刺激臭がする。


 仁王たちは、塔の入り口には入らずに外側にある螺旋階段を登るようだ。


 俺もあとに続いた。


 渇いた風が、顔にまとわりつく。何かを求めているように……


 この世界は、全てが飢えて渇いているのだ。


 踏みしめたら崩れそうな螺旋階段は、雲のない砂塵の空までのびている。


 ふたりの仁王は、俺を挟むようにして螺旋階段を一緒に登っていた。


 いずれも険しい表情を浮かべて、周囲の警戒を強めているようだ。


 緊張感が伝わってきた。俺は、慎重に足を動かしながら、階下のひび割れた大地を見下ろす。


 絶景などとは、口が裂けても言えない。遥か彼方まで、渇きが続いているようだ。


 餓鬼たちの嘆きは、ちりあくたのようにこの世界を彷徨っている。


 それは、気流となって俺の耳を責め立てているようで、背筋が寒くなった。


「そこの扉の向こうに、お前の祖父の部屋がある。かつては、高僧の母親が使っていた部屋だ。餓鬼道の世界では、最も上のものが住む部屋なのだ」


 ここが、最上階なのだそうだ。螺旋階段は、まだまだ生気のない空の向こうに繋がっているのだが。


「あの空の先は、畜生道に繋がっている。今は、気にする必要はない。さぁ、早く入るのだ」


 仁王たちの様子から察するに、時間がないのだろう。俺は、この世界の人間ではない。


 長く滞在できないのは、容易に想像ができる。


 俺が扉の前に立つと、扉は自動で開いた。どれくらい久しぶりに開いたのだろう。


 随分と、甲高い音が辺りに響いた。


 寂しい香の匂いがする。墓地の匂いだ。


 暗い通路には、篝火が並んでいて周囲を照らしている。視界は保たれている。


 奥には、大きな鬼が立っていて扉に手をかけてこちらを見ていた。


 この奥に祖父がいるのだろう。別に会いたかったわけでもない。


 死んだあと、どうなったかなどと考えたこともないのだ。


 何故なら、祖父の生き方を考えれば堕獄していて当然である。


 それが、餓鬼道の最上階で住んでいるのは血縁者たちの徳が高かったおかげであろう。


 むしろ、甘いと断じるべきだ。


 祖父は、どのような姿をしているのか?


 本来、受けるべき苦しみから逃れ、どのような考えで生きているのだろうか?


 大鬼は、扉を開け放つ。


 小さな部屋は、粗末な豚小屋みたいになっているのではないかと予想していた。


 意外にも綺麗に片付けられていて、机や椅子などの家具がある。


 暖炉のようなものの前に膨れ上がった毛布を見つけた。それが祖父であると、すぐに分かった。


 祖父は、微動だにしない。しかし、死んでいるわけでもない。外にいた餓鬼たちと同じだ。


 満たされない渇きを毛布の膨らみから、感じる。


 俺は、少し近づいてその姿を確認しようとした。妙な心持ちだった。


 この気持ちを例えるなら、動かない虫を木の棒で突き、生存確認をするような心境だ。


 なんとなく生きていると分かっていても、確かめたくなる。


「近づくな……」


 静かな声が、俺の背後から聞こえた。同時に、大きな手が、俺の襟首を掴んだ。


「あれは、飢え渇き、満たされることを知らぬ餓鬼だ。お前まで喰らうだろう。助ける方法はひとつ。この夢を断片的にでも覚えていることだ。あとは、元の世界のお前が知っているし、すでに実践しているな。それを続けるのだ」


 大鬼の手は、俺を掴んで離さない。その時、毛布の隙間から鋭い眼光が見えた。


 際限なく健啖を求める化物がいた。


 ここで、俺の夢は終わったのである。


 【餓鬼探訪記】完。

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