『純粋『戦争』批判~戦争をなくすために』エッセイ(『九頭龍一鬼はかく語りき』特別篇)

九頭龍一鬼(くずりゅう かずき)

戦争をなくすために

 現代は原始時代である。


 岡田斗司夫は『未来のことはSF小説に書いてあるからSF小説を読みなさい』と発言していたはずだが、すくなくとも、技術的特異点嚮後を描破した作品には、根源的に戦争などというものは存在しない。


 たとえば『ディアスポラ』においては、人類の大半は特異点嚮後のノイマン型コンピューターに肉滅して、永遠の生命とともに、一プランク秒ごとの快楽をあじわっている。


 松田卓也『2045年問題』などを瀏覧すればわかるが、これはけっして小説家の妄想ではなくて、――あたりまえのことだが素粒子の波動関数の拡散も考覈すれば――充分におこりえることである。


 ゆえに、愚生は、戦争などという人殺し祭りの文化がのこっている『現代は原始時代である』といいたいのだ。


 では、なぜ戦争などというものが現代も残存しているのか。


 ナチスに暗殺された哲学者ベンヤミンは「複製技術の時代における芸術作品」のなかで『戦争とは政治における耽美主義である』(『政治の耽美主義をめざすあらゆる努力は、一点において頂点に達する。この一点が戦争である。』「複製技術の時代における芸術作品」岩波文庫)と揮毫した。


 戦争においては、経済、産業、教育、人口推移、科学技術水準など、あらゆる政治的要素が、『戦争に凱旋する』という一点――一点透視図法における消失点――へとむかって輻輳するがために、政治家にとってこれほど気持ちのよいことはないから、『戦争は政治における耽美主義』なのである。


 この箴言は現代において、亜米利加や独逸などの軍事輸出大国を中枢とした、グローバリズム的な『軍産複合体』の後楯によって磅礴たる世界規模で成立している。


 よって、『現代という原始時代』において戦争という旧弊を払拭するためには、因陀羅網の軍産複合体を解体できないのであれば、経済活動を戦争と接続させる『政治活動そのものにとどめを』さすか、そもそも、戦争を豎立させる『経済活動そのものにとどめを』ささなければならない。


 畢竟『人類文明からお金という概念を抹殺』するくらいに根源的な方法をもちいなければ、戦争という耽美主義を勦滅することはできないのである。


 曩時、拙作『純粋『障碍者差別』批判』に、愚生とおなじく精神障碍者である大坪命樹様から以下のようなコメントをいただいた。


 長文になるが、名文なので引用させていただく。


『僕の論を述べておくと、障害者が非生産的などと言われるのは、資本主義と貨幣経済に毒されているからで、お金を稼ぐことが偉いと思っているうちは、まだ貨幣の呪縛で不自由だ。お金は、それを餌に人が動くところの社会を動かすラジカルでしかなく、貨幣などなくても社会を動かすラジカルがほかに存在すれば、人類は成り立つ。生産も貨幣のないときは自給自足でよかった。貨幣の発明は、農耕や貯蔵などの土壌があって起こったものだろうが、そろそろ人類も行き詰まった資本主義から脱するために、貨幣経済を捨てなければならないだろう。』


 大坪様の文章を瀏覧した爾時、愚生は『貨幣経済を捨て』ることなど可能だろうかと狐疑逡巡した。


 然様な愚生も、しばらくしてひとりの人物を髣髴する。


 自宅の界隈に農場をつくり、躬自ら『トルストイ主義者』と名乗って攢叢してきた同士たちとともに平和的無政府主義生活をおくった文豪トルストイである。


 十年以上曩時に読了したので、記憶が曖昧だが、『戦争と平和』のなかに、トルストイがモデルとおもわれる青年が登場し、平和的無政府主義世界を実現せんと、爾時の露西亜皇帝を暗殺せんとするくだりがあったはずだ。


 皇帝暗殺のくだりはフィクションだろうが、トルストイは真摯に『政治と経済から自由な世界』を冀求していて、農場をひらいてから行方不明になる晩年までは、実際に『政治と経済から自由な世界』を実現していたのである(これらは『トルストイ運動』とよばれ、トルストイ死後にソヴィエトによって国内では禁止されたが、現代でも世界中で実践者がのこっている)。


 基督でも仏陀でもないひとりの老人がなしとげたことが、われわれには不可能なのであろうか。


 原稿が浩瀚になるために、最後にフーコーの哲学についてだけ言及しておきたい。


 フーコーの哲学――厳密には経済哲学――において、人類史のエピステーメー――人類史という絵画を外側から観覧したときの『額縁』のようなもの――は、『類似』『表』『人間』という順番で変貌していったという。


 此処で、『類似』『表』『人間』などという専門用語には拘泥なさらなくて結構である。


 問題は、フーコーによれば『人間』の時代はすでに終焉にさしかかっており、これから『第四のまったくちがう歴史がはじまる』といわれることである。


 フーコー自身の急逝によって、『第四のエピステーメー』は謎のままになったが、愚生は個人的に、『経済活動そのものがかたちを変え』て、『戦争など原始時代の遺物とおもわれ』るような、『第四の人類史』がはじまることをいのっている。


 ――あとがき――


 今回も、ほぼフリーハンド(レファレンス・ブックの頼りなし)で、感情的に執筆してしまったので、さまざまな誤謬はあるかとおもわれるが、これが、現在、無知蒙昧なる愚生が揮毫できる限界である。


 政治的立場、経済学的視座、歴史的認識、さまざまな見方があり、拙文はその毫釐なるひとつにすぎないので、読者諸賢の逆鱗にふれる箇所、御批判なさりたいところもすくなくないとおもわれるが、御容赦いただきたい。


 また、現在の国際情勢の各問題についての御質問や、過去の戦争についての具体的な議論などにはお答えいたしかねるので、御諒承いただきたい。


 できるだけ、表面的ではなく、根源的なる視座をたもちたいとおもったが、善男善女、右翼左翼、老若男女、あらゆる立場の読者諸賢に、孑孑ながら参考になれば僥倖と存じている。

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