紅の槍

夢乃ミラ/碧天 創

第1話

         



 そこは、生まれ変わった地獄だった。


 一晩で均整の取れた芸術の都が狂気と殺戮が次々と生まれる地上の地獄と化した。

 少年と姉は血にまみれた都市から脱出するために駆け回っていた。彼の鼻に入ってくる臭いは吐き気を催すような血のそれと硝煙の臭いだった。見るもの、聞くものも凄惨極めるものだった。


 道路にあふれるのは、死体、死体、どこまでも死体だった。それもただの死体ではなかった。ある者は、何か巨大な槌で潰されたかのように体の穴という穴から中身が飛び出してうつぶせになっていた。ある者は、胴を握りつぶされたように、異常に腹が内側に向かって潰れていた。街の兵士だったものは、見るも無残に全身が鋭い刃に切り裂かれたような切り傷を無数に受けて原形をとどめていなかった。


 空には、幾筋もの煙が上がっており、灰色の雲に覆い尽くされて辺りは薄暗い。歴史あるレンガ造りの建物は上の部分から破壊され、倒壊しているものがほとんどだった。


 割れた硝子が散乱している――中心部で爆発でもしたのか多くは建物の内部に向かって散乱していた。


 レンガを敷き詰めた路は人の足跡のような沢山の穴ができていた。


 街から聞こえるものは、悲鳴と祈りだった。

 この街は芸術のみならず、合唱も盛んだった。その歌は神に捧げる聖歌だった。街の全ての少年少女が聖歌隊に入り、その歌声を、その涼やかで健気な歌声を大聖堂の中で響かせていたものだった。

 しかし、今となっては、抑揚も何もない、単調な祈りが聞こえるだけだった。死にたくない、死にたくないと。


 少年と姉は、恐慌に陥る街の人々を尻目に逃げ回っていた。


 姉が先行してレンガの壁に向かって身を隠す。辺りには土埃が舞っていて彼らの視界は遮られている。


 姉は不安そうな顔を浮かべていた。少し薄い茶色の長い髪を放り出して、寝床姿のまま駆けていた彼女の姿からは、凛とした強さとそれとは対照的な儚さを思わせた。少年はこの姉のことを信頼していた。必ずこの変わり果ててしまった街から脱出することができると信じていた。


 だが、姉の不安げな顔を見るうちに彼も不安になっていた。彼がじっと姉を見つめていると、彼女は不安げな顔から明るい表情へ変わって、


「大丈夫よ、このまま慎重に進んだら門に着くから。そうしたらこの街から出られるわ。安心なさい」


 彼は彼女への信頼の証として、黙ってうなずく。姉は右手で少年の左手を握って、レンガの壁から抜け出す。


木の車が炎上して灯となっていた。そばには横たわる馬の死体があった。死体は二体いて、一つは胴を潰され、もう一つは頭を思い切り殴られて潰されていた。煙と血の臭いが混ざったものがさらに鮮明になる。


 そばには、この街の領主の統治を表す白薔薇の紋章が描かれた旗が立ち、一筋の血が塗られていた。その隣には白地に金色の十字架が描かれていた旗が突き刺さっている。白布の全面に血が浴びせられていた。


 姉は崩れる心配がない反対のレンガの壁へと向かう。顔を出して、この先が安全かどうかを確認しようとする。もと来た方向を見た瞬間に彼女が固まった。少年も何が見えたのかを確認しようとする。


 そこには、悪魔が立っていた。


 レンガの瓦礫の先で毛むくじゃらの怪物が、その害に抵抗し撃滅しようとする兵士達を、鋭いかぎ爪で埃を払うように軽い所作で切り裂いていく。兵士達の悲鳴と雄叫びが起こる。

 怪物は経典にある悪魔の姿そっくりであった。山羊の頭と角、三本の長い蛇の尾、歪に曲がったかぎ爪。見た者は怪物への畏怖の心よりも本能的な恐怖を覚える。怪物の目は気力が吸い込まれそうなほどに深く虚ろであった。


 姉はすぐに顔をひっこめた。彼もそれに倣って、遅れて顔をひっこめる。今度は不安げな顔を変えずに少年に告げた。


「いい? これから門まで一直線に駆け抜けていくわよ。ここからそう遠くないから、全速力で走るわよ」


 彼は彼女の凄みに圧倒されて、せわしなく首を縦に振る。姉は少年の目を見て微笑む。


 姉と少年はいつでも走り出せるように体をかがめていた。彼の手を握る姉の手からは微かな震えが伝わった。


彼は、姉の顔をふと見た。顔には冷や汗が大量に吹き出していた。カチカチと彼女は顎を震わせる。


 彼女は怪物ができるだけ遠くなるまで待っていた。そして最後に残った兵士を怪物が重々しい足取りで追い始めたのを見て、二人は駆けた。

 息が切れて立ち止まりそうだったが、そんなことを気にしている暇はなかった。

 街中に漂う血の生臭さや硝煙は加速する世界から排除されて、代わりに光景には似合わない清々しい空気が彼らの喉を引っ掻いていった。


 体中が重くなってきた頃、彼らの背後から爆音が轟いた。


 少年が背後を振り返ると、毛むくじゃらの怪物がレンガの残骸を腕で跳ね飛ばしながら彼らの方に突っ込んできていた。


「走るわよ!」


 姉は足の回転を上げた。少年は時々躓きそうになる。彼を意に介さず姉は夢中で駆けていた。


 お互い寝床姿で飛び出していたので、裸足の両足は硝子やレンガの欠片が突き刺さって、歩いた後にか細い血の筋を引いていた。だが二人には足のことを気にする余裕がなかった。


 走ってどれくらい経ったか、わからなくなるほど長い時間を過ごしてきたように感じていた。走っている間に見える風景は、どこまで行ってもレンガの瓦礫が積み重なったもので、過ぎ行くのが緩やかに感じられた。


 やっと門にたどり着いた時には二人とも倒れ込んでいた。撒けたかと姉が背後を振り返ると、青ざめた顔になった。そして、彼も振り返ろうとしたが、彼の風景が回転した。次の瞬間、近くで耳を突く爆音が響く。


 彼は起き上がると姉のいた方へと振り向く。姉がうつぶせになって倒れていた。

 彼女の足は岩に押しつぶされていた。岩の隙間から血が流れる。彼は彼女を運び出そうと腕を引っ張った。


「もういい! 早く逃げて! あんただけでも逃げて!」


 地鳴りが徐々に大きくなっていく。


 彼女は手を払って少年を退かせる。彼は諦めずにまた掴もうとするが、瞬間、大きな影が二人を覆った。彼は体を震わせる。


彼女は数滴の涙を流して、

「お願い」

 彼はそこから慌てて離れて、壁の陰に隠れた。


 毛むくじゃらの怪物が、のっそりと片手で岩を持ち上げて端に置く。器用に爪で姉を自らの目の高さまで持ち上げる。

 怪物は虚ろな目で彼女を見つめる。少年には怪物が奇怪な笑いを浮かべているように見えた。怪物は姉を左右に揺らして弄ぶ。


彼女は泣き始めて、両手をじたばたさせる。


「……お願い、やめて、助けて、たすけて、私死にたくない、死にたくない。死にたくないの」


 必死に懇願するが怪物の弄びは徐々に激しくなっていく。姉を左右に振り回して怪物の奇怪な笑いがさらに奇怪になっていく気がした。


「お願い、お願いですから、私を助けてください、お願いです、助けて下さい。私死ぬのは嫌なの、誰か助けて! お願い誰か助け――」


 嘆願は、無意味だった。


 三本の蛇の尾が彼女に四方から噛みついた。蛇が姉の体をしばらく味わった後、その体を引きちぎった。


 あ然とした彼の顔に、一筋の血が引かれる。それと同時に彼女の千切られた右腕が目の前に落ちる。


 毛むくじゃらの怪物が彼を一瞥する。門の横を過ぎて、次の獲物を探し始めた。


 彼は、地面にへたり込んで呆然自失としていた。やがてその腕を抱きかかえた。冷たく固く、ほのかに暖かい。彼はそこで失ったものの大きさを知った。


 彼は初めて、慟哭(どうこく)した。


 街に大雨が降り注ぎ、地面の血をことごとく洗い清め、雨の音が彼の慟哭を塗りつぶした。


 悲劇は銀幕の世界に覆われた。

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