第3話

          三



 そこは、災厄の震源地だ。


 ジンは件の村の関所の門を見上げていた。ヨーンの石造りの荘厳な印象を持たせたものとは対照的に、素朴で実用性だけを追求しており、穏やかで静かな雰囲気を漂わせている。

 

 高い山々に囲まれた盆地の中に築かれたロックバレー村の人口は三千人ほどで、村人の大半が農民である。元々小麦などの穀物が生えないような枯れた土地だったが、用水路を引いて畑に水が行き届くようにしたり、堆肥や枯草と混ぜた土を元々の土壌と入れ替えたりした結果、今では肥沃な土地になっている。


 気候は安定していて、村に害を為すものといえば猪や鹿程度である。村の外では、怪物だ、ドラゴンだと叫ばれているのとは反対に平和的である。村の近くに群生する杉や松の森には多くの生き物が住んでおり、それらは多種多様である。


 またロックバレーから優秀な人材が沢山輩出され、多くは村から東に数十里のところにあるヨーンに行って、騎士や神父などの見習いになって研鑽を積む。

 

 ジンはロックバレー育ちの“狩人”――狩猟ギルドの構成員――に会った。褐色の肌をした強そうな見た目の男だったが、その語り口はそれとは裏腹に穏やかで聡明な印象を与えた。


 しかし、ジンはどんなに血と無縁の場所であっても、それは理不尽に襲い掛かり人々を混沌の淵に陥れることを知っている。


 かつて、芸術の都と呼ばれた大都市を滅ぼした毛むくじゃらの怪物がいた。その怪物は他の都市も破壊し、遂に複数の君主が誓約を立てて、連合軍が結成した。怪物一体に対して連合軍は数十万という圧倒的な差をつけて、討伐に向かった。期待とは裏腹に怪物は無傷のまま数十万の軍勢を返り討ちにした。戦況はもはや一方的な虐殺といってもよかった。


 結局、毛むくじゃらの怪物が殺されたのは、事件から十年後のことだった。その時は、総力戦といってもよく、百万近い連合軍に、数千の狩猟ギルドが集った。


 三十万の犠牲によってようやく地に斃(たお)れた怪物だったが、怪物に決定的な楔を打ち込み、とどめを刺したのは、一人の少年の執念だった。


 槍を片手に、単身怪物に突撃して、その度に大怪我を負い、怪我が治るとまた突撃と、無謀の極みと言ってもよかった。彼には必ずこの手で仕留めるという執念があった。


 結局怪物は一人の少年に殺された。少年は数々の兵士の屍が積み重なった丘の上に立った。その手には血に染まった槍が掲げられ、兵士達はその撃滅を喜んだ。


 以来、この少年は“竜狩り”と呼ばれることとなる。


 毛むくじゃらの怪物が出現してから、次々と異様な姿の怪物が現れ始め、人間に等しく死と恐怖を与えた。人々は畏怖の念を込めて、それらの存在を、竜と呼んだ。それがジンに竜狩りという異名がつけられた理由だった。


 竜は有象無象から現れ、人々に死をもたらす。それも残酷で、一切の救いが見えなくなるほどに。常に人々は竜の襲来を恐れて、以前よりもまして神に祈りをささげるようになった。ロックバレー村には敬虔な信徒が多いとジンは噂に聞いていた。


 これからジンが入るのは戦場よりも虚無感や絶望感を感じる場所であり、そしていかなる景勝の地よりも静かな場所である。生き物が淘汰され、ガラクタと荒廃した大地だけが残された場所である。


 ジンが門の中に入ろうとした時二つの槍が交えられてジンの行く手を阻む。門の前に立つ二人の衛兵がジンをにらみつける。


「お前、何者だ。ここは立ち入り禁止だぞ」


 ジンはいちいち説明するのが面倒であったので、ベルトの小さなバッグに入れてあった紙を取り出して、衛兵に見せる。衛兵は驚いた顔をする。その紙には領主の命令が記されており、最後には『汝これを受けよ、拒めば主の雷槌が下る』という文句が付いている。


 ジンは使者がなぜ勝気な態度をとったのかを理解した。どんな拒絶の意思も、命令書一つで変わってしまう。それは爽快に違いなかった。


 衛兵は、渋々交えた槍を外し、ジンが関所を通ることを是とした。ジンは体を覆っていた黒衣を払い退けた。


 しばらくすると門の扉がゆっくりと、少々不快な音を発しながら開いた。奥に広がるのは薄暗い森だった。枯れ葉が沢山道に積もっており、静かだった。そよ風の音が聞き取れるほどの不気味な雰囲気に、のぞいていた衛兵は恐れをなして、一歩後ろに退いた。


 ジンは黙って暗い森の中へと歩んでいく。


 黒衣の端が風に吹かれてはためく。肌寒く感じるのは、秋の朝だからだろうと思った。

森の奥へ進んでいけばいくほど、門の前で感じた妙な感覚は増していった。まるで森が眠ってしまっているかのように生き物の気配がまるでない。


 あまりの静けさに、彼は警戒心を強めた。冷ややかな空気が人ならざる者の存在を告げる。


 ジンは予想外の敵が襲ってくるのを恐れた。

 

 彼が備えている装備は、強大で生半可な攻撃が通用しない竜に対してのものだった。それ以外のものがいるとなると、歴戦の狩人であるジンはただの人間である。


 これは使者と交わした契約による。契約が個人にあてられるものが故に、ギルドには何の害をもたらさないという論法だが、裏を返すと誰にも頼れないということである。


 森の中にたった一人で、しかも装備しているのは、五年前に竜を殺した時に振るっていた槍だけで、補助の武器はナイフが二本と頼りない。


 静けさが緊張感を高めていく。整備されていなかった路がこの時ばかりは恨めしかった。


 木漏れ日が神秘性を醸し出していたが、ジンは気にする余裕がなかった。冷汗が顔から一筋流れ出る。


 門を出てから、ジンはもうどれくらい時間が経ったのかがわからなくなっていた。次第に一歩一歩が重く感じられ、手足は固くなっていた。


 ふと、視界に枯れ葉の風景とは違ったものが入り込んだ。横たわるそれは、茶色かった。


 ジンがそれに近づくと、強烈な腐敗臭が鼻を刺激した。横たわるそれは明らかに動物だった。ジンはそれに顔を近づけると、驚きのあまり後退ってしまった。口を開け放している馬の顔だった。

 馬は、いや馬だったものは、毛並みを乱しており、その四肢はでたらめな方向に折れ曲がっていた。死後何日もたっているのか、毛の色が褪せていくつかの落ち葉が毛に絡みついていた。


 動揺してジンはさらに後退さると、かかとが何かにぶつかる。振り返るとそこにも馬の死体が横たわっていた。しかも一体だけではなく、何十体も。


 ジンがぶつかったところには、死体が三匹固まっていた。他の死体はまばらに散らばって横たわっていた。


 どの死骸も死んでから何日もたっているようだった。ほとんどの馬に傷や怪我が見当たらないので、餓死が原因だとジンは推測した。


 中には、むごたらしい仕打ちを受けた馬もいた。村に近い路の真ん中に倒れていた死骸は、周りの死骸とは状態が比べ物にならないくらいひどいもので、多くのハエがたかって体液を啜(すす)ったり肉をむさぼったりしている。地面の枯れ草にはおびただしい量の血痕が刻まれていた。


 馬にたかるハエを手で振り払うと、大きくえぐられて黒ずんだ中の肉があらわになる。骨まで見えるほど深い傷を見て、ジンは息をのむ。傷は馬の腹と尻につけられており、そこから血や臓物が飛び出している。


 ジンは、目前にある村を取り囲んでいる柵と門を見る。扉が開け放しにされ、近くの地面には、多くのくつわの跡が刻まれている。


 空気はほのかに温かみを増し、雲の輪郭がはっきりとわかる。ほぼ快晴といってもいい天気だったが、これから待ち受ける地獄のことを思うと、しみじみと感じていられなかった。


 ジンは、門を手で押して村へと入っていく。しばらく進むと厄災の痛々しい光景が眼前に現れた。


 初めに目に見えた家屋は、もう使われていないようなボロボロの蔓に覆われた黒い物置小屋だった。屋根が崩れ落ち、雨が降り注いだからか、かび臭さと腐敗臭が漂ってきた。歩いて腐敗臭を辿ると、座り込んで背中を小屋の黒い壁に預けた死体があった。


 ジンは死体に近づいて、屈んで眺めていると、それほど腐敗していないことに気が付いた。全身が血まみれで、その明るい茶色の髪は顔が見えなくなるくらいに乱れていた。ジンは死体の顔を持ち上げた。死体は、いや彼女は鼻血を垂れ流して緑色の目を見開いたままだった。


 ジンは死体を横たえて、仰向けに寝かせる。目を閉じさせて、安らかに眠れとジンは呟いた。彼女の、目を閉じた顔が心なしか、ジンには微笑んでいるように見えた。


 彼なりの方法で弔った後に、ジンは地面がむき出しになった路に歩を進めていく。道は昨日雨が降ったのか湿って、土が泥のようになっていたり所々水たまりができていたりしていた。やがて家屋らしきものが徐々に増えていくのが見えていくのに連れて、その水たまりに鮮紅がちらほらと漂っているのが見えた。


 ジンは緩やかな丘を登っていく内に、荒らされた牧場を見とめた。木の柵の中には幾つもの血だまりができていた。


 囲いの出入り口は壊れかけていて、その近くの地面には多くの血だまりがあった。ジンにはここで何を飼っていたのかが見当もつかなかった。牧場にはまるで誰かが隅々まで、生き物の死骸や血を舐めとったのかのように、何の痕跡もなかった。


 ジンは牧場のそばにあった、小屋と一体になった黒っぽい木造りの一軒家に足を進めていった。小屋の周りには、広い範囲で血痕が残っていた。引きずられてどこかへ連れ去られたものや、その場で上から押しつぶされたものが、鮮紅で地面に刻まれていた。


 家は半壊し、中には木の割れた板や花瓶の破片が散乱していた。屋根には大きな穴が開いていて、水がぽつぽつと垂れ落ちている。落ちる水の音が、より家の中の空気を引き締めていた。


 ジンは使えるものを探そうとしたが、崩れた屋根が行く手を阻んでいたので諦めた。硝子の破片が散乱する玄関から出た時、ジンは目の前に広がった光景に、息を漏らさざるを得なかった。


 丘の上からは、広大な村の全景が見えた。柵に囲われた平原に、数多くの家屋――家屋だったものが築かれており、中央の横幅の広い目抜き通りの先には、村の建物の中でも最も大きい教会が中心に建てられている広場があった。所々から細い煙が上がっていた。


 背景の空はいつの間にか曇り模様になっていた。依然として小鳥の鳴き声や、犬が吠える声が聞こえなかった。


 柵の外の緑が残る針葉樹の森でさえ、風が吹かない限りはその体を揺らそうとはしなかった。


 ジンは丘を下りながら、各家屋の惨状を観察した。道の一方に目を向けると本来実っているはずの小麦がことごとく枯れて薄い茶色で畑を覆っているのが見えた。他方に目を向けると何も植えられていない畑に深い穴が数多く穿たれていた。穴のそばには、千切られた人間の手足、首まで埋まっていた。


 目抜き通りのそばに建っていたひときわ大きな屋敷には、これまでとは違った血痕があった。木の門には、無数の手形があり、ほとんどは男性のものだった。


 敷地の中に入ると、やはり血痕が多数あったが、中には千切られた臓物が一緒になっていたところもあった。また屋敷に生えていた広葉樹の枝が次々に折られて、地面に散乱していた。残った葉には血の塊をぶつけられて、赤黒いものを塗りたくられていた。


屋敷には入れなかった。屋根に投石機から放たれた岩をぶつけられたかのような大きな穴が開いていて、中に入れば怪我をするかもしれなかった。


 ジンは屋敷のそばに掘られていた井戸を見つけた。井戸の近くから強い腐敗臭が漂っている。近づいて井戸を覗くと、ジンは思わず鼻を押さえて後退さった。


 そこには老若男女の死体が幾重にも折り重なっていた。汚水に身をさらして漂わせる臭いがジンの鼻を刺激する。ジンの目尻に涙が溜まる。


 数人の死体だけ仰向けになっている。表情は想像を絶する悲痛なものになっていた。ジンからは暗くてよく見えなかったが、口を顎が外れそうなほどに開けて、歯をむき出しにしていた。


 気分を悪くしたジンはさっさと屋敷を出て、目抜き通りを早歩きで抜けていった。しかし道に残る鮮紅が、ジンの恐怖をさらに煽った。ジンはなるべく正面しか見ないようにした。

 

 早歩きがいつの間にか駆け足になって、気が付くと遠く感じられた中央広場の教会が目前に現れていた。曇り空はより黒っぽくなって、その層を分厚くしていき、薄暗さは不快なものになっていった。


 ジンは無意識のうちに教会の黒い木造りの扉に額をくっつけていた。走ったせいで息遣いがかなり乱れていた。いつも身に着けて慣れたはずの背中の槍が重く感じた。体中から汗が吹き出して、黒衣の中が蒸し暑く感じられた。


 ジンの周りの風景が、不意に彼に迫ってくるような気がした。心臓の音だけが耳にこだまする。


 教会の中で気持ちを静めようと、扉を開けて小休止しようとしたが、変わらない惨劇を壁に刻んでいた。何かを引きずり回した血痕が四方に引かれていた。


 ジンは呆然として、教会の中を徘徊していた。すると、壊れた懺悔(ざんげ)室のそばに修道女が倒れていた。彼女はまだ二、三歳くらいの子供を抱いたまま、仰向けになって息を引き取っていた。彼女の背中に血だまりができていたので恐らく背中に深い傷を負ったのだろう。


 ジンはあまり血に汚れていない修道服を見て、悲しさを覚えた。しかし泣けない。


 彼女の表情は穏やかで、達成感を感じて微笑んでいるようにも見えた。


 ジンは彼女らから離れて、ふと祭壇の、金色の十字架を見上げた。神の贄(にえ)となった者の顔に、べったりと血が塗りたくられていた。しかし彼は穏やかな表情をして幸せな夢を見ているように眠っていた。


 ふと透明のステンドガラスに日の光が差す。金色の十字架は、より輝きを増して、迷える子羊に、天上の神秘を伝えた。


 ジンもかつて信仰に篤(あつ)かった。子供の時の話であるので、大人達が享受する信仰を、与えられたものを素直に受け取っただけだが、それでも彼は神の奇蹟を信じていた。

それが崩れ落ちたのは、慕っていた姉までも“竜”の所業によって殺された時だった。何もかも喪ってしまった彼に決定的な絶望を与えた。


 ジンの体にぽっかりと空いてしまった空洞を、埋めたのは復讐心と憎しみだけだった。体中を引き裂いてやると思うほどに煮えたぎった怒りと、この世から消し去ってやるという殺意が、成長していくジンの体を次第に占有していった。


 そして復讐は成し遂げられた。ジンは毛むくじゃらの怪物の心臓に自らの槍を突き刺した。周りの兵士や狩人達は歓喜したが、ジンは煮えたぎるものが徐々に失われていくのを感じて、剣と死体の丘で呆然と立ち尽くした。


 ジンは生きる意味を失ったのか、狩猟ギルドの一員となって死にたがりのように真っ先に最前線で槍を振るった。しかし修羅場を抜けただけあって、彼は並の怪物に突っ込んでも死ねなかった。


 彼はかつてとは別の意味で竜に執着することになった。依頼の受付をしていたのもそのためだった。


 彼の深すぎる虚無を束の間に癒すことになったのは、あの髭の使者の依頼だった。穏やかで平和な村に現れた厄災の使者の撃退。ジンにとってはまさしく千載一遇の好機だった。もう一度竜と戦って死ぬ機会を、ジンは得たのだ。


 教会を出た後、ジンは森に近い家屋を一軒一軒、見て回っていた。しかしどの光景も同じものだった。めちゃめちゃにされた木造りの素朴な作りの家屋に無数に刻まれた血痕、まだ熟成されていない腐敗臭。


 頂点に上がった太陽とちょうど反対側に立てられた家にジンは辿り着いた。損壊は軽かった。広い敷地を取って、井戸も掘られていたので、この村の富農だろうとジンは思った。


 村中をうろついている内に、ジンは落ち着きを取り戻していた。依然として過去と現在の悪夢が頭を巡っていたが冷静に分析することができるようにはなっていた。


 家屋はそこまで壊されていなかったが、死臭は漂っていた。死臭を嗅いで辿っていくと、壊された井戸の近くに、右腕がない男の死体がうつぶせになって横たわっていた。茶色の髪で、緑色の目を見開いて、口から一筋の血が流れていた。


 彼の体を仰向けにして、ジンは彼の十字架をつかんでいる左腕を胸に置き、見開かれた緑色の目を自分の手で閉じた。


 見上げると、分厚く黒い雲が、蒼い空を塗りつぶしつつあった。日の光は分厚い雲によって遮られて、地上は薄暗くなっていた。横たわる男の死体に日の光が当たっていた。

ジンは、この男に願った。決してもう実現することがないだろう希望を。


 風が、初めて強く吹いた。



穏やかな黄金色の小麦畑に囲まれて、穏やかに眠れ。




 ジンが呟いた瞬間、黒衣が翻るほどの強い風が平原に駆け抜けていった。



 風がやんでから、ジンは最後に屋敷を物色しようとした。不気味な静けさが、ジンに諦観をもたらす。


 全てが消え去った村の中でジンは、生存者の探索を諦めようと思った。


 横たわる男から離れて、玄関の扉を開けて、ジンは家の中に入る。中には、死臭が意外にも漂っておらず、代わりに燃えた炭の匂いが香ってきた。

 

 家の中は、外の暗さも相まって、薄暗かった。完全に見えなくなるほどではなかったが、一見して遠くのものが何かわからなかった。玄関からすぐ近くにあった、広い机のそばには、壊れていない椅子が四つ倒れていた。机の上には火の消えた蝋燭(ろうそく)が一本佇んでいた。床には割れた食器や硝子の破片が散らばっていた。冷たいそよ風が硝子のない窓から流れてカーテンを揺らす。


ジンは、暖炉のそばに膝をついた。暖炉には燃え尽きた炭の残骸が灰色の山を築いていた。暖炉はここだけレンガでつくられていて、木で作られた家の中で異彩を放っていた。


 外では薄暗さが一段と増して日が落ちる時間に差し掛かっていた。ジンは、家中を捜索するために、即席の松明を作ろうと、立ち上がった。


 不意に、物音がした。


 ジンは顔を向けると、何もいなかった。材料を探して組み立てようと数歩歩くと、今度はよりはっきりした音が耳に届いた。風が森の葉を揺らす音ではなかった。コン、コンとリズムが付いた音であった。ジンは耳を澄ませて次に来る音を待った。


 コン、コンと音がする。ジンは薄暗い廊下に顔を向ける。大急ぎでジンは机をひっくり返して、腰に帯びていたナイフを抜いて根元から切り落とした。


 黒衣を噛み千切って、切り落とした脚に巻き付ける。後ろにつけた腰の小さな布製のバッグから麻製の縄を取り出し、黒衣に縄を巻きつけて結ぶ。キッチンの棚から、いくつか液体の入った硝子の容器を取り出す。ジンは一つの瓶を手に取ってコルク栓を開けた。香ってくる発酵臭を嗅いでジンはこの瓶の中身を黒布に垂らす。ジンは腰のバッグから火打石を取り出して、両足で松明を押さえて石を打ち付ける。火花が散った瞬間、黒衣は炎に包まれた。


 ジンは松明を持って、廊下に出る。音を聞いた方向に向かって足を進める。進んでいくと、行き止まりだったが、突き当たって左に部屋があったのでジンはそこに入る。部屋には何も置かれてなかった。床には木の蓋(ふた)が閉じられていて、板で鍵がしてあった。部屋の壁に松明をかけると、ジンは屈んで耳を蓋にあてる。


 耳を澄ましてよく聞くと、荒い息遣いがほのかに聞こえてきた。ジンは急いで板を外しそうとする。横に引っ張って外そうとするが、びくともしない。


 ジンは廊下を走って、玄関を出て、すっかり暗く寒くなった外に飛び出す。井戸のそばに転がっていた大きめの石を見つけて、手に取る。

 部屋に戻って閂を、ジンは槌のようにして手に持つ石でたたきつける。時々しくじって手にかすり傷ができてもお構いなしにたたきつける。


 閂が壊れると、ジンは太い板を部屋の端に置いて蓋をゆっくりと持ち上げて開ける。

ジンは真っ暗な空間に目を向ける。


 茶色の髪の少女が、体を丸めて横たわっていた。毛布が巻かれており、顔は青白かった。息遣いは荒かった。前髪は乱れて三つ編みの髪があった。


 

ジンは、呆然と彼女を見て、やがて両膝をつき夢中になって何度も、よかった、と呟いた。頬に、一筋の涙が流れる。


 ジンは、倉庫の中にいた少女を両腕で持ち上げて、廊下をゆっくりと歩く。


 玄関の外は闇だった。空を見上げると、満天の星空があったので、ほんのりと路が見えた。


 ジンは、両腕に少女を抱えたまま一直線に目抜き通りを駆け抜けていく。少女の顔をちらりと見る。そばかすがあって、丸々とした顔だった。


 彼女は穏やかに寝息を立てていた。

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