第2話

         二 



 そこは、人間の退廃の象徴だった。


 レンガ造りの酒屋の中は、調理のために蒸し暑い空気がこもっている。夕方から夜にかけて、ヨーンに建てられた酒屋『ノースバレー』に汗臭い男の客が増えてくる。鍛冶職人、商隊の下っ端、駐屯している兵卒などである。


 毎日ノースバレーには大勢の客が酒に酔う為に来店する。酒をあおって、現実を忘れて夢に浸かる。店員は酔いつぶれた客を外に出したり夜風に当たらせて少しでも酔いを醒ませたりしようと苦労する。


 そんな客の中で、黒い光沢を放つバーカウンターのそばに座る男の姿は異様なものだった。

 ほとんどの客は、ひげを生やして怒鳴り声をあげたり自らの力を誇示するために筋肉のついた腕を露出していたりするか、疲れ果てた表情で休む暇もなく酒をあおるかの二つである。


 しかし、男の姿は薄汚れた男達とは対照的に、さっぱりとした清潔さを感じさせるものだった。整った黒髪、端正な顔、青色の目に加えて、一つの汚れもついていない黒い大衣を羽織っていた。その姿は彼に会った者に怪しさを感じると同時に、鮮やかで美しい風景を見ている感覚に襲われる。


 男はグラスをじっと見つめる。中には量の少ない酒が残っていた。彼は、レンガ造りの柱の置時計をちらりと見て、酒を飲み干す。透明のグラスを、音を立てて黒杉のテーブルに置いた時、男は茶色の髭(ひげ)を生やした紳士が近づいてくることに気が付いた。


「そんな酒を飲むなんて、恥ずかしいものだ」


 髭男は黒衣の男の隣に黙って座り、年代物の酒を注文する。


 彼は髭男を一瞥した。髭男は、差し出されたグラスを持ち上げて少なく注がれた酒を振る。


「ここは、むさくるしく汚らしい所だが、置いている酒は一級品ばかり。あんな輩共に飲ませるには非常にもったいない。我々にこれらを提供すべきであろう」

「何の用だ」


 男の声は静かで重々しく、落ち着いた印象があった。


 髭男は笑って、懐から新聞を出して黒衣の男に差し出す。『ロックバレー村、原因不明の災害に遭う』と書かれていた。


「君に依頼したいのだ。この村の調査を」


 男は髭男を再び一瞥して、新聞を返した。


「そんな依頼は俺達に似合わない。どこか別の奴を当たった方がいいんじゃないのか」

「何を言うか。この依頼こそ君達にふさわしいものはない。特に君にとっては千載一遇の機会のはずだ。何せこれは“竜”が絡んでいるのだからね」


 黒衣の男の動きが一瞬硬くなる。髭男は笑って酒を飲む。


「君しかいないのだよ。竜を殺せるだけの技能と知恵を両方持ち合わせている人物は、ここの狩猟ギルドの中でも指を折る程度しかいない。そうだろう、竜狩りのジン君」


 髭男はグラスを傾けて酒の光沢を見つめる。黒衣の男――ジンは硬い表情のまま、テーブルの上を見つめる。


 ヨーンには数えきれないほどのギルドが乱立している。大都市の商業を独占している大規模ギルドから、マイナーなものを専門とする小規模ギルドまで存在し、幅広い。


 数々のギルドの中でも異質とされているのが、狩猟ギルドである。この世に存在するありとあらゆる生き物の狩猟を専門とするギルドで、一国の軍隊でも殺すことができない巨大な生物――俗に“怪物”と呼ばれている――から極小でも国一つが買えるような大金が積まれる希少な生物まで、幅広い内容である。


 狩猟ギルドの異質さを象徴するのは、超高額な報酬の依頼だろう。普通の契約ではありえないような、採算を度外視して当たり前に超高額の契約が結ばれる。


 一つの依頼を受けるだけで、一国の領主をしのぐ大金持ちになれる。実例があるにもかかわらず、狩猟ギルド全体の人の数は増えない。

 

 第一として、失敗した時の反動が大きすぎる。失敗をするとギルドの必要な人員を失ってしまい、場合によっては一つの国が滅びてしまう。これでは金を得るどころではない。さらに失敗の責任を負わせる為に、領主が全く無罪であるギルドの面々を処刑することもあった。


 ジンはテーブルの上にある拳を握り締めて、

「その依頼を受ける気にはなれない。危険が大きすぎる」


 髭男はグラスをテーブルに置いて、懐から物を取り出してジンに渡す。今度は小さな巻物であった。高級そうなリボンで綴じられて、結び目にはヨーン領主の象徴である王冠を被った鷲を模した判子が押されていた。


 ジンはまた表情が硬くなった。髭男は鼻息を吹かして、


「察しの通り、私は領主様の命令を受けてここに来た。これで依頼を拒否するということができないことがわかったね」


 ジンは髭男、もとい領主の使者の態度に苛立ちを覚えた。使者は笑いを堪えて顔を伏せていた。


 大量の金が動くということもあって、犯罪の温床になるという大義名分で、領主は駐屯する兵士を動員して狩猟ギルドを取り締まるが、時として領主側から依頼が来ることがある。その依頼は狩猟ギルドが受ける依頼の中でもはるかに危険度が高い。なぜなら、依頼を申し出る使者の手には必ず王命が記された証書があるからだ。


 そこには「汝これを受けよ、拒めば主の雷槌(らいつい)が下らん」と古くからの文句が記されている。これには、依頼を拒否すればギルドを襲撃して壊滅させるという脅しが含まれている。


 ギルドが壊滅すれば莫大な金を得る機会を失う。ほとんどの場合、いやいやながら依頼を承諾する。


 使者は笑いが収まったのか、顔を上げてグラスを持ち、それから残った酒の香りを嗅ぐ。


 使者はグラスを置いて鷹揚な口調で、


「どうだ、依頼を受ける気になったかね?」


 ジンは使者の顔をにらみつける。


「そんな顔をしてくれるな、竜狩り君。いい機会じゃないか」


 使者は口に手を当てて、


「勘違いしてもらったら困るが、そもそもこれは君個人にあてた依頼だ」


 ジンは意外な言葉を聞いて、目を見開いた。使者は巻物を広げて、内容をジンに確認させる。そこには確かにジン個人にあてた旨が書かれてあった。


「こちらも一応配慮はしたつもりでね。ギルドに依頼するのではなく、実力のある君個人に依頼することにした。これでギルドに危害はない。報酬は全部君のものだ」


 ジンは目を少し閉じて、気にかかったことを頭の中で整理し始めた。使者はその様子を見て、


「どうしたんだい、別にギルドには危険はない。これ以上何を気にすることがあるというのだ」


「依頼内容だ。この巻物には肝心の内容が書かれていない」


「さっき渡した紙にあった村、ロックバレーの調査に行ってほしい。竜が村を壊滅させたかもしれないからね」

「確実に竜だ」


使者は目を見開いて、ジンに尋ねた。


「どうしてそう思う?」

「俺は竜の依頼しか受け付けていないからな」


 ジンは使者の目をちらりと見る。使者は彼が言わんとすることを理解したのか、しばらくして呵呵大笑した。


 数日前、ロックバレーから領主に一報が届いた。怪物によって村が攻撃されているというものだった。一報を届けに来た使者に詳しく話を聞くと、奇妙なことに巨大すぎて姿が見えなかったということで、会議を開いたところ、竜の襲来が予想されるので、実力者に依頼することになった。


 一連の経緯を話した後、使者はグラスの酒を飲みほした。


「どうだ? 個人契約で、ギルドには迷惑が掛からない。報酬は、ざっと見積もって三年は働かずに食っていける金額。断る理由はあるまい」


 使者は右手を差し出す。ジンは目を閉じて顎を撫でる。それから使者を正視して、


「断る理由はないな」


 ジンは右手を出して、使者と握手をする。


「おめでとう、そして、武運を祈る」


 束の間の取引の後、ジンは店の外に出た。

 

 星空が広がる。騒がしいヨーンの街に似合わず、星々は静かに輝いている。レンガ造りの世界は蒸気と光に包まれる。


 ふと銀幕に覆われた世界を思い出した。多くの人がその体をなくした日。大切な人が右腕を遺して逝ってしまった日。


 彼は、星々の輝く夜空を見つめて願った。

どうか自分に贖罪の機会があってほしい、と。


 秋の空に、一筋の光が通った。

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