第4話

         四


 朝日が、彼女を目覚めさせた。


 そばかすの少女は、目を開けて、屋根をぼうっと見つめる。体を起こすと茶色の髪が胸の前にあったので、退かして背中にかけた。


 彼女は薄手の布を退けて、手を組んで伸びた。体からわずかに残った眠気が、消し飛んでいく。

 

 窓の外の光景は爽快で壮大なものだった。まだ木々には緑が多く残っている。木々は黄金色の小麦とともに風になびく。一体となって波を作り、見るものに神秘を感じさせた。

居間の方に行くと、先に起きていた母親と弟がテーブルに皿や食器を置いたり焼きたての肉を運んだりしていた。

 

 弟はコップを持ちながら、


「おはよう、メル」


 彼女は、同じく丸々しくそばかすのある童顔を見た。弟は微笑むと、テーブルへと駆けて行った。


「起きたわね、それじゃあ、みんなで一緒に食べましょうか」


 彼女と弟は、はあい、と間伸びした口調で返事をした。すかさず弟が玄関へ駆けていき、大声で父の名前を呼ぶ。


 しばらくして、弟は自分より頑強な体格をした男を連れて戻ってきた。二人とも笑いながら歩いていた。日光が彼らの顔を照らす。鍬を持った男は顔を時折しかめる。


 男は――彼女の父は、彼女を見て日焼けした顔を綻ばせて、


「起きたか、ようし、みんなで飯を食おう」

「お父さん、僕の分まで食べないでね」


 父は農具を持っていない左手で、頭を搔いて弟に言い訳をしていた。彼女は、口に手を押さえてこらえる。相変わらず食いしん坊だなあ、と彼女は思った。


 言い訳が終わると、父は鍬を玄関前に立てかけて、玄関から家に入る。


 弟も後から入る。少女は立ち止まって、目の前に広がる、まだ耕されていない畑を見る。


 もうすぐ一面が黄金色に輝き、森もその身の色を変えて、夏の時とは違った豊かさを感じさせる風景が生まれる。


 彼女はその景が好きだった。高い丘から、暖色に染まった森や村を見ると、心が落ち着いて嫌なことを忘れることができる。

 

 聖典には、この世の苦難の先には、必ず地上のどんな快楽をも超えるものが存在する楽園が待っている、と記してあるが、彼女にはロックバレーこそが楽園のように思われた。


「何してるの、早く食べようよ」

「そうだぞ、皆を待たせるなよ」


 彼女ははっとして慌てて家に入る。すでに家族がテーブルを囲んで、彼女を待っていた。


「お祈りをしよう」


 父が皆に促す。それに従って、彼女や弟、母が手を組んで前屈みになる。父はそれに続けて、主への感謝を示す。


 祈りが終わると一変して、父は子供のように目の前にある料理を口の中にかき込んでいた。彼女は笑いそうになってしまう。


 弟も父に負けじと、口にかき込む。母は、汚いからやめなさいとたしなめるが、微笑んでいた。


 少女は熱々の肉に頬張り、噛み千切った。熱くて口の中で肉が暴れるが気にせず飲み込む。彼女はささやかな幸福を感じた。


 朝食の後、彼女は分厚い聖典を持って、教会に向かった。太陽はすでに大地一面を照らしていた。


 あちこちで、畑の土を掘り返したり適当な長さに切られた丸太を運んだりしている。秋は実りの時期であると同時に男にとってはきつい時期である。刈り取った麦を干すのに必要な丸太を運び出し、畑を耕すのに多くの労力を要するからだ。


 汗水たらして働く男たちを見て、彼女はしみじみと、秋の到来を感じ取っていた。彼女が自然と顔を綻ばせているからか、心なしか声をかける男達の声が明るかった。もちろん、彼女も明るく声を返す。彼女にとっては、道中の光景も一つの楽しみだった。


 中央部に庭がない教会が佇んでいる。扉の前で子供たちがワイワイと騒いでいた。まだ十もいっていない幼児から、もうすぐ大人という年齢の少年もいた。ここでいつもシスターがいろいろなことを教えてくれる。彼女はいつも興味をそそる話題を聞きに教会に来ていた。


 少女には夢があった。シスターから聞いた雑談のような余談だったのだが、ロックバレーの外、つまり世界の話だった。


 火を噴く山、湖よりもずっと広く深い海というもの、山に住む獣よりも大きく強い怪物達、といった具合に彼女には魅力的なものばかりだった。話を聞いて以来、彼女はずっと外の世界に心を奪われていた。湧き上がる衝動は、実りある秋の光景でさえ抑えつけることができなかった。

 

 彼女の夢とは冒険であった。シスターから聞いた外の世界の光景を想像しながら眠ろうとし、興奮して眠れなくなり、結局家族の中で起きるのが一番遅くなってしまう。


 夕焼けが山の裾にかかって、緑の風景を赤く染め上げる。

 重い瞼を上げながら、少女は北にある家に帰る。この道中は、行きと打って変わってかなり退屈なものであった。村の規則で、夜に畑仕事をすることができないので、夕方には皆家の中に入ってしまっている。


 彼女は、一直線に家に駆け抜けていった。風が少女の頬を切っていく。脚はもはや彼女の意思を以って動いていなかった。彼女はただ前を見て駆けていた。


 途端に、その光景が揺れる。彼女は地面に伏せていた。膝にわずかな痛みを感じる。起き上がって、生成色の布をたくし上げて見てみると、右膝に赤く細い筋が幾つかできていた。


 少女の家は目の前にあった。脚を前に出そうとすると不意に足に重りが付いたように感じられた。少女は、少し調子に乗っちゃったな、と反省した。


 少女はゆっくりと足を進める。もう夜といってもいい時間だった。足元がはっきりと見えなかったので、いちいち確認しなければいけなかった。家まであと少しとはいえ、彼女には面倒に思われた。


 玄関前には、父が腕を組んで突っ立っていた。朝とは打って変わって、顔をしかめていた。彼女には、遅れて帰ってきたことに怒っているのか、なかなか帰ってこない娘を心配していたのか、どちらなのかわからなかった。


「遅かったな、どこをほっつき歩いていたんだ」


 少女は、ちょっとシスターと話をしていただけ、と父に告げた。

 父はしばらく黙って、そうか、と呟き、少女に背を向けて、


「もうすぐ晩飯だから、準備を手伝ってくれ」


 少女はこくりと頷き、木の扉をくぐろうとする。


 不意に爆音が響き、地面が揺れる。


 彼女は足をよろめかせる。


 立て続けに何かが爆発する。音の方に顔を向けると、南に大きな火の手が上がっている。赤い線が束となって、空に広がっていた。


 どうしたのだろうと、彼女が不安に思ったことを察したのか、父は、心配ないと言った。次の瞬間には、父は玄関を過ぎて、家の中にいる母と弟に、出かけてくると告げていた。少女は分厚い聖典を両手で固く抱えて立ち止まったまま、父の動きをせわしなく目で追っていた。


 しばらくして、父が鞘に収められた鉈を持って出てきた。

「心配すんな。すぐに戻ってくる」


 せわしなくあちこちへと駆けていく様子を見て、次第に不安が募ってきた。胸がいやに鳴って、落ち着かなかった。何かにしがみついていたかった。


 父は畑に挟まれた道に出て、同じく様子を見ようと、外に出てきた近所の村人に声をかけていた。少女は父の後ろ姿を見つめていると、母が家の中から出てきて、彼女に声をかける。


「大丈夫よ、心配しないで。さあ、こっちにいらっしゃい」


 母が両腕を広げると、少女はその中に飛び込んだ。暖かく、落ち着きやすく、芳醇な麦の香りを漂わせていた。

 やがて、次第に眠気が彼女を包み込む。少女は瞼を閉じた。



 騒音が聞こえる。


 剣と剣を打ち合わせる音が聞こえる。


 そして奇妙な高い音が聞こえる。


 少女は眠気に覆われて、それを聞いても気にせずに、また安らぎの淵に身を置いた。


 扉が乱暴に開けられたのを聞いて、彼女の意識が半ば覚醒する。聞き耳を立てると男と女が言い争いをしているのが聞こえた。


「早くここから逃げろ! この子達が危険だ!」

「でも、どこへ逃げるの? そうこうしている内に、すぐに“あれ”がやってくるわ! あっという間に見つかって食べられてしまうわ!」

「だからといって“あれ”が暴れているところに置いておくのは駄目だ! 君の身の安全はもちろんだけど、この子達はどうするつもりなんだ」

「一緒にいる」

「それは駄目だ、駄目なんだ。どこにいても“あれ”は僕らを見つけて、無残にむさぼり食っちまう。さっき君もそう言ってたじゃないか」

「床下の食糧庫に隠れればいいじゃない! そこなら誰にも何にも見つからずにやり過ごすことができるわ!」


 男は黙って、それから正気の沙汰じゃないと言い放った。扉が閉まる。女はどこかに腰かけて、ため息をつく。


 少女は少し体を動かすと、冷たい床が頬に当たった。どうやら床に寝かせてあるようだった。


 女が啜り泣きを始める。少女は言い争っていた女が、母だったことに気が付いた。少女は体を起こして母を見た。


 母は少女が自分を見ていると気づかずに泣き続けた。


「お母さん?」


 少女が声をかけると、母は伏せていた顔を上げて、泣きはらした顔を少女にさらした。少女は狼狽えていた。


 母は少女に駆け寄り、彼女の体を抱きしめた。母は体を震わせている。これでは、まるで母が少女を拠り所として落ち着こうとしているようだった。


「大丈夫よ、大丈夫」


 母は少女に言い聞かせる。

 爆音と共に、家全体が揺れる。見ると、木の床には皿や硝子が散乱し、パンと獣肉が床に転がっていた。硝子が割れた窓から、秋の涼しいそよ風が漂ってくる。


「お、お母さん?」


 不意に大きな揺れが二人に襲い掛かった。


キッチンの棚にあった瓶や皿が床に落ちて、甲高い音を上げて割れる。揺れが収まると、母は少女を抱きかかえて、廊下を駆け抜けた。


 弟の姿がなかったのでそのことを少女は聞こうとしたが、母の切羽詰まった表情を見てやめた。


 突き当りの部屋につくと、母は少女を下ろし両手を肩に添えると、


「メルはここに隠れてなさい。声を出さずに、じっとお母さんを待って。いい?」


 母が指さす先には、床に空いた、四角い穴があった。床下の食糧庫は今空っぽのはずであるので、人が入る空間は十分にある。


 厚手の毛布をまとわせて、母は少女を床下に寝かせた。


「お母さんは? 一緒に入ろうよ」


 少女は声を震わせて、母に尋ねた。少女の目には涙が溜まっていた。


「助けを呼んでくる。ひょっとするとお父さんに会えるかもしれないから。ちゃんとここでお母さんを待ってなさい」


 そばに置いてあった厚い板を抱えて、母は少女に最後の一言を伝えた。


「愛してるわ、メル」


 重い音を立てて蓋が閉じられる。寒かったので、少女はミノムシのように毛布で体を覆い、丸まった。


 凍えて、顎が震える。少女の目には闇が広がるばかりで、気を紛らわせるものは何一つ床下にはなかった。


 不意に足音が聞こえた。少女はその方向に目を向ける。急ぎ足で砂利を踏んでどこかへ向かっているようだった。

 ざん、と音がして、静かになる。女の叫び声がする。喚き散らして、同時に何かの呻き声が漂ってくる。


 ぐちゃり。


 喚き声は生々しい音で止んだ。


 少女の鼓動が加速する。その音が耳を支配し汗が顔に滴った。


 意識が朦朧とし始める。少女はあることに気が付いた。


 あの奇妙な高い音は、村人達の悲鳴だった、と。


 少女の意識は現実の世界から逃避した。

 

          *


 月光が、少女を目覚めさせた。


 彼女は声を上げて、跳ねるようにして起き上がる。


 丸々とした顔に汗がにじんでいた。胸鳴りが激しく、息切れして体が空気を欲していた。

 周りを見渡すと、椅子や皿が散乱した広めの空間の中にいた。ある方を向くと硝子瓶が整えられて並んでいる棚があった。


「こ、ここはどこなの」


 少女は思わず困惑を口に出してしまう。

 不意に体が震えて、くしゃみをして鼻をこする。少女は自分の服を見た。生成色の服が黒ずんでいたり、所々破れていたりした。彼女はため息をする。


「起きたか」


 びっくりして、少女は声のした方を向く。黒衣を体にまとった、少し髪の長い青年が、両手に杯とパンを持って立っていた。


 青年は杯とパンを無言で少女に渡す。少女は狼狽えたが青年にお礼を言って受け取った。


杯には生暖かいスープが入っていた。少女は口をつけると勢いに任せてスープを飲み干してしまった。何も食べてこなかった少女には、恵みだった。


 適当な大きさで切られたパンを頬張る。何の味もついていないはずなのにうまく感じられた。麦の香りが口の中で放たれ、固い食感が少女に現実感をもたらした。

 食べ終わると、少女は改めて青年の方を向く。青年は瓶の並んだ棚のそばにあるテーブル、ないしカウンターに寄りかかって、パンを黙々と口に入れていた。


「あ、あの、ありがとうございます」


 青年はちらりと少女を見るが、黙って食べ続ける。


 少女は見渡して青年に質問する。


「ここはどこなんですか? その、ええと」

「ジンだ」


 青年は、手についたパンくずをなめて言う。少女は改めて、


「わたし、村にこんな建物があるなんて知らなくて。教えてください、ジンさん」


 ジンは目を丸くして少女を見た。彼は腕を組んで、


「傭兵の駐屯所だ」


 少女は怪訝な顔をした。ジンは少し声を荒げて、


「お前、ここに駐屯所があることを知らなかったのか? 村の中央部にあるから目立つはずだぞ」

「お父さんから近づくなって言われてたの。あそこには荒くれ者達がいて、お前に何をするかわからないから、って。だからここのことはよく知らないの」

「賢い選択だ」


 少女は皮肉屋気取りの青年のことを少し不快に思った。


 ロックバレーには正規の兵士の数が非常に少なく、代わりに一部の富農が金を出し合って、ヨーンを含む都市から傭兵を雇っていた。

 

 その傭兵たちは歴戦の戦士であることがほとんどだが、同時に例外なく素行に問題のある荒くれ者であった。ちょっかいを出す、なんて生易しいことをするのではなく、村人との軋轢から殴り合いに発展したり、村人から食料を略奪したりするような、最悪村が壊滅するようなことをしかねない連中だった。


 そのため、大体は村の近くに陣地を作ってそこに閉じ込めたり、駐屯所を立ててそこで満足させたりする。


 駐屯所には、傭兵の住居、食堂、井戸があるだけでなく、バーや賭場、闘技場まで完備していた。よほどの金持ちでないと建てられない代物だった。


 ただ、それで安心かというとそうでもなく、夜中にこっそり抜け出して女子供に手を出そうとする厄介者もいるので、やはり駐屯所には近づかない方が身のためを考えると賢明だった。


 少女は、それきり黙ってしまったジンをじっと見つめていた。


 黒衣から出て組まれた両腕は、大人にしては細かったが、筋肉がしっかりとついていた。腕のあちこちに細かい傷がつき、そのほとんどが古傷だった。少女は青年の過去を推し量った。


 ジンが突然口を開いて、少女に尋ねた。

「名前は何っていうんだ」


えっ、と思わず少女は声を漏らす。


「人の名前を聞いておいて自分の名前を教えないなんて、礼儀知らずめ」


 少女は顔をむっとしかめるが、青年の目を見ると、途端に苛立ちが失せた。闇夜に青く光る双眸は、どこか引き込まれそうな雰囲気を携えていた。


 しばらくしてぎこちなく少女の口から、


「メリルピン、です」


 ジンは寄りかかっていたカウンターから離れて、屈んで少女の目線に合わせた。メリルピンは狼狽えて体を引く。


「メリルピン、明日はこの村を出るぞ。きつい道のりになるかも知れないからもう今日は寝て、英気を養え」


 メリルピンはきょとんとしてジンを見つめる。ジンは言い終わると立ち上がってバーから出る。メリルピンは言うとおりにしようと、かけてあった毛布をかぶって、目を閉じた。


 自分の傍で看病でもしていたのだろうか、ふと彼女は思い至る。そう思うとメリルピンは顔が火照るのを感じた。


 落ち着かなかったので、気を紛らわせるためにおやすみなさい、と声に出した。ジンに聞こえているかはわからなかった。


 窓には、青白い月が浮かんでいた。

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