第6話

          六



 メリルピンは、ジンが逃げろと叫ぶ前に足を動かしていた。一目散に来た道を走って戻る。後ろを向かずに、ひたすら走っていた。恐ろしくて振り向くことができなかった。


 しばらく走った後、彼女は息切れして、立ち止まる。膝に手をつき、肩を上下させて、ありったけの空気を吸い込んだ。また走ろうとすると、背後から突然甲高い叫び声が響いた。それはまさしく悲鳴であった。


 メリルピンは思わず後ろを振り向いてしまう。大蛇の首が空中に飛び上がっているのが見える。ジンは不動の姿勢で怪物と対峙していた。


 後続の蛇達が牙をむき出しにして一斉に襲い掛かる。


 鈍い音が、平原に響く。離れた場所にいたメリルピンにもその音は届いた。彼女は何が起こったのか分からなかった。


 大蛇がジンの前方を覆いつくした瞬間、蛇の首が勝手に離れたように見えた。今度は数匹分の首が刎ねられた。彼女はジンの槍が大蛇の首を跳ね飛ばしたのだと気が付いた。


 彼が怪物の首を斬った。いとも簡単に。


 細身の青年が不可視の死の筋を繰り出す。彼女は、逃げることを忘れて、技に目を奪われていた。


 大蛇は正面から攻めるのを止めて、数匹の首がジンの四方を取り囲んで、襲おうとしていた。


 声を上げて怪物が一斉に襲い掛かると、またしても鈍い音が響き渡る。蛇の首が斬られて、斬り口から鮮血が飛び散る。


 ジンの姿が現れた時、彼は槍を切り下げていた。


 槍の穂先は斬撃で鮮血がつき、赤黒い輝きを放っていた。


 たったの二振りで、邪気を含む重々しい空気が変わった。代わりに、まるで超人のような、凄まじい槍の腕を持つ彼の周りには張り詰めた空気が漂っていた。


 大蛇は警戒して、ジンの周りを逡巡するだけで、自ら攻撃を仕掛けようとはしなくなった。ジンは大蛇の警戒心を読み取ったのか、おもむろに左右に体を揺らし始めた。


――来ないなら、こっちから行くぞ。


 一瞬、そう聞こえた気がした。ジンは地面を蹴って、怪物に突進していた。メリルピンの背中に凍えるものが通った。彼女はジンの壮絶な雰囲気を感じ取った。


 ジンは大蛇の喉元に槍を突き立てていた。怪物の首が、さっきと同じように跳ね上がる。


 血の筋が、斬撃の筋の代わりになっていた。数多の大蛇の首が、斬られて大地にさらされる。ジンは、怪物の束の中で、縦横無尽に槍を振るい、突き進む。


 返り血を浴びた彼の姿は、地獄の底から来訪した悪魔の姿に変わっていた。見ているだけで、メリルピンはおぞましさを感じた。


 不意に疑問が頭によぎる。かつて、メリルピンの家の前にある畑を一匹の蛇がうろついているのを見つけたことがある。彼女はすぐに別の畑で作業をしていた父を呼んで、蛇を捕まえた。

 

 父は手に持った蛇をしかめ面で見て、

「こいつの皮は硬くて仕方がねえ。だからこいつを食おうにも食えねえんだ。刃こぼれしちまうからな。ロックバレーの外には、こいつを斬りさばく技があるらしいけど、俺はそれを知らねえからな」


 こいつを食ったらどんな味がするのかなあ、と父は夢見心地な顔をして呟く。


 メリルピンは父の言葉を笑いながら聞いていたが、頭に思い浮かんだのは、父の食欲旺盛さではなく、蛇の皮のことだった。


 あの大蛇も、蛇であるのなら、硬い皮を持っているはずだった。並大抵の刃では切れないはずだった。それなのにジンはいともたやすく蛇の頭を刎ねている。


 一体、彼が持つ槍には、どんな仕掛けがあるというのだろう?


 メリルピンは置かれた状況に全く反して、ジンの早業に見とれながら、そう思っていた。



 途方もない時間が経っているように、思われた。


 懐に入っては、大蛇の首を槍で刎ね上げる。一見すると単純作業だが、それは命がけの単純作業だった。


 懐に入るタイミングを一瞬でも間違えれば、一瞬で怪物の牙にかかってバラバラにされてしまう。

 

 何度か食われそうになったが、体が反応してよけていた。


 少年期からの経験、というものが彼を助けていたのかもしれない。

 竜への復讐の為に鍛錬に明け暮れていた頃、彼は怪物に挑んで何度も大怪我を負っていた。そのたびに彼はリズムとタイミングを覚えて突貫した。


 命を懸けて、体に怪物を刻み込んでいた。


 ジンはそれだけではないことを感じ取っていた。大蛇の攻撃速度が遅く感じられたのだ。最初の攻撃では躊躇なくジンの喉元に向かって、牙を突き立てようとしていたが、今は攻撃するのかしないかで迷っている節があった。


 ジンの槍は並のものではなかった。怪物を狩るのに一兵卒が扱う貧弱なものでは怪物の硬い皮膜に傷をつけることすらできない。そのため、狩った怪物の素材を用いて、特性を最大限に引き上げた代物が必要になる。


 ジンのそれは、狩人が用いる武器の中でも異質なものだった。


 遥か昔、生き物を誘い込んで捕らえて、長い時間をかけてそれらを結晶に変えて、喰らって生きていた竜がいた。どんな腕利きの狩人が挑んでも竜を殺すことができなかった。それどころか、挑んだギルドが壊滅してしまうことがほとんどだった。


 しかし偉大な槍使いがたった一人でこの竜を殺した。得られた結晶を使って、槍使いは新しい槍を作ろうとした。


 しかし、鍛冶屋はそろって製錬することを拒んだ。熱してもすぐに冷めてしまい、さらには打ち付けると金槌が粉々に砕け散ってしまうからだった。


 槍使いは諦めなかった。彼は、地面に生えていた赤く光る巨大な結晶に槍を偶然打ち付けた時に見た、結晶の中で何かの奔流がのたうち回った光景に魅了されていた。


 結局、長い時間と多くの金槌の犠牲を払って槍が完成した。その槍を得た彼はますます多くの怪物を屠っていった。


 今はジンが有しているこの槍は、念動槍といった。念じて動く、という意味ではなく、念をもって動くという意味である。


 この槍が異質である理由はその特性にある。


 命をためた竜の結晶には得られた力をそのまま自らの力にしてしまう奇妙な特徴があった。

 

 それを利用してこの槍を怪物の硬い皮膜に強く突き立てると、跳ね返ってくる反作用の力がそのまま貫通力に変わり、そのまま皮膜を貫通してしまう。


 つまり、この槍に力を加えれば加えるほど、槍が保有する力は増す。世界の法則を捻じ曲げかねない特性だった。


 強く振るえば振るうほど、また相手が強い力で跳ね返そうとすればするほど槍はどんな強力な相手でも屈服させることができる大きな力を持つことになる。


 大蛇を簡単に切り裂いて、首を刎ねることができたのはそのためである。


 得体のしれない武器を見た大蛇は当然警戒心を持った。


 ジンは、様子をうかがう大蛇を睨みつけていた。怪物は唸り声をあげながら、ジンを睨みつけていた。


 落ち着かない子供のように、大蛇の首は見回していた。


 ジンは、決定的な一撃を与えられる部位を見つけられないでいた。蛇の首を斬ってはいるが、その斬り口から首が生えてきてしまう。尋常じゃない再生力で、徐々にジンの体力を奪いつつあった。


 突然、大蛇が一斉に別の方角を向いた。ジンも大蛇が見ている方へ顔を向けると、立ち止まって呆けていたメリルピンがいた。


 怪物は彼女に襲い掛かる。ジンは走り始める。一直線にメリルピンの元へ走る。


 爆音が、その先で轟く。


 大蛇たちが地面に頭を突っ込んでいた。土煙が晴れると、メリルピンがそばの井戸の陰に隠れていた。ジンは思わずほっと息を吐く。


 ジンは、メリルピンの傍まで駆け寄った。彼女は井戸に寄りかかって、体を震わせていた。


「何やってんだ。早く逃げろって言ったのに」


彼女はあちこちに目を動かしながら、


「ごめんなさい、ごめんなさい」


 ジンは彼女から目を背けて、地面に顔を突っ込んで、何かを貪っている大蛇たちの様子を見る。


「私、どこに逃げればいいの? 助けて、助けてよ、ジン」


 動揺して、言葉を捲し立てるメリルピンに、ジンは彼女の両肩をつかんで、


「落ち着け。来た道を遡って、駐屯所に入れ。そしたら中で物陰に隠れてじっとしていろ。何もしなくていい。俺が来るまで待ってろ。いいな?」


 メリルピンはジンの言葉に、うんうんとぎこちなく首を縦に振る。ジンは去ろうとすると、彼女の膝の擦り傷に気がついた。


「膝はどうしたんだ?」

「逃げようとして、何かにつまずいて転んじゃったの。な、なんでそんなこと聞くの」


 メリルピンはへたりこんだままジンに尋ね

る。ジンはしばらく傷を見つめる。その次にまだ首を突っ込んでいる怪物たちに目を向ける。


「あそこでこけたのか?」


 メリルピンは頷いた後、怪訝な顔をしてジンの顔を覗き込む。彼は手で顎をさすっていた。


「ねえ、どういうことよ。なんでそんなことを聞くの? 教えてよ、教えてってば」

「対処法がわかった」


ジンはまっすぐ彼女の目を見る。


「荷物は持ったままか?」

「持ってた荷物は放りだしちゃった。でも逃げる時夢中で地面に置いていたのをつかんだの」


 メリルピンはジンに荷物を差し出す。ジンが袋を開けて中身を見てみると布で包んでいる物が三つ入っていた。赤結晶が中に詰まった硝子瓶だった。


 ジンはその瓶を取り出して、


「こいつを使って、奴に傷を負わせる。まだお前が地面につけた血に気を取られているから、今しかない。音を立てずに、こいつを持って進め」


 メリルピンに瓶の入った袋を渡す。メリルピンは袋をもって、屈んでゆっくり先へと進んでいく。ジンも後に続いて、怪物への警戒を緩めずに歩く。


 大蛇の様子を見て、ジンはまるで木の操り人形のようだと感じた。放っておくとそのまま何もしない、そのままの体勢でぐったりとしている人形は、今わずかな血を求めて地面を貪る大蛇と似ていた。もうあるはずがない血を、いまだに探しているのだから。


 しばらく行った所で、メリルピンを制止して、その場に瓶の入った袋を置かせた。ジンは、肩掛けバッグの中に入れていたエメラルド色の結晶の入った瓶を取り出した。


「それ何なの?」


 メリルピンが、ジンに尋ねる。


「緑結晶だ。赤結晶の仲間だが、遠隔で爆破できる。親石と子石があって、無色の親石を割ると、色が付いた子石が小さく爆発する」


 ジンは、子石を袋の中に、無色の親石を懐に入れる。


「これからどうするの?」

「奴をおびき寄せて、こいつを食わせる。そして腹の中に入ったとわかったときに親石を割って爆破する」

「どうやっておびき寄せるの?」


 ジンは、腰に帯びていたナイフを取り出して、自分の腕を切った。メリルピンが目を背ける。ジンは滴る血を袋の上にかけた。


「血の匂いを嗅がせる。そして奴をおびき寄せて、こいつを口の中に放り込む」


 ジンはメリルピンの顔を見る。彼女は怯えた顔でジンを見ていた。それから震えながら口を開いて、


「……どうして、そこまでやれるの? 怪物なんて放っておいて、どこかへ逃げればいいのに、なんで」


 メリルピンは、両手で顔を覆って泣き出した。


 ジンは目を伏せて黙る。それから歩いて、メリルピンの肩に触れて、


「お前の為だ。安心して、お前が夜眠れるように奴を殺す。それに……」


 彼女は顔を上げてジンを見つめる。


「これが、俺の仕事だ」


 次の瞬間には、駆け抜けて大蛇の方に向かっていた。


 ジンが大蛇の近くまで駆けると、周りの地面がぐちゃぐちゃにされているのが見えた。


 怪物は地面を貪っている。


 槍で大蛇の首の皮を裂くと、反応して地下から首を出す。それに連鎖して一匹、また一匹と首を上げて、ジンを見る。


「来いよ、さあ、来いよ!」


 ジンが背を向けて走り出すと、甲高い鳴き声を発しながら大蛇が追いかける。ジンは走る速度を上げる。


 袋がある所に着くと、立ち止まって大蛇と対峙する。怪物のすべての首が牙をむき出しにして、ジンに猛然と襲い掛かってくる。


 ジンは初めに襲い掛かってきた首を斬り落とした。次にやってきた首の牙をいなし、続く攻撃も同じようにいなす。


 怪物が正面から牙を剥いて襲い掛かる。ジンは袋を手に持って、


「喰ってみろよ!」


 袋を口の中に放り込む。それに反応して大蛇が口を閉じる。


 ジンはバックステップして、次の攻撃に備えようとしたが横から襲い掛かった大蛇の攻撃に反応できなかった。衝撃で、体が吹っ飛ばされる。


 気づいた時には血塗られた草地に倒れていた。体の所々が痛んで起き上がれなかった。


 肩を見ると、一筋の傷がつけられていた。


 槍を杖代わりにして立ち上がると、大蛇が舌なめずりをして、低く荒々しい唸り声をあげて睨めつけながら、ゆっくりとジンに迫っていた。


 ジンが後ろを振り返ると、遠くでメリルピンが走り抜けているのが見えた。怪物に正対して、懐から透明の石を取り出す。


 数多の首が、一斉に口を開けて、禍々しい鳴き声を発する。


――そろそろ、頃合いだな。


ジンは石を持つ手を上げる。


「じゃあな、怪物ども」


力を込めて、結晶を握りつぶす。


 鈍い爆音が響いて、蛇の首が一斉に波打つように跳ねたのは、それと同時だった。



 背後からの爆音を聞いて、メリルピンは立ち止まって振り向く。見ると大蛇達の首が次第に元気をなくして、地面に倒れていた。


 沢山の首がつながっている地下からは、赤黒い煙が霧状に噴出していた。空が黒々しく、辺りが暗くなっていたので、彼女にはそれが一層不気味に思えた。


 ジンに目を向けると、槍を杖にしてふらふらと歩いていた。


 不意に地面が揺れる。それと同時に、倒れていた首達が徐々に起き始めた。


 ジンは愕然としたのか、その場に立ち止まった。メリルピンは、言い知れぬ不安が自分の胸を締め付けていることに気が付いた。冷汗が、次々と吹き出てくる。


 揺れがだんだんと強くなっていく。そばに植えられた木の枝がかさかさと音を立てながら揺れる。地面に落ちていた小石は、いつの間にか別の場所に移動している。


 地鳴りが段々と大きくなっていく。


 爆音。それと同時に空まで届きそうなくらいに大きな土煙がジンの姿を巻き込んで上がった。


「ジン!」


 メリルピンは、必死に声を張り上げた。一瞬の間をおいて、土煙から程遠い場所で仁王立ちしている姿を見つけた。


「よかった、無事だったん――」


 続く言葉を言おうとしたが、メリルピンは言えなかった。土煙の中から飛び出したものに度肝を抜かれた。


 地面から、灰色の巨体が這い上がっていた。首達をつないでいた根元の部分は遥か高いところへ行ってしまっている。手足が退化したのか、見えるのは大きく膨らんだ腹部だけだった。背中には鋭く巨大なとげが突き出ていた。


 思わず後ずさりしてしまう。メリルピンは想像を絶する災禍に恐れを抱いた。


 一方の大蛇の首に他方の大蛇が横から突然噛みつく。現場から遠く離れた場所にいるメリルピンにも、噛みつかれた首の悲鳴が聞こえた。


 連鎖的に他の首も噛みつき始めた。メリルピンにも異常だということが分かった。ましてやジンには今まで見たことがない光景が間近で広がっていることだろう。


「どういうことよ」


 メリルピンは震えながら呟く。その先の言葉を紡ごうとしたが、一向に口を開くことができない。


 ――自分で自分の首に噛みついて傷つけるなんて。


 巨体から、赤黒い霧が吹き出す。一部からではなく体全体から吹き出ているように思われた。次いで、腹部が徐々に腫れあがって、灰色から淡赤色に変化する。それに従って、胸を張るような動きをした。


 何かにつかえたように動きが鈍ると、赤に変色して肥大した腹が破裂する。中の臓物があふれ出てくる。呪いの蒸気が上がる。煙は青紫に変色していた。


 腹の裂け目から人間の歯のようなものが生えてくる。メリルピンは屈んで目を伏せた。彼女にはあの裂け目が、気味の悪いにやけた口のように思われた。まるで惨劇そのものを楽しんでいるかのような邪悪に耐えられなかった。


 短く発せられた爆音が轟く。顔を上げると、ジンがふらふらになりながら、襲い掛かってきた大蛇の首を刎ねたのを見た。


 メリルピンは勢い良く立ち上がって、


「もういいよ、早く逃げて!」


 彼女に気が付いたのか、ジンの動きが止まる。


「もう無理だよ! 逃げて、逃げてよ!」


ジンはのそりと大蛇の方へ歩き出す。


「戻ってきて! 死んじゃったら意味ないでしょ! ジンまで死んじゃったら私、私――」


言葉を詰まらせて、メリルピンは膝をつく。


――本当に独りぼっちになっちゃう。


 彼女は天まで届かんばかりの大声で泣き叫んだ。視界が、涙で霞んでいく。地面に儚い涙の刻印が刻まれていく。



 ジンの疲労は、極限まで溜まり切っていた。

 満足に動かない体で、ジンは、気合いを発しながら襲い来る首を斬り落とす。槍を握り締める力も残り僅かになってしまった。


 視界に乱れた前髪が掛かってくる。退かすのも面倒だった。ジンは乱舞する怪物に近寄る。踏みしめる脚も覚束ない。


 気が遠くなりそうになるが横腹の痛みが強制的にジンの意識を現世に戻す。生き地獄だった。口から血が溢れ出てくる。


 何のために、戦ってきたのか。


 凶暴さを通り越して、悲鳴に聞こえる叫びをあげながら襲い掛かる大蛇の首をジンは槍で跳ね返す。ひるんだ首はそのまま粉々に砕けていく。


 何のために、槍を振るったのか。


 よろめいたジンの隙をついて、大蛇が横から強襲する。ジンはよけきれずに吹っ飛ばされる。受け身を取ることができずに体を地面に打ち付ける。その拍子に槍を手放してしまう。

 咳込んで血反吐を吐く。仰向けになって重厚な雲を眺める。


 何のために、ボロボロになったのだろう。

 何のために、少女を助けたのだろうか。


 ジンの顔に、一粒の雨がかかる。意識が朦朧としながら物思いにふける。大蛇の唸り声が遠く聞こえる。


 死を求めて戦ってきた。でもここに来て何かが違うと感じた。


 夢と現世を行ったり来たりしながら、ジンは自らの過去を振り返った。


 復讐心に駆られて怪物殺しに明け暮れた。大怪我を負いながら、なお立って斬り続けたのは、姉の無念を晴らすためでも、竜を殺して平和を取り戻すという大義のためでもなかった。まさしく、心に燃え盛る憎しみを晴らすためだった。


 復讐を成し遂げた後、自分が次第に空っぽになって存在が希薄になっていくのを感じた。虚無に苦しんだ。


 胸に空いた虚無を埋めるために、自ら死地に赴いて戦ってきた。それでも埋まることはなかった。どうしてだ? あれほど斬ったというのに、達成感がまるでない。むしろ虚しさは増していった。


 ジンの視界が暗転し始める。じわじわと近づく大蛇の動きが、ひどく遅く感じられた。


 ギルドの連中と一緒にいても埋まらなかった。たまに依頼される大規模な討伐を達成しても虚無が心を蝕んだ。人間としての存在が希薄になってゆっくりと死んでいった。


 本当に死んでやろうかとやけになって困難な戦いでも前に出て槍を振るった。でもそこで死ねなかったのは、どこか死にたくないと思っている自分がいたからだ。


 遂に景色が漆黒に変わる。途端に体に浮遊感が生じる。


 どうして死にたくなかったのか、自問自答した。なぜ、あそこで死ななかったのか。


 もしかするとどこかにまだ希望が残っているんじゃないか。でも希望なんかがどこにあるっていうんだ? 俺にとっての希望は皆消えてなくなったんだ。


 希望も残っていなければ絶望するほどでもない。曖昧な世界で、俺はたゆたうばかりで、しっかりとした存在を持たなかった。実存を感じることなく俺は実存を求めて槍を振るって命を奪った。魂を半ば強制的に眠らせた。何の罪もない無垢な命を殺してきた。


 ジンは真っ逆さまに落ちていく。視界の先に、炎のように閃くものを見つけた。熱く、息苦しく、痛かった。心の底から恐れたそれは、地獄かもしれなかった。


 自分の実存の為に、怪物を殺してきた。そんな罪人を誰が許すだろうか。


 怪物の討伐に出かけた時、命の無垢さ、儚さ、尊さを感じた。俺は持て余すほどの虚無をもって生き生きとした人々を見つめた。


 喜び、悲しみ、楽しみが新鮮な果実のようにあふれていた。笑い声をあげたり、子供同士が喧嘩をして泣いたり叫んだり、大切な人をなくしてともに慰めあうように悲しんだり、逆に親密な人と再会して喜びを分かち合ったりしていた。俺にはない感情が溢れんばかりに存在していた。


 そこに俺がいたら、どんなに喜んだだろう、悲しんだだろう、楽しんだだろうか。享受出来たら、どんなに俺の心が満たされるだろうか。


 ジンの顔にうっすらと赤く光る手が触れる。頬を撫でて、さらに深い眠りへと誘っていく。


 でもできなかった。虚無を満たすほど足りないのではない。むしろ多すぎて、罪深い自分という存在がその中に埋もれてそうだった。避けるべきことだった。罪深い自分を忘れることはできない。


 だから尊いと実感できた。命がちょっとしたことで壊れてしまう脆さも、死に発する儚さも感じた。


 命は尊い。しかし尊いことを、そこにいる人々は実感できない。


 ジンは無数の手が深みへと引きずり込んでいた時に、一つのことに気が付いた。


 なんだ、戦う理由なんてそこにあったじゃないか。


 弱く、脆く、儚い命をずっと見つめていたい。


 強さを分け与えてくれる人のそばにいたい。

 

 自分もそう生きられると、信じていたい。


 そういう思いを受け継ぐ人々やその道筋を見守りたい。


 ジンは、奥底に大蛇が口を開けて待ち構えていたことに気が付いた。ジンの心に怒りが燃え盛る。


 お前は、駄目だ。

 

 傷つけるためにいるお前は、いちゃいけない。


 命の尊さを無駄なものと一蹴するように全てを喰らいつくし、殺しつくし、貶める、お前はいけない。


 命を奪うお前は、悪だ。


 実存のために命を奪った俺も、悪だ。


 もうこれ以上、お前に奪わせはしない。


 お前は、俺の手で殺す。

 

 それが俺に唯一できる贖罪だ。

 

 俺は、そのために生きる。


 ジンは、体を捕まえていた無数の手を引きはがして昇る。漆黒の空間を抜け出そうともがく。


 不意に目の前で光が現れる。ジンは手を伸ばして光をつかむ。


 ジンの視界を、光が覆いつくした。


 目を覚ますと目の前に大蛇の鼻があった。ジンは横飛びでその場を離れた。大蛇は鼻息を荒くして、ジンを喰らおうとする。

ジンは見回して槍を探した。槍は大蛇の首の向こう側に横たわっていた。


 覚悟を決めて、ジンは地を蹴る。大蛇が口を開けて襲い掛かる。ジンは前に飛んでよける。牙は彼をとらえきれなかった。


 ジンは槍を手にする。大蛇は振り向いて再び襲い掛かる。


 ジンは踏み込んで槍を振り下ろす。牙が、顔のすぐ横を通過する。その瞬間に、大蛇の顔は左右に両断され、粉々になった。

ジンはほっと息をつく。その瞬間に体の痛みが再発する。彼は槍を地面に突き立てて歩き出す。


 ジンは打開策を見つけようと、回らない頭を使う。長く戦える体ではなかった。一撃で怪物を屠らなければいけない。


 確実なのは心臓だった。どんな生き物でも、心臓を貫かれてはひとたまりもない。竜も例外ではなかった。


 にやけた口の腹の裂け目から突撃するのが得策だが、距離が遠い。さらに狂乱している多くの大蛇の首が邪魔をして懐に入れさせてくれない。臭いを察知すれば、真っ先に襲い掛かってくる。


 思いつく限りの策を考えながら歩いていると、膝が急に崩れ落ちるが、何とか踏みとどまる。カランカランと音が響く。ジンは血に濡れた肩掛けバッグに目が留まった。開けて中を見ると、運良く割れていなかった酒瓶が四本入っていた。奥には発火剤が詰め込まれていた。


 ジンは瓶を取り出して、まじまじと見つめた。そのうち策の輪郭が徐々に明らかになってくる。


「一か八かなんて、柄じゃないんだがな」


ジンは地面を蹴って小麦畑の方へと駆けて行った。酒の栓を開けて、バッグの中に入れてあった包帯を瓶の口に巻き付ける。そして着火剤で、包帯に火をつけた。


 色褪せた小麦畑に、火炎瓶を投げつけると、硝子が割れて炎が広がった。ジンはすぐに別の小麦畑へと向かう。


 結局バッグの酒瓶を使い果たしてしまった。近くの四つの畑が巨大な焚火のようになっていた。畑の周りの雑草や木にも燃え移り、一帯が炎に包まれた。ジンはその真ん中で屈んで怪物の様子をうかがっていた。


 怪物は火を恐れて近づこうとしない。怪物の本体は、見るに堪えないほど醜悪だった。大蛇達が我先にと本体の肉を食いちぎり、いくつもの大蛇の首が生えて、粉々になって消え去っていた。瞬きの間に、生死の輪が一周していた。


 悪食家だ、とジンは思った。ふと竜の名前のつけ方を思い出した。


 竜の特徴は、奇しくも経典に記される大罪と全く似ていて、名前もそれにちなんでつけられる。


 この大蛇はその食欲とそれを満たすためならなんでもする凶悪さが特徴的であった。


 この竜はまさしく“暴食”だった。


 彼は身をひそめる。暴食の竜はジンの姿を見失っていた。黒々とした空を背に大蛇が首をきょろきょろと回して探す。


 ジンの目論見通りだった。


 大蛇達は臭いを頼りに獲物の位置を捕らえて捕食していた。臭いがかき消されてしまえば位置を特定できなくなる。完全に油断して腹までの道筋をさらしてくれれば勝機はある。


 しかし、ジンが燃えて黒焦げになる危険性を秤にかけなければならなかった。ずっと待っていれば火が体に燃え移ってしまう。早くしてほしいというのがジンの本音だった。


 槍を腰に構えて、屈んだままの状態では自分も動こうにも動けなくなってしまう。


 ジンは内心焦っていた。心臓の鼓動が段々早くなり、大きくなっていく。


 炎の燃える音が、大蛇の唸り声が、静寂にかき消される。いつの間にかジンの耳には、鼓動しか聞こえなくなっていた。


 大蛇は諦めて、方向転換して別の場所を探し始めた。


 ジンは、ここだと見定めた。体を少し上げ、脚に力をためる。呼吸を整えようと、残り少ない空気を吸って、吐く。


 完全に大蛇が姿を消した時、ジンは地面を蹴って暴食の竜に突貫した。


 空気が首を引っ掻いていく。周りの風景があっという間に過ぎ去っていく。


 察知したのか、大蛇は一斉にジンの方を向く。ジンは構わず突進していく。大蛇は個別に襲い掛かってきた。ジンはそれらをよけ、いなし、斬って進んでいく。


 ある首が横から襲い掛かり、体を空中に跳ね上げる。追撃に来ると、ジンは槍を両手で持って、大蛇の首を体ごと叩きつけて両断した。


 ジンは素早い身のこなしで、頭を失った大蛇の胴体に着地して一直線に本体に駆ける。襲い掛かる大蛇の首をジンは槍で斬り進んでいく。


 ジンが裂け目まで目前のところまで来たとき、今度は大蛇が四方から強襲してきた。たまらず彼は飛び上がった。


 真下を見ると、裂け目の周りががら空きだった。


 ジンは何回か体を回転してから、槍を構える。


 しかし、横から再び大蛇が襲い掛かりジンを跳ね飛ば――されなかった。彼は大蛇の頭に乗っていた。ジンは、大蛇の眼を見て、


「ありがとよ」



 頭を蹴って真っ逆さまに落下していく。巨体が視界の大部分を占めるようになる。


――狙うは、裂け目の奥底だけ。


 槍と一体になって、裂け目に突っ込んでいく。




一瞬、光る。




 怪物の本体が爆裂する。大蛇達は粉々になった。衝撃波で周辺に生えていた木がなびく。倒壊寸前だった家屋も吹き飛ばされる。やがて風が空に集まっていき、四方に吹き荒れる。



 メリルピンは両腕で顔を隠す。風が収まると、ゆっくりと覆いを解いて前を見る。

怪物から出ている大きな蒸気の煙が、黒々とした空へ向かって上がっていく。メリルピンは、いてもたってもいられず、ジンを探しに怪物の傍まで走る。


 そこは悪臭が漂う、惨禍の中心地だった。メリルピンは、横たわる肉塊をかき分けてジンを探す。


「ジン! どこなの!」


 彼女は声を張り上げ続けるが、一向に返事はない。

 

 不意に音が響く。メリルピンは振り向くと巨大な肉塊の中から、ジンが槍で切り裂いて出てきた。彼はよたよたと歩いて地面に降り立った。


 彼女は感情を抑えられなかった。ジンの姿を見つけるとメリルピンは突進して、彼に抱き着いた。ジンはよろめく。


 メリルピンは彼に抱き着いて声を上げて大泣きした。


 ジンは息を切らしながら空を見上げる。堰を切ったように雨が降り始める。沢山の雨粒が顔に流れる。大雨が血を大地に流していく。


 メリルピンに目を戻すと、服が濡れて白い肌が透けていた。可憐な一本のおさげも濡れて、形が乱れている。


 ジンは、雨に濡れた彼女の髪をなでながら、


「帰ろう」


二人は、ともに歩き出す。



こうして、悲劇は銀幕の世界に覆われた。



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