新月の夜は窓を開けて

悠井すみれ

第1話

 みんな、わたしを良い子だと思っているみたい。お父様やお母様やお姉様たち、大人たちが夜更けまで夜会に興じるいっぽうで、ひとりだけ大人しく寝室に下がって言ったから。


 でも、違うの。わたしには夜会なんてどうでも良いの。わたしにとって大事なのは、今宵は新月、いちばん暗い夜だということだけよ。シャンデリアの煌めきに目が眩んで気付かない人も多いようだけれど、月の光だってとても眩しいの。空いっぱいに散りばめられた星も、それは綺麗に輝くけれど、それでもずっと控えめな光だから。だから、彼の翼も闇に紛れることができるのよ。


「新月の夜は、窓を開けて待っておいで」


 それが、彼とのお約束。


 いつかの夜、部屋に返されたのが不満で眠ることもできなくて、遠くの賑わいを聞きながら夜空を見上げていたわたしを、彼は見つけてくれたのよ。それも、新月の夜だった。


 夜の闇は、思いのほかにものだと、わたしはその時はじめて知った。大理石みたいな彼のすべすべの頬や手を輝かせるのに、星明りでも十分だったから。真っ黒な髪と目と──それから、大きな翼。夜と同じ色なのに、闇からくっきりと浮き上がっていたのが不思議なくらい。綺麗なものは、それ自体が光輝いて見えるのかしら。


 驚いて、それに、見蕩れて。声も出せずにいたわたしに、彼はにっこりと微笑んだ。とても綺麗な笑顔だったわ。


「こんばんは、小さなお姫様。退屈しているなら散歩はいかが?」


 うっとりするような甘い声で誘われて、わたしは考える間もなく彼の白い手を取っていた。


 夜の空のは、とても気持ち良かったわ。冷たい風も、彼の翼に包まれていればぜんぜん寒くないんだもの。

 お父様たちが夜会に湧くお城も、上から見たらなんて小さな輝きだったでしょう。辺りを見渡せば、もっとずっと眩しい星にも手が届きそうなのに。だから、寝なさい、って言われた頬を膨らませたことなんて、わたし、すぐに忘れてしまったわ。


 だって、ほかにも見るべきものがいっぱいあったのだもの!


 夜にしか咲かない花、夜にしか動かない獣があんなにいるなんて、それまで全然知らなかった。それも、不思議な姿かたちで、美しく光るものばかり。暗いからこそ、みずから光を放つようになるのかしら。


 真っ白い鹿には六つの目があって、眠っているように見えてもどれかは必ず開いていた。蛍が飛んでいると思えば、実はそれは大きな鳥の鶏冠とさかで、食べようとした小鳥は逆に捕まえられて呑み込まれてしまっていた。星が急に見えなくなったと思ったら、夜空を切り取るのは竜が翼を広げた影だった。まあるく赤い目は、不吉な月のようで、恐ろしいけれど魅入られてしまう。


 甘い香りを漂わせて碧や紫の蝶を呼ぶ花を、摘んでみたかった。お姉様たちを羨ましがらせたくて。透き通る花びらは、それが放つ光によって辛うじて輪郭を見て取ることができた。夜の闇の中でも美しいけれど、昼の光の下でもきっと綺麗だろうと思ったの。


「絶対に下りてはいけないよ。足が汚れていたら、明日の朝に怒られてしまうだろう?」


 でも、彼がそう言って、腕を緩めてくれないのが少し残念だった。本当に、少しだけ、ね。彼が言うのももっともだったし、抱き締められるのはどきどきして嬉しかったから。お姉様たちに自慢できなくても構わないわ、ふたりだけの秘密、って素敵じゃない? って思うことができたの。


「やあ、今日も待っていてくれたね」


 ああ、そんなことを思い出しているうちに彼が来てくれた。彼の翼の羽ばたきが、カーテンを大きく揺らす。彼と遊ぶうちに、私の目はすっかり闇になれているから、星明りが落とす彼の影もはっきりと見分けられるようになっている。


「待っているのは毎晩よ。毎日が新月なら良いのに」

「昼の世界のお姫様が、嬉しいことを言ってくれるね?」

「わたし、夜の世界のほうが好きだもの」


 いつものように勢いよく彼に飛びつくと、苦笑の気配が髪を揺らした。


「いつまでそう言ってくれるかな……」

「ずっとよ。決まっているわ」


 を終えて寝台に届けてもらうたびに、わたしは彼にお願いするの。帰りたくない、あなたと一緒に行かせて、って。彼の答えはいつも同じ。大人になっても同じことを望んでくれたら。


 わたしが子供だと思って、心変わりすると思っているのね。それなら馬鹿にしているわ。早く大人にならないかしら。それでも連れて行ってと頼んだら、彼はどんな顔をするかしら。


「今夜はどこに飛んで行こうか?」

「どこへでも。貴方はいつでも素敵なものを見せてくれるのだもの」


 貴方と一緒なら、どこでも良いの。どこへでも行くわ。そう思ったのは、伝わったかしら。


「そう。──じゃあ、しっかりと掴まっていて」


 彼の翼が大きく羽ばたいた。黒い羽根のひとひら、ふたひらを後に残して、私たちは夜の空へと舞いあがった。

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