生を厭う物憂い言葉の連なりのなかで

生きることは煩わしい。
ままならないことばかりで、ありとあらゆる存在が、私に向かって敵意を剥き出しにしている。
とりわけ人という生き物は、鋭い牙を見せつけるようにいやらしい微笑を浮かべながら、大丈夫だよ、平気だよ、心配ないよ、と優しい言葉をささやきつつも、私をこころをひそかに腐す。
ぼろぼろと溢れ落ちたそれは、鼻につく臭いを放ちながら、さらに人を遠ざけ、私はついにはひとりとなる。


カミュは『シーシュポスの神話』のなかで、以下のように書いている。

"自殺というこの動作は、偉大な作品と同じく、心情の沈黙のなかで準備される。当人自身もそれを知らない。ある夜、かれはピストルの引き金を引く、あるいは身を投げる。……略……。思考をはじめる、これは内部に穴があきはじめるということだ。こういう発端に社会はあまり関係していない。蝕み食いあらしてゆく虫は、外部の社会にではなく、ひとの心の内部にいる。"

はて、私の思考が私のこころを蝕み食いあらしていたのだろうか。
はたまた、外部的ななにかが私を傷つけ、消耗させ、壊そうとしているのだろうか。

私にはわからない。

「生きる」ということを続ける理由を、人はなぜか、明確に持ち合わせているものだと思い込んでいる。だが実際には、昨日と今日を繋ぎ、今日と明日を繋ぎ、日常を形作っていくことに理由もなければ意味などない。(という思考は、いくらか私のこころを食いあらしているかもしれない。)

つまり、私の生は無意味だ。

多くの人はおそらく人生の過程において一度はこの陥穽にはまる。そこには甘い死への誘いがある。
にもかかわらず、なんでもない日常や惰性、習慣が、穴を少しずつ埋めてしまう。死の誘いが、疎ましい生からの逃避が、緩やかに薄れて消えていくのだ。
昨日と今日が同じで、今日と明日が同じで、連続した時間への確信こそが、私を生かしている。


作中、印象的なシーンがあった。『味のしないあめ玉:3/4』より。
主人公のあずさがふと漏らした「どうしよう」、「これから」という言葉に、友人のアキが応じる場面だ。

"「うーん、とりあえず、洗濯機回してコンビニ行こ」"

アキは「生きている」側の人間だ。主人公とは、立っている場所が違う。アキのとても「生」の力のある言葉だが、主人公には届かない。(あるいは、もしかしたら届いていたのかもしれない)
ふたりは別々の場所から、同じものを見ようとしている。当然、それゆえにずれが生じる。

生きるというのは、ずれの連続だ。
私の考えていることと、私以外の人の考えていることは、当然ながら同じではない。
こうしてレビューを書いているが、作者の意図とは無関係に、私はこの小説に勝手な解釈をあたえて感動し、勝手に喜んで書評している。作品を介して作者と対峙するものの、私と作者はずれる。そして、私の書評を作者が読んだとして、その解釈もまた、私の意図とはずれる。
そして、ずれは永遠に埋まらない。

他者や社会のあらゆるものが敵に感じられるのは、そのせいかもしれない。常に私は試され、常に私は否定される。

私は私以外の誰かではない。

私はときどき、私以外の誰かになりたいと欲するものの、できない。
だからこそ、私は本を読むのかもしれない。
ここではないどこかを欲して旅をする心持ちで、本を読む、小説を読む。
これは、もしかすると、簡易的かつ仮想的な自殺なのかもしれない。読書ほど自分を上手に(?)ここから脱落させてしまえる手段はないと思う。
ここではないどこかたどり着いても、やはりそこはいつかここになる。簡易的かつ仮想的な自殺。軽薄で、浅はかで、とても贅沢な自殺だ。
そうして私は知る。私の孤独や物憂さや気怠さや人生のままならなさなど、ありふれているのだ、私はひとりではないのだ、と。無事に自我の境界が溶けて曖昧になり、簡易的かつ仮想的な自殺、軽薄で浅はかで贅沢な自殺は完成してしまう。


とはいえ、すべての作品がそうした自殺の甘美な喜びを感じさせてくれるものではない。この小説にはカタルシスがある。(排泄の描写もある。)
作品に、作者に感謝したい。
単に面白かったというに飽き足らず、書きたいという欲求を高めてくれた。

だから今日は書く。たくさん書く。


そして、今晩はぐっすり眠れそうだ。