借りた猫の手、利息に爪痕

目々

借りた猫の手、利息に爪痕

 昔から要領が悪かった。夏休みの宿題も最終日の夜中に自由工作を仕上げていたし、中学校の提出物は全教科を揃って出せた試しがない。高校の期末試験も範囲の把握さえ危ういほどで、計画を立てようがその通りにことが進むことはほとんどなかった。示された課題の前で何をすべきかを決めかねているうちに、それらは容赦なく数を増していく。そうして積み上がった『やるべきこと』の物量に圧倒されて泣き出しそうになるのだ。

 渋滞した問題と迫る期日。すべてのことが手に負えない程に膨れ上がっていく。手遅れになりかけてからようやく腹を決めて取り組みだしても間に合うわけがない。

 溜め込んだ問題の量の多さに溺れそうになる度に、天から垂らされる蜘蛛の糸のように差し出される手があった。


 優しくて、賢くて、何でもできる自慢の兄。出来の悪い弟である俺を、兄はいつでも助けてくれた。


 馬鹿なだけではなく気が小さい。問題にぶつかったとしてもすぐにはそれを打ち明けることができずに抱え込んでしまう──それが俺の悪癖だということは分かっている。できないのならばすぐに言い出せば傷は浅く済むのに、口に出すのをぎりぎりまでこらえてしまう。今まで兄や周囲に掛けてきた迷惑やなんやを思い出しては罪悪感に押し潰されそうになり、言い出すのを躊躇ってしまうのだ。そうしてその疚しさへの言い訳として、果敢にも立ち向かうような恰好をする。と経験と負い目だけを抱えて無謀な吶喊を試みてしまうのだ。


 それでうまくいくのは出来の良い人間だけだという事実から目を逸らしているのは、自分が一番よく分かっている。


 結局現実は容赦なく牙を剥き、呆気なく手に余った問題は厄介ごとを雪だるま式に巻き込み始める。転がり出した事態がいよいよ周囲を巻き込んでの大崩落を始めることが予想されるあたりで、ようやく俺は兄に縋るのだ。

 絶望と落胆、それから羞恥に塗れて途方に暮れている俺を、兄は責めたことはなかった。


「別にいいよ。俺なんかにね、できることがあるんならさ。手ならいくらでも貸すんだよ、猫の手くらいには役に立つからさあ……」


 本人より優秀な猫の手手伝いというのもどうなんだろうなと思いながらも、行き詰まり山のように積み重なった厄介ごとの鉄火場を凌ぐため、俺は猫の手兄の助けを借り続けていた。

 兄はいつでも嫌な顔一つせず、俺の後始末を手伝ってくれた。最悪の事態から俺が真っ当にやるよりも、ほんの少し兄が手を貸してくれるだけで魔法のように見事に片付くのだ。

 泣きながら課題帳を殴り書いていた俺の隣で、励ましの言葉と共に自由工作の万年カレンダーの木片に数字を書き入れてくれた。提出物を出し損ねた罰として山のように積まれた課題も、優先すべき道筋と理解が足りず躓く個所への手助けをしながら、深夜ラジオをお供に俺の徹夜に付き合ってくれた。高校の試験では、赤点により留年の危機に陥った俺に、つきっきりで範囲の見直しと問題の解き方を教えてくれた。


 兄がいなければ俺はとっくに世間から落伍していただろう。何度も修羅場を救われてきた。その度に優秀な兄を持ったことへの安堵と誇らしさを覚えては、自分の無能さに暗澹たる気分になるのだ。


「お前はねえ、抱え込みすぎるんだよ。出来が悪いんじゃなくて、要領が悪いんだ……やろうと思えばお前だってできるはずだよ、色々さ」


 補習課題の山に喘ぐ俺に付き合って迎えた夏の夜明け。そんな優しいことを言っては、網戸の前でコーヒーを啜ってこちらを見る兄は、ひどく優しい顔をしていた。


 兄は優秀だった。高校は当然のように地元で一番の進学校を優れた成績で卒業し、誰でも名前を知っているような大学を選び進学した。その理由も「やりたい研究のために入りたかった」と偏差値だけに惑わされることなく確固たるものを持った人間としてのものだから完璧だった。そうして多くの地元の友人知人から惜しまれ祝福されながら都会へと旅立ち、大学を卒業した後は「お世話になった先輩と一緒に会社を始めた」とそのまま都会で働き始めた。

 忙しいのだろう。就職してからは滅多に実家に帰って来てはくれない。最も兄ならば仕方がないことだろう。都会でもきっと俺のような無能や役立たずは沢山いるのだろうし、兄は優しい人だから彼らを見捨てられないのだろう──何より優秀な人間には仕事がいつだって回ってくるのだと、父が言っていた。

 会える機会は減ってはいたが、それでも電話くらいならぽつぽつと掛かってきていたし、家族の誕生日や記念日には気の利いた贈り物も届いた。だから全く心配はしていなかった。


 本当に、心の底から自慢の兄なのだ。何もない田舎から才覚と努力と運に存分に恵まれて、華やかな未来を掴んだ。絵に描いたような出世コースを辿れるだけの実力がある、優秀な人。嫉妬も憧憬も抱きようがない。自分がそんな次元に立てるわけがない──そのくらいは馬鹿な俺だって弁えている。


 その兄から人手が足りなくて困っているから手伝ってくれるかと呼び出されたとき、俺は恩を返すチャンスだと奮い立ったのだ。


 実家から新幹線に揺られて数時間。都会の駅は夜でも人の群れに埋め尽くされていて、淀んだ春の夜空は街灯を滲ませてふしだらに明るかった。

 久々に会った兄は髪を明るい色に染めて、地元では見なかったような派手な色合いの服装をしていた。待ち合わせた改札口で遭遇したときは誰だか分からなかったけれども、俺の名前を呼ぶときのやわらかな表情は昔と変わらないままだった。


 立ち話も何だと連れ込まれたコーヒーチェーン店で、兄はブラックを啜りながら口を開いた。


「早速で悪いんだけどさ、ちょっと先の駐車場に車止めてあるんだ。それ乗るから」

「別にいいよ。俺が手伝えるんなら、できる限り頑張るからさ」

「……無理しなくてもいいけどね。何なら俺が済ませてくるから、お前その辺のカラオケとかで時間潰してくれれば拾いに来るよ」

「何で? 俺呼んだのって手伝いのためだろ。それで遊んでたら、俺父さんたちに叱られるし」


 俺だって猫の手くらいには兄さんの役に立ちたいんだと言えば、兄は黙って目を瞬かせてから、砂糖塗れのドーナツの皿を俺の方に押し付けた。


***


 大通りを外れ、歩く人も殆どいないようなビルの隙間。ひと気のない有料駐車場、その暗い敷地の隅に黒のミニバンは魔物のように蹲っていた。


「お前助手席乗りなね。後ろ、荷物積んでるからさ」


 兄の言葉に従って、助手席側のドアを開ける。

 乗り込んだ途端、車内に強く漂う芳香剤の匂いにくらくらとする。甘ったるい香りはすぐに鼻を侵して、微かな頭痛以外は何も分からなくなった。

 シートベルトを着けながら、俺は何の気なしに背後を振り返る。


 後部座席には黒い袋が横たわっていた。


「大きいだろ、お前と同じくらいあるんじゃない? 場所取るんだよね、やっぱりさあ」


 細められた兄の目とバックミラー越しに視線がかち合って、俺は慌てて頷く。中に何が入っているんだと考えようとして、咄嗟に浮かんだ想像をどうにかして打ち消す。

 兄のすることが間違っていたことなんてなかった。兄は立派な人間なのだから、することは正しいことに違いない。

 きっと粗大ごみか何かだろうと俺はごく当たり前の予想をする。最近だと普通に捨てるにも金がかかると聞いたことがある気がする。兄は無駄遣いをするような人ではないから、その辺りも考えてどうにか上手い処理の方法を考えたのだろう。


「今丁度使えそうなの出払っててさ。人手不足って嫌だよな、それでも仕事は減らないから」


 軽口と共にエンジンの掛かる音がして、カーステレオからは賑やかな笑い声が聞こえ始める。少し間を置いてから流行りの曲のイントロが流れ出す。

 窓の外の景色は緩やかに流れ、春の夜闇に墓標のようにビルが青黒く浮かび上がる。


「……兄さん、仕事って、俺でも手伝えるの」

「大丈夫だいじょうぶ、ちょっと手を借りるだけだから。誰だってできるよ」


 何も心配しなくっていいぞと兄が呟く。俺は湧き上がる胸騒ぎを抑えようと、黙って頷き返す。俺如きが兄を疑っていいわけがない。兄のやることが間違っていたことなど今までなかったのだから、きっとこれも正解に辿り着くはずだ。

 不安になるのは俺がちゃんと物事を理解できていないからだ。


「任せる相手はいたんだけどね、土壇場で逃げちゃったから……お前に頼むのも迷ったんだけどね。けどこれ片付けないと俺も結構困るからさ」


 猫の手も借りたいくらいに忙しいんだよと言ってから兄は喉を詰まらせるように笑う。

 知らない笑い方だった。


「猫の手っていうか弟の手も借りたい、かなあ……現状を言うならさ。上手くいきそうじゃん猫の手より。血が繋がってる方がさ、なんかこう、


 兄の目が得物を捕らえた猫のように細まる。俺は再び目を伏せて、縋るように自分の手を握り締める。

 爪が食い込んで微かに痛む。本当の猫の爪はもっと痛いのだろうかと馬鹿なことを考えて、俺は唇を噛んだ。

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