第伍拾捌話 落日の玉座〈四〉


 「一体誰が情報を漏らした?」という界雷の怒りを孕んだ問いかけに、その場にいる者たちは揃って首を横に振った。

 青林の宣戦布告から三日後、予め用意されていた伝書鳩により他の領主たちにも事の詳細が語られた。既に『北』と『西』は青林側に付き、『南』は音沙汰なし、という情報が中納言“華岳カガク”からもたらされ、動き出した領地では東と同じように陰陽国の国司が一人残らず捕えられたという。

 この前代未聞の状況に最初に声を上げたのは左大臣の冬牙トウガ。「思い上がった領主達に烏兎の裁きの鉄槌を!」と事を騒ぎ立てる冬牙の声に賛同する者は多く、それは息子を殺された桔梗キキョウとて同じだった。

 その中で意見の分かれた界雷は慎重に動くべき、と口を閉ざし、まずはこうなった原因の追及と今後の赫夜様について話し合う為、同じ秘密を共有する、揺籃ヨウラントモエ十五夜イサヨ旋花殿せんかでんに集めた。

 まるでこの場にいる者の中に犯人がいるかのような界雷の口振りに、揺籃ははっきりと意を唱える。


「あなた、まるで犯人がいるような口振りはおやめください。ここにいる全員、この事がバレれば命すら危ういのです。おいそれと口を滑らせるとはとても…」

「だがこの場にいる者しかこの秘密を知らないのもまた事実。漏れたとすればこの中の誰かが口を滑らしたとしか思えん。なぁ、巴」


 どうやら界雷が一番に疑っているのは実の息子であるトモエであるようで、それを知った揺籃は更に声を荒げて抗議する。


「まぁ! 自分の子供を疑うのですか? 確かにこの子はまだ未熟ですが、誰よりも両殿下に忠誠を誓っています。例え酒に溺れようとも、秘密を漏らすことなどないと、親ならば信じて差し上げてくださいませ!!」


 父の疑いの目にしょんぼりと肩を落とす巴の背中を宥めながら説教する揺籃に一瞬は圧倒されるも、界雷は冷静に疑った経緯について語り始める。


「…勿論、巴とて私の息子。そんな馬鹿なことはしない、と思っている。しかし現状、この中で他に情報が漏れるかもしれないのは宮中の中と外を行き来している私と巴くらいしか考えられないのだ」

「それは…」

「揺籃と両殿下の父である樹雨キサメ様は後宮から出ることはなく、情報が漏れる可能性は低い。そして十五夜イサヨ様は普段宮中の外におられるが、社殿はここよりも閉ざされた場所故に、十五夜様が大声で言いふらさない限り漏れるとは考えにくい」


 無論、十五夜はそんなことをするなどあり得ない。本人も深く頷き全員が納得する中、何か引っかかりを感じた揺籃は頬に手を置き考えに耽っていた。


「…揺籃、どうした?」

「…社殿。そういえば、社殿で……―――あっ」

「?」

「あー…、えっと、ごめんなさい、あなた。とても言いづらいことを言っておくのを忘れていたわ」


 何か重要な事を思い出した揺籃だったが、次は顔色を青くしながら言いづらそうに濁しながら、社殿で起きた“ある事”を報告する。


「…そ、そのね、赫夜様の声変わりが発覚した日のことなのだけれど。会合の為、急ぎ支度をしようとした私が襖を開けた先に…」

「先に、なんだ?」

「……神官がいたの。その神官に運悪く、赫夜の着替えを目撃されてしまって」

「な、なんだと?!」

「神官の名前は確か…、若紫ワカムラサキだったかしら」


 本当にごめんなさい、と頭を下げる揺籃に込み上げてきた怒りで震える界雷が一言喝を入れようとしたが、十五夜によって遮られた。


若紫ワカムラサキ? 


 思いもよらない十五夜の発言に一同の視線は全て彼女に集中し、どういうことかと問い詰める。


「十五夜様っそれは一体どういうことでしょうか?!」

「社殿で死者が出たなど聞いておりません!」

「何故事前に報告してくださらなかったのですか!?」


 巴、揺籃、界雷から順番に詰め寄られ、身を縮める十五夜はとりあえず落ち着け、と身振り手振りをして三人を引き離す。そして順番に返答していく。


「…こほん。実は赫夜の容態が芳しくないと聞きここへ参じる前、神官から報告を受けまして。“女の神官の部屋で自害している男の神官がいる” と。詳細を聞いたところ傍らには遺書があり、男はその部屋の主に懸想していたようで、叶わぬ恋と知りせめて彼女の目に最初に映る場所で死のうと思ったらしいのだ。なんとも傍迷惑はその神官こそ、若紫ワカムラサキ

「…報告が遅れた理由は?」

「私も聞いたのが出立の直後でな。宮中に着いてから告げるつもりだったのだが、運悪く“青帝せいてい”が来たことも重なり伝え損ねていた。すまぬな」

「いえ、であれば仕方ありますまい。しかし社殿で人死とは、一体何十年ぶりでしょうか…」

「…第十代目、日和ヒヨリ様以来か」


 宮中にいれば一度は耳にする歴史的事件を思い返し沈黙する四人。界雷はその死んだ神官から情報が漏洩したのではないか、と推測した。


「その神官、若紫といいましたね。彼は普段から外部と連絡をとっていた、という事実は?」

「神官はそのお勤めを終えるまで社殿の外に出ることはできません。連絡できる手段といえば、年に数回の家族への文くらい」

「若紫の家族は?」

「それならば恐らく、“藤内トウナイ”が存じているでしょう」


 十五夜の口から告げられたここにいるはずもない人物の名前に界雷は何故と眉を顰める。


「“藤内トウナイ”? なぜ今彼の名前が出てくるのです?」

「若紫を神官に推薦したのは左府さふ冬牙トウガ。そしてその若紫の実家こそ、かつて『藤花事件とうかじけん』で罰せられた神官の遠縁にあたります」

「なんだと…っ?!」

「社殿でまたもや例の一族が事件を起こしたということですか?!」

「…これは、冬牙殿に話を聞く必要がありますな。果たして彼が殿下の秘密を暴露した文を送り、受け取った者から漏洩したのか否か。そして、間接的に藤内と冬牙、二人ともそれを知っていたのか」


 この場にいない者たちへの疑惑が持ち上がりすぐにでも問い詰めようと立ち上がった界雷は十五夜に一礼してその場を去った。

 その背中を慌てて追いかけた揺籃と、母の背中を無意識に追いかけた巴の家族三人が揃って顔を突き合わせる。


「あなた様、くれぐれも用心なさってください。もし冬牙殿に悪意があってのことだった場合、万が一のことも…」

「心配するな。冬牙殿はまだ若いが理性的で話がわかる。短慮を起こして凶行に走ることなどないだろうと信じている」

「しかしっ」

「…それでももし、私に何かあればその時は…、


 突然の名指しにぽかんとする巴に、界雷情けなさを感じながらも溜め息一つで収め、懇切丁寧に説明する。


「…いいか。お前は私の息子だ、もし私の身に何かあれば家を継ぐのも、その後の諸々を引き継ぐのも、勿論お前しかいない。それを肝に銘じておけということだ」

「は、はぁ…。し、しかし、俺にはまだとても…」

「…大丈夫だ。確かに第三者から見てお前はまだ未熟だが、お前は私の子だ。

「っはい!」


 普段厳格で家族であったもの優しい言葉など易々と掛けることのない父からの心の籠った“信頼”に巴が鼓舞され大きく返事を返すと、界雷はひっそりと満足げな笑みを浮かべその場を去った。

 自分の身を案じる妻の視線に尾を引かれるも、それは通路の角を曲がった時に掻き消された。

 そこには人が一人立っていた。いると予想もしなかった人影に界雷は足を止め驚愕していると、人影は薄暗い通路の向こうからゆっくりとこちらへ歩み寄りその姿を露わにした。界雷がこちらへ歩いてくるのをじっと待っていたのは、何かと縁がある中納言の華岳カガクだった。何か目的があって界雷を待ち伏せしていたであろう華岳は目線を伏せたまま話し始める。


「か、界雷、どの…」

「どうされたのですか、華岳殿? まさか、“南”にも何か動きが?」

「い、いえ、未だ“南”に動きはないのだが…。その“南”についてお話が」

「“南”について?」

「……もしかしたら、


 まさに青天の霹靂。一触即発直前の現状において願ってもない言葉に、界雷は耳を傾けたのだった。



 ❖ ❖



 人生、一体何が起こるか分からないものだと、その日改めて痛感した。特に人と人の繋がりは、いつの間にか本人も気付かぬまま絡み合い交差していることがあるのだと、華岳の口から初めて知らされた。

 しかし重要なのはその繋がりの先。華岳の言ったことが本当ならば、我々は。この切り札を心中に界雷は今、目の前の男と対峙している。


「―――どうされた、界雷殿。お口に合わなかったか?」


 私が緊張のあまり目の前に用意された御膳に一切手をつけないことに疑問を感じたのか、対面に座り酒を嗜む男――冬牙トウガが問いかけた。

 口に合わないはずがない。突然の訪問でありながら待っていたかのような上等な食材の数々、そして冬牙が常々好きだと口にしている酒もそこらの貴族では手が出ないほどの一級品。これを前にして“口に合わない”など、贅沢にも程がある。普段にこの手の贅沢に興味がない界雷からしてみれば無用なもてなしだが、ここで否定するのは今後の交渉において不利に働く可能性があった為、界雷は当たり障りのない笑みを薄く浮かべ箸を取る。


「…失礼。普段食べ慣れぬものばかりだった故、圧倒されてしまった。流石は食通だな、冬牙殿」

「それほどでもないさ。なにせ、故郷の執明領しつみょうりょうは北の環境下のせいで食べ物の種類は少なく、尚且つ保存目的の調理しかしないからな。ここに来てから寧ろ舌が肥えた」


 もう故郷には戻れんな、と笑いながら猪の肉を嗜む。次々に箸を付ける冬牙とは反対に未だ漬物以外口にしていない界雷は酒気を帯びる前に、冬牙に要件を告げた。


「…冬牙殿、本日こちらへ赴いたのには理由があります。領主たちの反乱についてです」

「ほぉ? それまで対策について黙秘を続けていた界雷殿自らの意見とは、興味深いですな」

「改めて聞かせていただきたい。冬牙殿は此度の事態に対し、どのような対策をすべきとお考えか?」


 出された料理にほぼ手をつけず、真剣に相対する界雷に冬牙は楽しんでいた盃を置き、言葉を濁すことなくありのままの思想を語り出す。宛ら、ここは冬牙の為の舞台である。


「ではお聞かせいたしましょう! 私の華麗なる計画について!」


 舞台の上のように大袈裟な身振り手振りをする冬牙のいつにも増して高飛車な態度を見学しながら、界雷は黙って酒を飲む。


「まず今回の発端は何者かが故意に流した悪質な噂。それを軽率にも信じた青帝せいていのせいで、事はより大きくなってしまったわけだが…、私はこれをと捉えている」

「“好機”ですか?」

「はい。元々近頃の領主たちの行動には些か引っかかるものがありまして、それは陰陽国に対する“忠誠心の欠如”だと思っております」


 何をもってしてそう感じたのか、界雷は尋ねる。


「これに関してはやはり、先代兎君ときみの失踪が発端であると言えましょう。自身の役割、責務を放棄して玉座を捨てたことによって、烏兎に対する領主たちの信頼は少なからず落ちたでしょう。私も当時のことは故郷の家臣たちより聞きましたが、この地を統治する者としてあるまじき行為だと思ったものです」


 当時まだ幼いながら顔も見たことのない兎君に対する反応などこんなものだろう、と納得しながらも界雷は心のどこかで「何も知らない癖に」と冬牙の言動に腹を立てていた。

 先代のことは誰よりも近くで見てきた界雷だからこそ、彼を心の底から悪く言うことなど今になっても出来ない。結果的に兎君は玉座を捨てたが、それまでの彼に対する周囲の高圧的な態度や嘲笑するような顔、何も出来ないと高を括られ傀儡同然の中でたった一人自分を人間だと認識してくれる女官の存在がどれだけ彼の心を救ったことか。だからこそ界雷は逃げ出した彼を攻めることは出来なかった。

 その全てを今冬牙に熱弁したところで詮無いことであり、界雷はそれらを飲み込むと話の続きに戻った。


「…烏兎の信頼が一度落ちたことはわかった。しかしそれとこれは何か関係があるのか?」

「信頼があればあのような“噂”に惑わされることなどないでしょう。青帝殿は先代が失踪した時から、どこか烏兎に対して不信感を抱いていたのだと思われます。そこへあの噂が舞い込みこのような凶行に走った、というわけです」

「で、その失った信頼を取り戻し反乱を止める具体的な方法は?」

「…勿論、“籠城ろうじょう”ただ一つ」


 界雷の問いに対しきっと“徹底抗戦”と答えるであろうと予想していたが、その返答は予想外にも防衛戦であったことに驚いた。


「“籠城”ですと? この御所の大門を閉めるということですか?」

「御所だけではない。陰陽国の都を囲む城壁の大門を閉ざす。そしてその上で烏師殿下には周囲に強固な“結界”を張っていただく」


 冬牙の作戦とは、陰陽国の御所と都を囲む城壁の唯一の門『螺旋門らせんもん』を完全に閉め切り、その上でこの地に何人たりとも足を踏み入れることの出来ないよう、烏師の結界で囲むというものだった。てっきり打って出る気があると思い込んでいた界雷は驚きのあまり手に持った盃を落としそうになった。


「しかし長くは持たないぞ。我が国は食糧からその他の物資まで全て領主たちに頼り切りで、長く籠城する為の備蓄などほとんどない。消耗戦になれば我々の不利は必定」

「もちろんわかっておりますよ。そこを考慮して長期戦にするつもりはありません。後は烏師の結界と我々の兵士たちが彼等を闇討ちすればいいこと。…決して入れぬ敵の本拠地を前に次々と消えていく兵たちに、領主たちは再度烏師の恐ろしさを思い知ることになるでしょう」


 冬牙は自身の作戦の遂行を思い浮かべては、それに踊らされる領主たちの哀れな姿を想像し愉快に笑った。そこには陰陽国の最高権力者としての義務の他に、彼の個人的な私怨も混ざっているように感じた。

 ここまで聞き界雷はやはり冬牙に和解の気はないことを再確認し、次は自身の策について語り出す。


「…冬牙殿、実は朗報だ。私の策がうまく運べはこの反乱を最小限の犠牲のみで回避できるかもしれん」

「……なんですと?」


 それまで上機嫌に酒を煽っていた冬牙は界雷の言葉にぴたりと動きを止め、怪訝な顔で界雷を睨みつけた。鋭い視線が刺さる中、界雷が提示したのはここを訪れる前、華岳カガクから聞いたことである。


「私の父には実は表向きには公表されていない“娘”が一人いる。その娘、私の妹にあたる者は家庭の問題により我が家で育つことなく、ある人物のもとに養女として引き取られた。その娘の名は―――『華月カヅキ』」

「…待て、華月だと? 私の予想が正しければ華月というのは―――」

「えぇ、南の陵光領りょうこうりょう赤帝せきてい朱鷺トキ”殿の正室、華月殿その人です」


 界雷が華岳から秘密裏に伝えられたのは、消息不明だった異母妹いもうとの行方。界雷の母に疎まれ実家で育てることを禁じられた為、界雷が知らぬ間に養女に出されていた異母妹のその後についてだった。界雷は介入を拒む華岳の様子から、どこか名のある家に嫁いだのだろうと推察していたが、まさかの嫁ぎ先は南の地を治める領主の一族。


「人の縁とはどこで繋がっているかわからないものです。私もこの話を聞いたのはつい先程のことでして、これを聞いてある策を思い付きました」

「…聞きましょう」

「恐らく朱鷺殿は自身の奥方が陰陽国の、しかも右大臣の身内とすれば容易に刃を向けるようなことはしないでしょう。そうすれば四人の領主のうちの一人は確実にこちらの味方となります。後は朱鷺殿がこちら側に付くことで寝返るであろう、

? 朱雀ならわかるが、なぜ玄武が?」


 冬牙は突然話に上がった実家の名前に困惑を色を示す。ここで界雷が思い出すよう促したのは、年が明ける前の会合での出来事。


「冬牙殿は玄武の領地が厳しい寒さを超えるのにどれだけ掛かるか、勿論ご存知でしょう?」

「えぇ。年の末から年明けの六カ月です。例えそれを超えても油断は出来ませんが…」

「そうです。玄武がその時期を乗り越える為に必要な物は、充分に備蓄された食糧。…わかりますか?」


 そこまで言われてようやく界雷の言わんとしていることに辿り着いた冬牙はハッと顔を上げる。


「…まさか、今季は南から仕入れている食糧を人質に、玄武を寝返らせるつもりですか?」

「そんな仰々しいことをするつもりはない。だがこれがうまくいけば、四人の領主の内二人がこちら側に付かざるを得なくなる。そうすればいくら青帝殿といえど進軍を躊躇するだろう。なにより……」

?」


?」


 一人故郷の地を離れ顔馴染みなど誰一人いない中、権力闘争や妬みの多い宮中で界雷に次ぐ地位を自力で手に入れ、そして今度はその実家と敵対関係になろうとしている冬牙を気遣っての、界雷なりの優しさ。誰もが喜ぶような心遣いに、この世でたった一人喜ばない人物がいた。

 自分の策を話し終え漸く膳に箸を付ける様を見つめながら、冬牙は自分の空になった盃を覗き込むと、屋敷の女中を呼び出してある物を用意するよう命じた。それは冬牙が一番気に入っている酒だった。いつだったか冬牙に一度だけ聞いたことがあり、その酒は彼の故郷である執明領しつみょうりょうでのみ造られているもので、好物故に故郷の酒造から態々取り寄せているという程。その希少さが為、飲むのは祝い事の時などに限ると聞いていた界雷は首を傾げる。


「冬牙殿、それは確か貴殿が好きな酒だったはず…?」

「…えぇその通り。今日はまさに祝日、記念すべき日ですから奮発させていただきます」

「そ…ですか…」


 にこやかに微笑む冬牙の表情の裏に何か得体の知れない薄ら寒さを感じつつも、酒を用意した女中に界雷も空の盃を差し出す。続いて主人である冬牙の盃にも注ぎ終わると女中はその場から去った。その女中の顔にどこか見覚えがあるような気がしつつも、冬牙は盃を掲げ界雷に合図する。


「――陰陽国の永久の繁栄を願って」

「――…繁栄を願って」


 そう言って冬牙と同時に盃に口を付けた界雷。強い酒なのか舌が妙にぴりつく感覚に眉を顰めながら盃の中身それを飲み干した。飲み干したところで今後の動向について界雷が話始めようとした、その時だった。界雷の手にしていた盃が床に転がり、ガタン、と界雷の膳が大きく揺れた。盃に目を伏せていた冬牙が視線を上げれば、そこには片手で膳を掴みもう片方の手で自身の胸元をグッと押さえて苦しむ界雷の姿が映る。平和な食事の場にあるまじき姿に冬牙は動じることもなく、手にしていたを膳の上に置くと、静かな口調で“ある植物”について唐突に語り出す。


「――界雷殿は、北の地にはとある山菜に似た植物が自生していることはご存じですか?」

「っ…?」

「その植物はですね、北の厳しい環境で暮らす我々の好む山菜と似た見た目をしてながらも、その新芽には非常に危険な猛毒があるんですよ。口にすれば忽ち呼吸が困難になるとのこと」


 そこまで聞き界雷は呼吸がしづらい中、ようやく冬牙の意図を理解した。冬牙は今まさに界雷の身に起こっていることの原因について説明しているのだと。


「…勿論多量に摂取すれば命にだって関わる危険な植物です。主に北の地に自生しているので、界雷殿が知らないのは当然です」

「…っな、な、ぜ?」

? それは、貴方が私の“計画”を邪魔するからですよ」


 “計画”とは何の事かと聞きたそうにする界雷に、冬牙は上機嫌に自分の心の底にずと隠し続けてきた“闇”を語り出した。それは彼の腹の底で幼少期からずっと蜷局を巻きそこから這い出る瞬間ときを虎視眈々と狙っていた、ドロドロとした真っ黒い、“憤怒”であった。

 この時やはり赫夜の秘密を流したのは冬牙であったことを確信した。


「っや、やはり、殿下のうわさを、ながした…のは…っ」

「いいえ、その件に対しては私ではありません。まぁその噂を利用させてはもらいましたが」

「り…よう…?」

「私…いや、はずっと玄武あの家が憎かった。俺を顧みない。俺を評価しない。俺を…跡取りにしなかった、あの家がっ」


 普段の冷静沈着でどんな感情も表に出ることのない冬牙からは考えられない程の激情に歪んだ表情で、彼は自身の内に隠していたモノを吐き出した。



 ❖ ❖



 冬牙にとって最初の不幸は、軽率で愚かな母親の腹から生まれてしまったこと。当主の正室に選ばれ嫁いだものの、彼女の頭の中にあったのは、後継を産みその生母として揺るぎない権力を行使し、贅沢に暮らす事だけだった。母、帚木ハハキギの家は決して貧しかったわけではない。しかし彼女の余りある欲求は彼女が幼い頃から身についてしまった“習慣”のようなもので、父親が娘可愛さになんでも与えていたのが原因である。

 故に彼女は自身が産んだ冬牙に執着こそあれど、母親としての愛情など皆無だった。夫の愛も後継の生母という立場も、何もかもその手をすり抜けていった帚木は、冬牙が物心つく頃には既におかしくなっていた。朝から晩まで自室に籠り、夫に一度だけ贈られた高価な打掛を抱きしめながら永遠に何かを呟き続ける。痛々しくも哀れでどうしようもない母親の姿に、幼い冬牙は嫌悪すら覚えた。だがそんな状態がずっと続けば衰弱するのは必定。食事すらまともに摂ろうとしない帚木がやがて寝たきりとなった時、冬牙は何を思ったのか忘れてしまったが、毎日のように母親を見舞うようになった。自由の利かなくなった身体を横たえ、永遠に玄冬ゲントウの名前を呻き続ける母親の姿をただ眺めているだけの、無意味な時間。いい加減やめにしようと思っても何故か足は母親の自室へ向かう。何度訪れたところで母がこちらを見ることはないというのに。

 しかし帚木が亡くなる前日、二人の間に変化が起きた。

 いつものようにこちらを向かない母親の姿を見つめながら無為な時間を過ごしていると、剣術の師範が呼んでいると報せが入り冬牙が立ち上がろうとした時だった。『とうが』とか細く囁くような声が耳に木霊したのだ。聞き間違いかと慌てて顔を向けると、そこには久方ぶりをこちらの存在を認識した帚木が、真っ直ぐに冬牙を見つめていた。視線が合い暫しの間見つめ合ったのち、帚木はまた視線を天井に向け玄冬の名前を呟き始める。

 ほんの一瞬、まさに瞬きの間ではあったが母親と目が合ったことで、冬牙は初めて自分の本心に気づいた。例え彼女の出世の道具だったとしても、例え親子愛など皆無な存在だったとしても、自分は心のどこかでと。きっとこの母親の為ならいくらでも努力して、後継の座を奪うことだってできる。


 今からでもきっと、遅くない。



 しかし、現実は無情にも冬牙から母親を奪った。

 葬儀はとても簡素なもので、嫉妬から実妹に毒を盛った娘に対する実家の目は冷たく、その死に本気で涙していたのは冬牙と、その妹の真木柱マキバシラくらいのものだった。


 そして冬牙の次なる不幸は、父親に見向きもされなかったこと。

 生母を亡くし頼る者など殆どいない冬牙にとっての最後の砦は、母を狂わせた父――玄冬ゲントウ。例え後継に選んでくれなくても息子の一人として、努力すればきっとそれを評価してくれると、当時の冬牙は信じていた。

 だが、それはとある盗み聞きで呆気なく崩れ去った。

 帚木が亡くなったことで正室の座に空きができ、玄冬は事あるごとに妹の真木柱に継室にならないか、と誘いをかけていたことを冬牙は知っていた。その二人の会話を偶然聞いてしまったのだ。姉がいなくなったのに悲しくはないのか、と尤もな疑問を投げかける真木柱に玄冬は悪びれることもなく、帚木への雑言を語り始めた。「見た目は良かったが気が強く独占欲が強すぎた」、「正室たるもの、心が寛容でなくてはならない」など、べらべらと語る玄冬に冬牙が殴り掛かろうと飛び出そうとした瞬間、真木柱は冷たく言い放った。

「彼女は私の自慢の姉です。そんな姉を手放された玄冬様の目は随分と節穴でいらっしゃるようで。その節穴で私を後妻に相応しいと思われるのであれば、おやめになった方がよろしいかと」

 凡そ、仕える人間に対して放つような言葉ではなく、女に馬鹿にされた玄冬は顔を真っ赤に出て行った。それ以降彼女を継室にしようとする動きはなくなり、真木柱はその短い余生を息子と共に静かに過ごした。


 死して尚、母を愚弄する父に対して冬牙は遂にその信頼を無くした。この家に自身が信じるに足る人物などいない。精々真木柱の息子の樹雨キサメくらいだ。だからまず彼を家から追い出した、十六夜イザヨイの婿として。

 今あの家にいるのは死んだとてさして心の痛まない者たちだけ。

 ならば今こそ、母の無念を、自身の無念を、晴らす時なのだと。誰かが流した双子の噂を利用し、貴族どもを焚き付け、誰も烏兎に逆らうことなど出来ないことを、その側で操っているのが誰なのかを、玄冬やつに思い知らせてやる。



 ❖ ❖



 今まで誰にも打ち明けてこなかった胸の内を語る冬牙の言葉を界雷は朦朧とする意識の中で必死に聞き取った。含んだ毒はもう随分と身体の奥まで浸透し、狭まった呼吸で脳を動かすことだけに専念する。しかし手足の痺れは酷く、最初はしっかりしていた視界もぐにゃりと歪み始め、今では間近にあるはずの冬牙の表情すら認識出来ない。じわじわと毒に蝕まれていく中で、界雷は浅い呼吸を総動員して言葉を発する。


「……っ、は、で、では、わたしがいな、くなったら、貴殿が、すべてをとりしきる…と?」

「そうです。貴方がもっと積極的な方だったらこのような結末ではなかったかもしれませんが、そんな事を考えても詮無きこと。ここで死んでください、界雷殿」


 もはやその殺意を隠す気もない冬牙の言いように、界雷は助かる道などないと悟り静かに目を閉じた。


 もう十分に生きた。好きな勉学にも励み、両親の要望で右大臣にまで昇りつめ、十六夜イザヨイ様の忘形見の元服も見届けた。もう思い残すことはない……、はずだ。


 …


 ……


 ………


 いや、だめだ。まだ、まだ死なない。が、が、まだ…。こんな朴念仁の私を支えてくれた唯一の人、揺籃ヨウラン。そして彼女が私に授けてくれたただ一つの、小さな希望を、残しては逝けない…。

 まだ小さいんだ。難産で、他よりも小さく生まれた、大切な、大事な、我が子。そう、名前。名前は、私が付けた。


 ……、


『――貴方、何を惚けておりますの? どんな時にも冷静沈着な界雷殿がまぁなんとも情けない』


 …放っておけ。こんな小さな生き物、間近で見るのが初めてなだけだ。


『まぁ“生き物”だなんて言い方。貴方様の子ですよ。ほらどうぞ抱いてあげてくださいませ』


 …う、うむ。こ、こうか? 大丈夫か、これで間違ってないか?


『ふふ、そんなに慌てる貴方が見れたものこの子のお陰ですね。そうそう、名前はもう決まっていまして?』


 …あ、あぁ。性別がわからなかったのでな、どちらでも大丈夫な名前を一つ考えておいた。


『どのような名前ですの?』


 …“トモエ”だ。私の才能と、君の優しく美しい精神こころを受け継いだ人間になって欲しいという、願いを込めて。どうだ?


『素敵です。良い名をありがとうございます、寝ずに考えてくださったのでしょう? この子もきっと喜びます』


 …そ、そうか?


『えぇ、えぇ勿論。だってほら、この子貴方の腕の中で嬉しそうに笑っていますよ』



 今まで感じたことのないとても温かく、柔らかく、脆く、儚い、私達の大切な、宝物。

 そう、巴はもう大きくなった。私はあやつに託して来たのだ。


 もう大丈夫、


 だいじょうぶ……、



「………よ、うら、ん………、と、もえ…………―――――」



 呼吸が止まり静かに冷たくなっていく界雷を見下ろしながら、冬牙は呟いた。


「…存外、貴方もただの人間だったのですね」

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比翼の鳥が如し 瑠璃茉莉 すず @itomugiamu

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