第伍拾漆話 落日の玉座〈三〉
各領地がそれぞれ飼育する共通の伝書鳩は、大事に飼育されているものの実際に使われることはあまりない。何故なら伝書鳩の使用について、文書の内容が『最大の緊急性』を持たなければならないからである。ここ数年でも使われたのは一度きりであり、西の
そして今回、青龍城から一斉に飛ばされた伝書鳩はそれぞれの決められた領主のもとへ飛んでゆき、青林のしたためた文を各領主のもとへと届けた。
それを受け取った領主たちの反応は様々であり、中でも驚きよりも怒りを露わにしたのは、南の“
家臣から文を受け取るや否や、普段では考えられない程荒々しい口調で家臣に馬の用意をするように命じる。馬が用意出来次第今にも飛び出して行きそうな朱鷺を引き留めたのは、彼の正室である
「
「止めるな華月。今すぐあの阿呆を説教してやらねば!」
「一体如何致したのですか?」
「…青林からの文だ。あやつ、何を血迷ったのか陰陽国に宣戦布告して自領の陰陽国民を全員斬首したそうだ」
「あの誠実な
「何かの間違いだと思いたいが、この文は他の領主のもとにも届けられたらしい。冗談にしては手が込すぎている」
今し方届けられた青林からの衝撃的な文面に困惑と憤怒が湧き上がり収まる気配のない朱鷺は、一刻も早く青龍城へ向かおうと足を止めることはなかった。それに必死に追いつこうとする華月は、その足を止めるため息切れしながらも訴えかけた。
「殿! お気持ちはわかりますが、今城を空けられては困ります。私一人の力では、息子を娘を守りきれません!」
その訴えかける声にハッと振り返った朱鷺の目に飛び込んできたのは、袖の先を掴んで必死に止めようとする苦しげな様子の華月。浅い呼吸を繰り返し苦しそうに胸元を押さえる姿に、朱鷺は慌てて振り返り震える両肩を支えた。
「っすまない、少し取り乱した。大丈夫だから落ち着いて」
「はぁ、はぁ、申し訳、ありません。今日はだいじょうだと、思ったのですが…」
「先日まで臥せっていたのだから当然だ。少し休まなければ」
そう言って華月の両肩を抱きながらすぐ側の今は使われていない座敷に誘導した。中は使われてないとはいえ使用人たちによる掃除の行き届いた綺麗な状態が保たれており、調度品一つない薄暗い座敷に勿論華月を寝かせられるような寝具などあるはずもなく、代わりに朱鷺は自身の羽織を彼女の肩に掛けた。少し休んだおかげか呼吸が整ってきた華月は申し訳なさげにお礼を告げる。
「…ありがとうございます。こんな自分の身体が恨めしい、そのせいで
「大丈夫だ、あの二人も君が元気でいてくれることの方が喜ぶ。それに遊び相手の
未だ心配の拭えない華月に朱鷺は先日見かけた二人の姿を語って聞かせた。
それは屋敷の庭をふと見つめた時だった。そこには年の差が十程もある朱槿が歩き始めて間もない朱華と歩幅を合わせながら庭を散策する微笑ましい姿があった。それを思い浮かべて華月はようやく不安げだった表情が少し和らいだ。
「ふふっ、いつの間にやらご立派になられましたね。すっかり背も追い抜かれてしまいましたもの。初めてお会いした時なんて、まだほんの小さな子供でしたのに」
「そうだな、あと数年もしないうちに、家督も継げる歳になる。子供の成長とは早いものだ」
家督の話になり突然華月が顔色を悪くした。思い当たる節は朱鷺にもあり、宥めるように華月の背中を摩る。
「でも殿、いくら成長したとしてもあの子はまだ子供、私達が守ってあげなければなりません。“彼らから”」
「…そうだな。父の代に頭角を現し、その勢いは留まることを知らない、“
それは二人にとって目の上のたんこぶに等しい存在であり、ここ近年台頭が著しい朱雀城の重臣“
朱鷺の祖父“
『すまない、ほんとにすまないな、朱鷺。わたしが不甲斐ないばかりに、お前の未来に、“負の遺産”にも等しいものをのこす結果となってしまった…』
『…いえ父上、お気になさらないでください。父上一人の責任ではございません、父上が病弱なのを理由に放っておいたお
『朱鷺、自分の母親を悪く言ってはいけないよ。わたしの母もわたしのせいで父に散々罵られ、最期には自ら命を絶ってしまった。今でも申し訳なく思っている。だから、お前は何があっても自分の母を貶してはいけない』
『っ…でも悔しいです。元々は鵺の
『いや、おそらく彼女はもうこの世にはいないだろう。消されたのだ、跡継ぎの実母としての権威を恐れて。彼女も、お前も、みんな被害者だ』
『お前には今後苦労をかけるだろう。それをどうしてやることもできないのは歯痒いが、お前は要領がいい、きっと大丈夫だ。でももし、どうしても心が折れそうなった時は、お前の愛する家族を頼りなさい』
『俺の家族は、父上だけです』
『いいや。お前はいつか、自分が一番に信頼できる
そう遺言を残し、
「父の言った通り、私はお前と出会って子供達にも恵まれた。三人が心の支えであると同時に、私が生きる意味でもある。父が果たせなかった悲願、“朱雀の権威を取り戻す”のは必ず私の代だ。
亡き父の悔しい想いと、息子への愛情から生まれた約束を固く誓うように華月の肩を強く抱きしめる手に、そっと華月の手が重なった。
暫しの間、お互いの体温を感じながらじっとしていると、唐突に二人のいる座敷の襖が開かれた。
「――父上! どこですか!?」
「あうぁー」
襖を開いたのは朱鷺の姿を探しに来た朱槿と、その腕に抱かれた幼い
絶対に何か大きな勘違いをしたであろう息子と、朱鷺は暫くの間追いかけっこしたのだった。
❖ ❖
同時刻。
北方・
朱雀城にもたらされた物とまったく同じ文面の文を受け取った
玄冬の実子たちに囲まれて尚、冷静な未来の娘婿は余裕の滲んだ笑みを湛えながら玄冬に質問する。
「御用件はなんでしょうか。子息全員お呼びしたということは、只事ではないのでしょうか?」
「
「まぁお兄様! 失礼ですわ」
「…っはは。流石は
「な…っ」
意地の悪い幽玄の言葉をうまく返した紅鏡に怒鳴りかかろうとするのを玄冬が「静まれ」の一言で一喝した。
厳格な当主の喝に全員口を閉ざすと、話の切り口に悩んでいた玄冬がようやく口を開いた。
「今日集まってもらったのは他でも無い、この文についてだ」
玄冬は今し方届いた青林からの文を広げ、幽玄らにその内容を提示した。各々に黙読した後、大声を上げて笑ったのは幽玄。
「こりゃ傑作だ! あれだけ烏兎への忠義を語ってた
「笑い事ではない! 今ワシらの立場は烏兎と同じくらいに危ういのだ」
「どういうことでしょう、父上?」
他人事だと笑う幽玄の隣で、弟の真冬が冷静に質問する。
「真冬よ、今の烏兎の父は誰か知っているか?」
「勿論。
「そして、陰陽国の今の左大臣は?」
「それは
玄冬によって紐解かれたことで、真冬は聡明な頭で父の言わんとしていることを瞬時に理解した。しかし頭を使っていない幽玄と、箱入り娘の明珠は首を傾げるばかりで、父の意図を汲めずにいた。そんな許嫁に紅鏡が助け舟を出した。
「明珠様、つまりこの反乱において我々は敵側に二人も血縁者がいることになります。それはつまり、曖昧な行動を取れば、他の領主たちから裏切りを疑われ、最悪の場合敵に回ることになってしまうんです」
「…まぁ!? なるほどそういうことなんですね、さすが紅鏡様ですわ」
「いえいえ、姫様の飲み込みがお早いおかげです」
政に疎い明珠にもわかりやすく噛み砕いた言い回しで説明した紅鏡の話を聞き、幽玄はそんなことかと鼻で笑う。
「はっ、何を悩んでるかと思えばそんな事。そんなの、陰陽国側に付けばいい話だろ」
何も考えていない幽玄があっけらかんという言葉に全員顔を突き合わせ、深々と溜め息をついた。次期当主だというのに浅慮が過ぎる嫡男に対し、親の顔が見てみたい、と思いながら父である玄冬は頭を抱える。
「はぁ…、事がそんな簡単なら態々お前達をここに呼び出したりせん。そんなことさえわからんのか」
「あぁ? なんだよ、なんか問題あるのか?」
「もし仮に、陰陽国側に非があったとしたら責めを受けるのは烏兎だけではない。それに加担した我々も糾弾されるだろう。その可能性を考えると、安易には決められん」
「では
紅鏡が指摘した“例の噂”とは勿論、
「まさか、あの
「可能性は十分にあるかと。このような大事、左大臣である冬牙殿が知らないはずはありません。全てが玄武一族の為だったとしても、当主たる殿に一言もないのは不自然でございます」
冬牙の行動で不自然な点を的確にいくつも挙げていく紅鏡に、肘をついて暇そうにしていた幽玄が鼻で笑う。
「っは。よっぽど
「“あの事”ってなんですか、
「お前知らないのか? 数年前、紅鏡が親父に気に入られて
「えぇ?!」
「……」
紅鏡と明珠の婚約の時期を知らない真冬は驚きの声を上げ、それを聞いていたであろう紅鏡は眉一つ動かさず柔和な笑みを浮かべたまま黙った。
事情を知らない真冬に、幽玄は面白おかしく説明を続ける。
「あれはよぉ、
「冬牙兄上は文でなんと?」
「あー…、確か、“いくら優秀な人材とはいえ玄武の正統な血を引く明珠の婿には、然るべき身分から選出すべきだ”とかなんとか。まぁ要は、明珠を自分の“手駒”にしたかっただけじゃないのかって、俺は思ってるわけよ」
「“手駒”ですか?」
「おうよ。明珠の歳なら
まぁ失敗に終わったけどな、と締めくくりに大笑いする幽玄に、二人の仲の悪さが伺えた。幽玄の言う通り、冬牙の主張は通ることはなく、玄冬の確固たる意思によって紅鏡は見事、明珠の婿の地位を勝ち取った。
一度は千載一遇を
「まさか。冬牙様の主張は一族を思えばこそ、最もでございました。私とて、もし明珠様との間に娘ができれば、父親としてその相手を素直に受け入れられるかどうか…」
「まぁ紅鏡様、気が早いですわ!」
「故に、私が冬牙様を恨むことなどあり得ません。これは、一個人として玄冬様に可能性を申し上げているに過ぎません」
紅鏡の主張が果たして本心か否か、それを聞こうにも隣の明珠が恥じらいながら腕を絡めているため、流石の幽玄も口を閉ざした。
しかし婿入りしたとて嫡子である冬牙のことを疑えない玄冬が頭を抱えていると、いつの間にか近づいて来ていた騒がしい足音に、全員が襖へと振り返った。そして大袈裟な足音は襖の前で止まり、静まり返ったと思った瞬間、またもや大袈裟に襖は開け放たれた。全員の視線を浴びる襖の向こうに立っていたのは、この集会に一切呼ばれることのなかった
彼の顔を見た瞬間、あからさまに玄冬は眉を顰めた。
「…なんだお前か。騒がしいぞ、あっちへ行ってろ」
「兄上! それどころではありませんぞっ」
重大報告です、と啖呵を切った款冬を全く信用していない玄冬はそれを一切取り合わず尚、追い出そうと手を振る。
「何が重大報告だ、どうせまた好みの
「違いますよ。今回は本当にっ、重大なんですよ!!」
「……はぁ、なら申してみよ」
「っ先程、“疫病”が流行っていると噂の北西の農村に出向いた者が帰還したのですが、その者の話によるとその村、噂が流れてひと月も経たずに全滅していたそうです…」
「…なに村が? 村人の生存者は?」
「……いません。一人残らず、
予想だにしていなかった報告に全員が息を呑む中、ただ一人震えた声で村について確認したのは明珠。
「まって…、おまちください、叔父上様。どこの…村と、おっしゃいましたか?」
「む。北西の小さな農村だ、あの辺りは山が多く農村はそこだけのはずだから、たった一つしかない唯一の農村で疫病が流行ったらしい」
北西の山に囲まれた小さな農村。そして地形の影響で周りに他の集落はない。
それを聞いた明珠は顔色を真っ青に染め、震える指先で紅鏡の袖に縋った。尋常ではない様子に玄冬は訝しげに聞く。
「どうした、明珠。顔色が浮かぬぞ?」
「お、お父様。わ、わたくし、今女中が一人、里帰りでいませんの…」
「ほう、そうなのか」
「そ、の女中、
「なんと?!」
明珠の話を聞き紅鏡は合点がいった。
少し前明珠本人から、馴染みの女中が一人帰郷していると聞いていた。その女中――
その女中の両親の状態と、今回全滅したという村人の有様は見事に一致していた。
「叔父上さまっ、ほんとに、誰もいませんでしたの? ハナブサは…、幼い頃からずっといっしょにいた、英は…っ」
真っ青な顔で一筋の希望に縋るように袖を掴む明珠に、款冬は一言「すまぬ」とだけ返した。その意図するところを察した明珠はその場で人目を気にすることなく泣き崩れた。そんな明珠に優しく寄り添い肩を貸しながら、紅鏡は玄冬に再度追及する。
「――玄冬様、事ここに至りまして最早我々の面子の問題だけではなくなりました。ご決断されないのであれば、このまま犠牲になるのは民でございます。それによる我々の損失は“民からの信頼の喪失”でございます」
「っうむ…」
「玄冬様、御決断を」
紅鏡の強い後押しを受け揺らぐ玄冬に、村壊滅の報告を受けた幽玄らも危機感を覚え、後押しするように見据えた。その場にいる全員の注目を浴びながら、玄冬は深々と深呼吸すると自身の決断を告げる。
「―――款冬、文をもて。青帝に助力を許諾するとお伝え申し上げる」
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