二十六人目の俺だけのヒーロー

木古おうみ

二十六人目の俺だけのヒーロー

「小さい頃、父親がビデオを持っていたバットマンが好きでさ。中のテープが擦り切れるほど……いや、今の子には伝わらないかな。とにかく毎日観てたんだ。ある日、親父がリビングに飛び込んできて、『ちょうどもうすぐ新しいバットマンの映画がやるぞ』って……それからはもう夜も眠れずに待ち続けて、やっと来た公開日に劇場に連れて行ってもらったよ」



 マスクの代わりに黄斑の浮いたセロファンのように薄い皮を貼り付けた顔面と、ボディスーツの代わりに浅葱色の病院服を守ったヒーローが笑う。

 枯れ木のような身体の半分は分厚い布団で隠されていて、押し潰されていないかと思う。


「それで?」

 俺はヒーローの布団の下から伸びる、尿と血が溜まったパックの折れ曲がったチューブを治しながら聞いた。

「泣いたよ」

「感動したから?」

「違う」

 ヒーローは首を振った。


「怖くてだよ。『こんなのバットマンじゃない、全然違うひとだ』って。父親に呆れられたよ。そう、顔が違ったんだ」

 ヒーローは細い指で恥ずかしそうに額を掻いた。


「そりゃそうだ。あの頃はもう最初に演ってた俳優は年だったし、監督も違う。当然世代交代だし、大人になってから観返したら悪くない。でも、当時の僕にはさ、バットマンって言ったらあのマイケル・キートンしかいなかったんだ」

「確かに、クリスチャン・ベールとは似てないな」

「本当にね」



 沈黙が流れると、点滴の垂れる音だけがやけに響く。

「好きかい? バットマン」

「俺は……まあ、ダークナイトは好きだった」

「よくできていたよね。でも、少し暗い話だった」



 そう言って、ヒーローは痩せた首の筋を浮き彫りにして窓の外を眺めた。

 無彩色に一滴だけ藍を垂らしたようなぼやけた空には煙がたなびいていた。


「この街に映画館はまだあるのかな」

 窓に触れるとわずかな振動が伝わる。遠くで起こった爆発の残響だ。

「昔、燃え落ちるシアターに飛び込んで行ったことがある。もう少し時間があればまたあんな風に戦えるのに……」

 ヒーローはベッドに身を横たえる。限界が近いのだろう。



 突如現れた未知の脅威からこの世界を守り続ける正義のヒーロー。

 ビルが倒壊しようと、飛行機が燃え尽きようと、唯一ひとびとが普遍的に信じられる存在。


 いつまでも変わらないヒーローは、今枕に横顔を埋めている彼で二十六人目だ。普遍などありはしない。



「もうすぐ博士が来るからね。気難しいけど根は優しいし、助手をやってる娘さんもまだ若いけど腕は確かだから安心していい。そうしたら、トーレスの時間だ……」

 ヒーローは掠れた吐息混じり言った。


 普遍などありはしない。それでも、あるように見せかけられるのは、主演俳優が何回代わろうとシリーズは存続するヒーロー映画と同じ。

 つまり、代替わりだ。

 ヒーローとしての力とそれを扱うのに足る人格を古い身体から写し取り、新しい身体にペーストする。

 鮮明なコピーなら既に原本が破り捨てられて摩り替わっていても他人は気づかない。



「最初は怖いだろうし、混乱するけど、すぐに慣れるよ。みんな案外気づかない。マスクで顔が隠れるし、みんなが見てるのは僕でも君でもなくヒーローだから……心配しなくていい……」

 薄く閉じた目蓋が痙攣していた。

「ずっと他人のことばっかり気にするんだな」

 俺はベッド脇のパイプ椅子の上で脚を組んだ。


「本物のヒーローだよ」

 嫌味だったのか本心だったのか自分でもわからない。返った苦笑もどう受け取った返答がわからなかった。

「だといいな……映画に憧れて始めたことだから、俗っぽくて恥ずかしいんだけど……」



 また爆発の音がした。

「君は何で、僕の後継者に?」

 俺は曖昧に目を逸らした。

「俺も映画が好きだった。ジョーカーとかウォッチメンとか」

「ヒーローが酷い目に遭うのばっかりじゃないか」

 ヒーローは笑って二度噎せてから濡れた眦を俺に向けた。


「映画館には今もよく行く? ヒーローをやってるとちょっと行き辛くなるかもしれない……」

「大丈夫だ。十六のとき、一緒に行った同級生ごとシアターが吹っ飛んでから行かなくなった」

 ヒーローは目を見開いた。


「ごめん……」

 静脈に指のように太いチューブを刺されたときより痛そうな顔だ。


「俺も瓦礫に潰されたまま焼け死ぬはずだったけど、そうならなかった」

 俺はリノリウムの床に落ちる照明の影を見下ろした。

「画面の中じゃなく外にヒーローがいたからな」


 目を逸らしたままだから、ヒーローがどんな顔をしたかはわからない。ただ安堵の色が混じった湿った息が漏れたのが聞こえた。



 灰色の窓の下、一台の黒いバンが止まり、白衣の老人と鞄を持った少女が現れた。


「そろそろかな。もっと話したかったけど」

 ヒーローは枕に頭を預け直した。


「トレースをするとね、初代から二十五代目までの記憶が一斉に流れ込んでくるんだ。洗濯機の中みたいにぐるぐる回って洗い流されて、乾燥が終わる頃にはすっかり別の色に染め直されてるみたいに。自分が元々こうだったかヒーローとしての人格なのかわからなくなる」

 点滴がぽたりと落ちた。

「でも、新しいバットマンを観て泣いて帰ったヒーローなんか他にいなかった。それだけは、僕が僕でいた証拠だ」



 俺は顔を上げた。俺が俺自身の目で見るヒーローは今この瞬間が最後だ。次はもう、ヒーローと昔そうだった男になっている。

「ヒーローがずっと人間を救い続けていても、俺を救ったのは二十六代目だけだ」

 青黒く変色した目蓋が優しく歪んで、ヒーローらしい笑みを作った。



 もうすぐ二十六人分の記憶が俺に流れ込む。ヒーローだった何人もの記憶が。

 俺は目を閉じる。俺をヒーローに作り変える奔流の中で、映画館から泣きながら出てきたただの子どもに会うために。

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