やっぱりね、ヒーロー

飯田太朗

急げ! 

 息が荒い。

 肺が破裂しそう。でも。

 人を呼ばなきゃ。誰かを呼ばなきゃ。

 子供たちが叫ぶ。パニックだ。

 苦しくて、泣きそうにる。

 頭の中にちらつく、さっきの光景。


「人を呼んで! 急げ!」


 比呂くんの声が耳に響く。私がどうにかしなきゃ。私がどうにかしなきゃ。


 *


 比呂くんが剣道をできなくなったのは中二の頃。

 くも膜下嚢胞と呼ばれるものが脳にあったらしい。

 簡単に言うと脳みそに空洞があったそうだ。発達上の問題や、脳機能の問題はないようなので、経過観察でいい。最初はそう言われていたらしい。

 けれどある試合で、面を受けた比呂くんが失神した。

 緊急搬送された比呂くんを待っていたのは、くも膜下嚢胞破裂による脳出血。稀にあるそうだ。くも膜下嚢胞を抱えた選手が、接触の激しいスポーツコンタクトスポーツの結果脳出血するというのは。

 この怪我で、比呂くんは体が麻痺するようになった。

 舌も痺れて、最初は物を上手く飲み込むことやしゃべることも難しかった。ペンを持つのも難しくて勉強にも難儀していた。歩くこともままならないし着替えも一人ではできなかった。

 でも比呂くんは頑張った。リハビリも懸命にしたし、勉強だって誰より頑張って、無事に高校に入学できた。志望校をひとつ落とすことになったけど、でも、めげずに頑張って、松葉杖を使わないと歩けない体になったけど、残りの中学生活でも部活の仲間の応援を誰よりも熱くやって……。

 彼は本当に眩しかった。私は彼を目標に人生を歩むことができた。なのに……なのに……。


 *


「僕じゃ走れない! 春香が行くんだ! 早く!」


 ある日の学校帰り。

 私と比呂くんは同じ高校に通っていた。比呂くんと家が近い私は毎日比呂くんに付き添って登下校していた。

 その日も何ということないおしゃべりをしながら駅の裏側、ちょっと人通りが少なくて寂しい場所に着いた。多分、塾か何かに通っていたのだろう。小学生の女の子と男の子が二人、青いリュックを背負って立っていた。身長的に女の子の方がお姉ちゃんかな。親の車を待っているらしく、車道の彼方を見つめて、寂しそうにしていた。私たちはその傍を通りかかった。事件はその時起きた。


「危ない!」


 いきなり比呂くんが叫んだ。かと思うと次の瞬間、私たちの正面から向かってきていた男性がこっちに突進してきた。私が突き飛ばされるのと、子供たちが抱き寄せられるのとはほぼ同時だった。比呂くんがやったのだ。

 ようやく私が事態を飲み込んだ時には、比呂くんが膝をついて、その後ろで子供たちが地に伏していて、そしてそのさらにその後ろで倒れた私がぽかんとしている、そんな構図が出来上がっていた。正面にいた男性の手にあったものは……きらりと光っていた。

 比呂くんが叫んだ。


「人を呼んで!」


 比呂くんを見る。松葉杖を握りしめ、立ち上がった。


「ここは僕が何とかする! 子供たちを連れて、早く……」


 言われるまま私は立ち上がって子供たち二人を助け起こした。同じタイミングで、男が比呂くんに襲い掛かった。

 唸り声。比呂くんは杖を振り回して何とか応戦するけど、五体が満足に動く武器を持った男性と比呂くんとじゃ結果が見えている。私は迷った。私が……私が何とか……。


「人を呼んで! 急げ!」

 続けて言われる。

「僕じゃ走れない! 春香が行くんだ! 早く!」


 子供たちがパニックで泣き叫ぶ。でも私は二人の背中を押すと懸命に走り出した。恐怖で呼吸が浅い。駅までの距離が死ぬほど遠く感じた。けれど何とか辿り着いて階段を駆け上がり……子供たちは一歩が小さいからもどかしい……ようやく改札の近くに着くと、駅員さんを呼んで、事情を説明した。私はすぐにでも比呂くんを助けに行ってほしかったのに、駅員さんはまず電話を取って警察を呼んだ……それは正しい判断なのだけれど、私にはひどく悠長に感じられた。

 駅員さんが警察と話している。駄目だ、行かなきゃ。私は駆け出した。このままじゃ比呂くんが死んじゃう。このままじゃ比呂くんが死んじゃう。だって彼は体が動かないし、相手は武器を持った男性だしどう考えたって無事なわけが……ああ、だめだ。涙が出てきた……どうしよう、どうしよう、比呂くんが死んじゃったら。

 そして現場に戻った私が見たのは、地面に蹲る、肩から血を流した比呂くんだった。男はいない。世界が真っ暗になる。そんな、そんな……。私は比呂くんに駆け寄る。

「比呂くん!」

 泣きそうだった。いや、泣いていた。比呂くんの体に抱きつく。温かい。まだ温かい……。


「春香」


 比呂くんが振り返る。肩に傷。ワイシャツに血が染みている。でも、でも……。


「生きててよかった……!」

 私は涙でぐちゃぐちゃの顔を比呂くんに押し付ける。比呂くんが笑う。


「大丈夫だよ。大袈裟だな」


 無事に追い払ったよ。比呂くんの傍を見ると、刃物と、傷がついた松葉杖とがあった。比呂くんがつぶやいた。


「松葉杖でも小手は打てたよ」


 踏み込みはできないけどさ。

 笑う比呂くんに私は再び抱きついた。もう本当に頭がどうにかなりそうで、私はさっきの子供たちみたいに泣いた。そんな私の頭を、比呂くんは丁寧に撫でてくれた。

 四月が終わろうとしている頃で、桜ももう散っていた。



 その後、私たちを襲った不審者は無事逮捕されることとなった。子供たちを守った比呂くんは警察から表彰を受け、近隣住民の間ではちょっと有名な高校生になった。半身麻痺でも子供たちを守ったヒーロー。でもね、そう、彼は私にとっては、昔からずっとヒーローだった。

 彼が助けた子供の内、男の子の方は何か感じ入るところがあったのだろう。無事に事が済んだ後、比呂くんのところに行ってこう訊ねていた。

「お兄ちゃんみたいなヒーローになりたい! どうやったらなれる?」

 すると比呂くんは、よく食べてよく寝て、勉強も遊びも一生懸命やることだ、と笑った。すると隣にいた女の子の方が、多分賢い子なのだろう、「ヒーローってどんな人ですか?」と訊いてきた。比呂くんは答えた。


「正しい時に正しいことを正しく行える人のことだ」


 そうだ、やっぱりね、ずっとそうだった。

 部活で苦しい時も。

 勉強を頑張っている時も。

 怪我をして、ハンデを負った時も。

 いつだって彼は、正しい時に正しいことを正しく行っていた。


 表彰があったのは五月の連休中で、学校でも朝礼で表彰することが決まった。

 私の朝は、彼の家の前で、靴を履くのに難儀している彼を見るところから始まる。この日は普段履いているスポーツシューズじゃなくて、学校指定のローファーを履くことになっていたから、いつもより余計にやりにくいらしかった。春香、手伝ってくれるか、と言われた。私は彼を手伝った。


「いつも悪いな」


 ううん、と私は首を振った。彼も背筋が伸びているからだろうか、この日の彼を見上げる角度は、いつもより高い気がした。


 了

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