舞台で「生まれる」【KAC20227】

蜜柑桜

舞台人の別れと出会い

「失礼だね。顔も手も、ちゃんと洗ってきたよ」


「イライザか……私のスリッパは、どこにある?」


 台詞の残響が消える。照明が落ちる。喝采の拍手が巻き起こる。幕が落ちる。客席が明るくなる。そして——

 幕前に出てのカーテンコール。登場人物である私たちは深く頭を下げる。

 再び顔を上げた時、私たちが一体となった登場人物は、もう私たちから去っていった。





 終演後は慌ただしい。舞台袖の大道具小道具衣装を担ぎ上げ、客席のざわめきを緞帳の向こうに聴きながら上手から下手まで走り回って盆の掃除。ようやく撤収して楽屋に戻った時には、舞台上では無意識下になっていた疲労がどっと押し寄せる。心地よいけれども、どこか不思議と混じる寂寥感。


「係のある子たちは写真もそこそこにして衣装から着替えてね! 怒られるから絶対、衣装で校内、動き回らないこと!」


 女子高校の規律を守らないと部活に損害が出る。「はーい」と聞いてるんだか聞いてないんだかわからない返事に「破ったら次の役ないからね!」と部長が一喝した。私は早々に紺のプリーツスカートを引き寄せ、レトロな娘のブラウスを脱ぎ捨てる。

 制服に着替えて、ひとつひとつ舞台から引き上げてきた衣装を畳んでいく。

 一九一一年、貧民層の小娘のつぎはぎだらけのエプロンスカート、ベル・エポック時代のロンドン令嬢の小洒落た普段着、それから作品の目印にもなっているモノトーンのスレンダーなドレスと大ぶりな帽子、そして女王陛下の前でも恥じない艶めいたドレス。

 この半年間、衣装役の部員と相談して私用に仕立て、何回も袖を通して稽古した衣装たち。

 ひとつひとつが愛しくて、手放すのが惜しい。


「涼子」

「めぐみ。あれ、めぐみも係?」


 呼びかけに振り向くと、同級生のめぐみも既に制服でそこに立っていた。白ブラウスにグレーのニットベスト、紺のスカートは腿が出るまで折り上げ、スラリとした長い足が覗いている。バリバリの女子高生ルックからは、さっきまでヒロインのイライザに恋焦がれていた良家の青年フレディなど想像もつかない。


「委員会の仕事あるからね。部室戻るんでしょ。あたしも行く」

「ちょっと待って。これまとめて持ってくから」


 楽屋はまだ熱気がこもっており、あちらこちらからシャッター音が聞こえる。舞台から降りて鼓膜にまだ違和感を感じる中、私とめぐみは三年生の先輩に挨拶を告げて喧騒を背に楽屋を後にした。


「なーんか終わるとあっという間だったなって思っちゃうよね。半年間、長かったのに、もう終わりかって」

「ホント。半年だとは思えないくらい濃すぎ」

「フレディとは半年の付き合いだったのにな。なんだか自分の一部だわ」

「めぐみは女役も男役も行ったり来たりだから凄いよ。一年で娘役で二年でフレディって」


 女子校の中ではありがちだが、見事フレディを演じ切っためぐみのカッコ良さは練習の段階からものすごい評判だった。廊下での練習時には学年を問わずギャラリーが集まって黄色い声が飛び、文化祭初日の昨日の本番後にはフレディと写真希望の生徒が楽屋に詰めかけていたっけ。今もなお、廊下を歩きながらあちこちから聞こえるフレディ・コールに応えている。


「涼子のイライザもハマり役だったと思うよ」

「ありがと。でももう、イライザのことを一日中考える日は無いんだろうな」

「一日中! そだね。あたしもないわ、こんなヘタレと一日中一心同体になる日は」


 冗談めいた発言を本気のように言い、めぐみはわざと舞台上で演じたフレディのキリリとした顔を作ってみせた。それを見ると吹き出してしまう。

 でも、ここで吹き出すあたり、もう私は「涼子わたし」なのだ。イライザならフレディを前にこんな対応はしない。

 イライザはもう、「涼子わたし」の中から去っていったのだ。


「なんだか、終わるとさ、やっぱりちょっと寂しいかな。もうこの衣装も着ないし、それに……」


 めぐみが首を傾げ、すっかり女子高生の顔に戻ってこちらを見遣る。私はモノトーンのドレスの襟をさっと撫で、それから黒のラインを丁寧に指でなぞった。


「イライザをやることはこれっきりだろうから。私、受験だからもう秋風祭は今年で引退するし、大学で舞台続けるかわかんないし」


 春に役が決まって、台本を受け取って、部活の間も休憩中も、家でも通学路でも、どこでもイライザのことを考えていた。演劇系の部活は学内の舞台好きの生徒教師に広く役名が知れ渡る。部の皆はもちろん、クラスメイトからも一部の先生からもイライザと呼ばれた半年間。

 でも、イライザとはこれっきり。さっき舞台上で緞帳が降りたのを最後に、私はイライザと最後のお別れをしたのだ。

 一つの舞台を終えた時にはいつも感じる。体の隅から隅まで満たされた充実感を伴う心地よい疲労感と、それと同時にじわじわ広がる寂寥感。


「こう、演目が一つ終わるってさ、役と今生の別れだよね」


 満足と寂しさが一緒になった、あの独特の感覚。それがいま、全身全霊を重ねたイライザがいなくなった私の中に広がっている。

 パタパタと廊下に上履きの音が響く。しばらくそれを聞いていたら、横でめぐみが胸元のリボンを直しながら、「そっかなぁ」と呟いた。


「まあ確かに涼子がイライザやるのは今日で最後かもしれないけど」


 フレディが消えためぐみのアルトボイスは、舞台にいる時よりやや高く、すっかり十七歳の少女だ。


「でもあたしはこの後、どの舞台でイライザ見ても涼子を思い出すと思うよ。嫌でも思い出すわ。あたしを外で何時間も待たせたあんたをね」

「何それ、ひっど!」

「えーだってそうじゃん? 役とは別れてもさ、どうしても残るじゃん」

「その思い出し方は無いでしょー。プロの舞台見てもそう思う?」

「思う思う。絶対思う。しょうがないよ、あたしだってヘタレと半年も付き合う羽目になったんだから」


 そう聞くと、考えるまでもなく頷けた。アマチュアだろうと関係ない。半年間、私たちはあまりにイライザとフレディになりすぎた。

 そもそも舞台から降りて衣装を脱いで、「別れ」と思うこと自体、彼らが身近すぎた証拠だった。



 廊下はもうホール棟を過ぎて高校棟と中学棟の分かれ道まで来ていた。窓の外からチア・リーディングの野外ダンスの音楽と活気あるかけ声が聞こえ、先に見える教室の前では手芸部がフリーマーケットの呼び込みをしているのが見える。

 野外舞台へ向かって下がる煉瓦造りの客席が、秋の陽光に照らされ眩しい橙色を呈している。文化祭はもう終盤。あと数時間で後夜祭の準備だ。この余韻に浸れるのも、祭が終わるまでのこと。



「歓送迎会は何やろっかね」

「気が早いな」

「うかうかしてられんでしょ」


 三年生を送り出すのに一年生を鍛えるのは私たちだ。片付けが終わった明後日からもう、次の演目決めに入らなけらばならない。そうしたら裏方役割分担とオーディション。次の役が決まる。

 めぐみがガッツポーズを取った。


「マイ・フェア、引きずってらんないよ。早速もう次の役との出会いですよ」

「出会い、か」

「そうよ。だから面白いんじゃない、演劇は。一人の『あたし』が何人ものあたしに会えるんだよ」


 確かにそうかもしれない。

 演劇は、演じる役者が同じでも、役が違えば違う人だ。違う人にならなければいけない。

 新しい「人」に出会って、その「人」になって、一体になったと思ったら別れて、また新しい「人」に会う。


「イライザとすっかり完全に別れないと、次の役になりきれないぞ」

「仰る通り。さすが女も男もやる人間はいうことが違うわ」

「なんとでもお言いなさいな。ズボン役ができるのは女子校の特権ですのよ」


 今度はめぐみの口調がピアース夫人さながらの上品なものになる。こうやって一つの役を脱ぎ、次の役に入っていくのだ。


 だから面白いのかもしれない。一人で何人もの人と、何度も何度も出会いと別れを繰り返す。

 でもめぐみの言う通り、一つ一つが私であって、この先もまた舞台をみたら記憶の中で出会うのだろう。今日までのイライザの私に。

 出会いと別れ。その繰り返し。

 今日を最後に別れたら、次に会うのはどんな「私」だろう。



 文化祭が終わるまで、あと残り時間は数えるほど。

 次に迎える「人」を前に、しばらくはまだ、うっすら私の中に残るイライザとの時間を大事にしたい。


 胸元で、衣装の帽子の羽根が揺れる。

 胸に押し当てたドレスの感触を、私はいつまでもきっと忘れない。




 ***了***



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

舞台で「生まれる」【KAC20227】 蜜柑桜 @Mican-Sakura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ