特別なひと

芦原瑞祥

出会いと別れ

「出会いと別れが明確な関係は、特別なんだよ。よくも悪くも」


 大学の新歓コンパの席で、あの人はそう言った。


 先輩たちからビールを勧められて困っている私に、「ダメダメ、未成年に飲ませる酒があるなら僕に寄こせよ」と笑顔で場をおさめてくれた、二歳年上のあの人。また酔っ払いに絡まれないようにと、しばらく私の隣に座って話してくれた、そのときの言葉だ。


 確かに、出会いと別れは、どちらかが曖昧なことが多い。

 友人知人は、区切りらしいものはあってもひょんなことでまた接点を持つようになるから、別れらしい別れがない。年上の身内は物心づいたときから存在していて、「出会い」を覚えていない。


「あり得るのは、恋愛とか、絶交とか、死別。……確かに、特別っぽいですね」


 新歓コンパをきっかけにあの人と私は親しくなり、いつしか付き合うようになった。サークル内での恋愛は特に禁止されておらず、冷たい目を向けられることも騒がれることもなく、「この二人はペア」と周りから自然に受け入れられていた。


 理詰めで物事を考えるくせにロマンチストな側面もあるあの人は、二人が出会った日を記念日として、私の携帯電話のスケジュールにも登録させた。付き合い始めた記念日よりも、あの人にとってはこちらが重要だったらしい。


「一周年は二人でお祝いしようね」

 そう言っていたのに。


 一周年を待たずして、あの人はバイクの事故で死んでしまった。寒の戻りの激しい日だった。


 LINEが既読にならないことにずっとやきもきしていた私は、サークルのリーダーからかかってきた電話に、呆然となった。思考能力がすべて奪われ、視界に真っ白な紗が降りてきて、電話の声もそれ以上聞こえなくなってしまった。


 リーダーがサークル一同での供花と弔電を手配し、みんなでお通夜に参列した。まるでどこか遠くからテレビの映像でも見ているように、私には実感がなかった。仲のいい同期に肩を支えられながら、震える手でなんとか焼香をした。


 翌日の葬儀にも出席し、いよいよ出棺前の最期のお別れとなる。

「親しくしていた子なんです」とリーダーがかけ合ってくれたので、私も遺族に混じってあの人の棺の中に花を入れた。白い百合を、目を閉じて動かない顔のそばに置く。


 そうして棺は車に乗せられ、遺族を乗せたマイクロバスと共に国道へと去っていった。

 私はあの人から家族に紹介されてはいなかったので、これ以上関わることができない。ぼろぼろと泣いているリーダーに「いろいろとありがとうございました」とお礼を言い、私は「大丈夫ですので」と一人で先に帰った。


 まだ夢の中にいるみたいだった。確かに自分の足で歩いているのに、言葉を発しているのに、他人のことのようだ。

 けれども、白い百合に埋もれたあの人の土気色の顔と、既読にならないLINEメッセージを思い出すと、あとからあとから涙があふれてきて、私は下宿に戻って扉に鍵をかけた途端、玄関で泣き崩れた。


 このまま身体のすべてが涙になって溶けてしまえばいい。そうすれば、あの人のところへ行ける――。


 泣き疲れて眠ってしまった私は、夢を見た。

 ううん、あれは夢じゃない。


 あの人が出てきたのだ。


「これからは形が違うけど、ずっと一緒にいるからね」と言って私の頬に触れた、その指先のぬくもりや質感をはっきりと思い出せる。


 目覚めてから、私は思った。

 一年たらずだったけれど、あの人とは毎日のようにいろんなことを語り合った。その精神的なつながりが、私たちの心が、死をも凌駕したのだ、と。


「……そこに、いるのね?」


 私は、あの人がいつも座っていたローテーブルのところにクッションを置き、コーヒーをていねいにドリップして、あの人専用のマグカップに入れた。テーブルに置くと、「ありがとう」というあの人の声が聞こえた気がした。


 あの人は存在している。まだお別れじゃない。

 

 そのことは私を絶望の淵から引き上げてくれた。あの人の気配をはっきりとは感じ取れないので、「いつも通り私の右側を歩いているはず」「学食の麻婆丼を食べたがっているはず」「図書館に行きたがっているはず」とあの人の行動パターンを思い出し、見えないその姿を克明に想像して現実に重ね合わせた。


 いつしか私は、あの人の姿をはっきりと視認できるようになった。幽霊のように透けていたりはせず、触った感覚も、抱きしめたときのぬくもりだってある。

 声だって、聞こえるだけじゃなく、会話までできるのだ。


 生きていたときと同じ、いやそれ以上に、あの人と一心同体でいられる。

 最初は、「他の人にそんなことを言えば、おかしくなったと思って心配するだろうな」と考えるだけの理性はあった。けれども、あの人がこれだけリアルに存在して、いつも近くにいるものだから、ついサークルの皆の前であの人に話しかけて、怪訝な目で見られるようになってしまった。


「他の人にも見えたらいいのに」

 そう愚痴を言いながら、私はサークルの集会場所へと向かう。

「二人だけの秘密って方が、燃えるでしょ」

 右隣を歩きながら、あの人がいたずらっぽく笑う。集会室のドアを開けようとしたとき、中の話し声が聞こえた。


「やっぱりあの子、病院か、大学のカウンセリングルームに連れて行った方がいいですよ。誰もいない空間に話しかけるの、最近じゃ隠しもしないし」

「恋人が死んじまったんだから、落ち込んだりおかしな言動をするのも無理はないって思ってたけど、さすがに心配だな」


 どうやら私のことらしい。死んだはずの人がずっとそばにいるなんて、確かに常識では考えられないだろう。あの人の言う通り、「二人だけの秘密」にしておけばよかった。

 そのとき、同期の一人がこんなことを言った。


「あれって、タルパってやつでしょ? ある人物を克明に想像して現実に重ね合わせていると、勝手に動いたりしゃべったりするようになる人工霊体」


 ドアの隙間からのぞくと、彼女はスマホの画面をみんなに見せていた。

「タルパが暴走して宿主の精神を乗っ取ることもあるって……ヤバくない?」


 このままだと、無理やり病院へ連れて行かれる。あの人との仲を引き裂かれてしまう。

 そう思った私は下宿へと逃げ帰り、すべての人との連絡を絶った。


 何日が過ぎただろう。

「僕さえいれば大丈夫だよ」とあの人にささやかれながら、私はベッドに横たわっていた。飲み物は摂取しているが、しばらく何も食べていない。身体に力が入らないから、冷蔵庫やトイレまで歩くだけでも三十分はかかってしまう。


 このまま私も霊体になってしまおう、死んでしまえば誰からも何も言われずにすむ。そう考えながらうとうとしていたとき、携帯のアラーム音が鳴った。

 枕元を手探りで探し、携帯電話を拾い上げる。通知欄に表示されたメッセージを見て、私は目を見張った。


 出会い記念日


 あの人が、私の携帯に入れさせた記念日だった。

 出会いと別れがはっきりしている関係は特別だからと、付き合い始めた日ではなく出会った日を登録させたあの人。


 そうだ、私たちの関係は特別だった。

 だから終わらせたくない、終わってはいけない。

 けれども――。


「出会いと別れが明確な関係は、特別なんだよ」


 ベッドの横に座るあの人とはまったく別のところから、あの人の声がした。


 目が覚めた気がした。


 私は起き上がった。ベッドから降りようとしたものの足に力が入らず、床に倒れ込んでしまう。そのまま這うようにして、私はキッチンを目指した。

 冷蔵庫にはほぼ何も入っていない。買い置きを入れてある箱を探ると、期限の切れたレトルトのおかゆがあった。確か、大学の備蓄品放出をもらってきたものだ。もはや切り口を手で破る力もないので、何度も何度も噛みちぎってようやくおかゆにたどり着く。それを食べると今度は、ココアの粉や砂糖を口に入れた。


 汚れた口を拭って我に返る。

 振り返ると、あの人はもういなかった。


 さっき鳴ったアラームは、「ちゃんとお別れしないと」というあの人のメッセージだったのかもしれない。


 私は立ち上がって、カーテンを開けた。まぶしい陽の光が差し込んでくる。


 出会いから別れまで一年足らずの、特別な関係。それが特別であり続けるためにも、私は生きていく。

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特別なひと 芦原瑞祥 @zuishou

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