ぼくの家の玄関

秋待諷月

ぼくの家の玄関

 玄関のドアを開けるなり、げんなりした。

 仕事に疲れて帰宅したぼくを出迎えたのは、人一人が立つのがやっとの窮屈な三和土たたきに脱ぎ散らかされた、大量の履き物たち。

 種類もサイズもばらばらで、大きなエナメルの革靴や、履き潰した泥だらけのスニーカー、昔ながらの便所サンダルに真っ赤なピンヒール、黒く光る新品の学生ローファー、さらには歩くと底がチュッチュと鳴るカラフルな幼児靴などが、ひしめき合うようにぎっしりと床を埋めているのである。

 いつもこうだ。シューズボックスなどという気の利いた物が存在しないこの玄関は、帰宅した時にはいつでもこんな状態で、家主たるぼくの靴を置く余地など半足分すら残されていないのだから嫌になる。

 仕方なく、真下に転がる格子柄のスリッポンとエメラルドグリーンのミュールを足蹴にして脇に寄せ、どうにかスペースを確保したぼくは、そこに草臥れた駱駝色のモンクストラップを押し込むように脱いでからフローリングへと上がった。

 そこでようやく顔を上げれば、二メートルにも満たない通路の先に見える室内扉の向こうからは、ドタドタ、パタパタとやかましい足音が漏れ聞こえている。

 この部屋は一階のため、階下に迷惑がかかる心配は無く、両隣と上階が空き部屋なのが目下は幸いだが、安アパートの防音機能に期待はできない。他の住人から大家を経由してクレームが寄せられないことを祈るばかりだ。

 とは言え、この惨状。これでも以前に比べれば、著しく改善されているのは間違いない。

 そもそも、この大量の履き物の主たちは、従前であれば玄関で靴を脱ぐことすらしていなかったのだから。

 僕は苛立ちながら廊下をのしのしと突き進み、室内扉を開け放ちながら。

「あのなぁ、靴は揃えて脱げって言っただろ」

 と、棘のある口調で言った。

 照明も点いていない部屋の中に向けて。 


 返事は無い。八畳の洋室はしんと静まり返り、冷え切っている。

 1Kで慎ましやかに暮らす、ぼくは単身者だ。同棲する彼女もいなければ、留守中に勝手に上がり込んでくるような家族親戚友人もいない。


 ぼくの家には、ぼくの他には誰も住んでいない。


 ただし、昼夜を問わず、大勢の人間が歩き回る音が聞こえる。

 さらに数日前までは、帰宅すると床と言わず壁と言わず天井と言わず、部屋中に靴跡のような黒い汚れがべったりと現れているという厄介な現象も起きていた。

 ゆえにぼくは、誰もいない室内に向けてきっぱりと伝えたのだ。「せめて玄関で靴を脱いでくれ」、と。

 翌日から、室内に靴跡が残されることは無くなった。

 その代わり、ぼくの家の玄関には、見知らぬ大量の履き物が溢れるようになったのだった。


 誰もいない室内の真ん中で嘆息するぼくの背後で、ペタペタと小さな音がする。

 子どもが裸足で歩き回るような音だった。






 Fin.

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ぼくの家の玄関 秋待諷月 @akimachi_f

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説