鎌鼬の結婚、新緑の別れ。

依月さかな

魔女の青年との出会い、兄たちとの別れ

 初めて会ったのは、新緑の季節。薄紫の山藤が咲き乱れる前の暖かな陽気が続いた日のことだった。

 山のふもとで足に怪我をした人間を拾った。持っていた薬を塗りたくっただけなのに、彼はやわらかい微笑みを浮かべ、「ありがとう」とお礼を言ってくれた。

 それが三重野みえの響生ひびきとの最初の出逢いだった。


 彼は普段都会に住んでいて、暑い季節と寒い季節、年に二回だけあたしたちが棲む山を訪れていたようだった。しかも普通の人間ではなくて、あやかしを見ることのできる特殊な人だったの。

 出会ってからも逢瀬を重ねた。会うたびに引き寄せられ、一緒に時間を過ごした。兄たちが止めるのを聞かず、あたしは何度自ら山を降りただろうか。


菖蒲あやめ、僕のお嫁さんになってくれませんか?」


 透明なグラスの奥、黒曜石みたいな瞳にまっすぐ見つめられる。柔らかそうな栗色の細い髪はさらさらと風に揺れていて。

 いつだってあたしは彼から目をそらせなくなる。


「……え?」


 胸のあたりがきゅんと締め付けられる。思わず両手で押さえたのにドキドキはおさまらなかった。


 正式なプロポーズを受けたのは人間の街ではなく、あたしにとって親しみのある山頂だった。

 突き抜けるような空と見渡す限りの美しい緑の一面。下には模型みたいに小さくなった人間たちの家。遠くには穏やかな青い海が見えた。

 愛してやまないその絶景の中、あたしは彼にプロポーズされたの。


「あたしが、響生ひびきのお嫁さんに……?」

「はい。生涯の伴侶となる女性はあなた以外に考えられないんです。ですからどうか、これからも僕と一緒に暮らしてはいただけませんか?」


 迷いがなかったと言えば嘘になる。

 人間と一緒になるということは、住み慣れた山や兄たちに別れを告げるということだもの。


 響生ひびきのことは大好きだし、愛してる。つがいになれたらと夢を見たことだって何度もある。

 よく考えて決断することもできたけど、あたしは迷いを捨てることにした。先のことは後で考えればいい。

 あたしの人生はあたしだけのものだもの。


「うん。あたし、響生ひびきのお嫁さんになりたい」


 誰よりも彼のそばにいたい。高鳴るこの胸が、心がそう言っている。

 後ろ髪が引かれる思いには知らないふりをして、あたしは響生ひびきの手を取ることにした。


 あたしの居場所はあたしが決めるわ。





 ☆ ★ ☆




「人間とつがいになるだって!?」


 声を荒らげたのはすぐ上の、二番目の兄だった。兄さんは新緑色の瞳だから、他の仲間からはよく「緑の」って呼ばれてる。


 あたしたち金毛の鎌鼬かまいたちは三人兄弟だ。一番目が人間を転ばせ、二番目が己の刃で傷つけ、三番目のあたしがその傷を直しかすり傷程度にする。時たま山里から下り、あたしたちはそうやって鎌鼬としての活動を続けてきた。

 緑の兄さんは二対の鎌を操る二番目だ。


 え? その呼び方変だって?

 人間からすればそうかもね。でもあたしたちあやかしは名前を呼ぶ習慣なんてない。呼称は誰かを識別する記号みたいなものだ。


「そうよ。あたしは響生ひびきと一緒になるって決めた。だから兄さん、あたしは兄さんたちと別れて山を降りるわ」

「だからって、そうか好きにしろって言えるワケねえだろ! だって、そいつは魔女なんだろ!? 同胞は次々に魔女どもに拉致られてるっていうのに、なんでそいつのつがいになるんだよっ!」


 緑の兄さんは先陣を切る立ち位置にいるせいか、喧嘩っ早くてすぐに頭に血が上る。

 反対されるのは分かりきっていた。だって兄さんってば、いっつも過保護なんだもの。


 原因は相手が人間っていうのもあるけれど、主な理由は響生ひびきが魔女という集団に所属しているせいだ。

 魔女は魔法という不思議な力を操る集団で、あたしたちあやかしとの共生をうたっている人間たちの集団だ。けれどあたしたちは知っている。あいつらは互いのことをよりよく知るためという名目であやかしたちを大きな施設に監禁しているのよ。


「たしかに響生ひびきは魔女だけど、あいつらとは違うわ。私利私欲のためにあやかしを利用したりはしないって言ってたもの!」

「そんなの口先だけかもしれねえだろ! つーか、あんなへらへらしたやつに大事な妹を任せておけるかよっ」


 だめだ、兄さんってば完全にあたしの話を聞く気がないわ。

 ずっと一緒にいたんだもの。最後くらい、笑顔で別れたかったのに。


 喉のあたりが重いかたまりでふさがったように、声が出なかった。どうしようもなく泣きたくなった。その時だった。


「いい加減にしないか、緑の」

「兄貴」

「兄さん」


 いつの間に戻ってきていたのだろう。寝ぐらにしていた洞穴の入り口に一番上の兄が立っていた。

 癖のある長い金色の髪を一つに結び、薄紅色の瞳をもつ兄さんは「べにの」と呼ばれることが多い。彼は人間を転ばせる役目を持つあたしたちの兄さんで、一家の大黒柱だ。物知りで誰よりも人間のことをよく知っていて、早とちりな緑の兄さんもべにの兄さんにだけは頭が上がらない。


「だって、紫のが魔女とつがいになるって言うんだぜ!?」


 緑の兄さんは早々に抗議した。

 ちなみに「紫の」はあたしのことだ。あたしは薄紫色の瞳だからそう呼ばれてるのよね。


 頼りになるべにの兄さんはあくまで冷静だった。

 ついと細める薄紅色の双眸は透明なガラス玉みたいでなにを考えているかわからない。

 怒ってはいないとは思うのだけど、やっぱり兄さんも反対するのかしら。


「知っている。三重野みえの響生ひびきから話は聞いた。紫のを貰い受けたいと」


 うそ、響生ひびきってばべにの兄さんといつの間に話していたの。


「緑の、響生ひびきはたしかに魔法をたくみに操る魔女だ。だがな、彼は他の魔女とは違う。我らとは同じ世界に住む隣人として対等でありたいらしい。ゆえにあやかしを付け狙う魔女の組織とは袂を分かったのだと言う。無論、嘘をついている可能性も高いが、我は彼を信じてみようと思う」

「兄さん!」


 唇を引き上げる兄さんが揺らいだ。目が熱くなって、今にも涙があふれてしまいそう。あわてて目をこする。

 響生ひびきがなにを兄さんに言ったのかわからないけど、べにの兄さんはあたしの結婚に反対しているわけじゃないっていうのはわかった。


 兄さんはゆっくりと歩いてくる。

 やわらかそうな金毛の太い尻尾がぱたりと揺れた。


「紫の、おまえはすぐにつがいになると返事をしたそうだな。もうおまえは自分で決めたのだろう?」


 うなずくと、兄さんは相好そうごうを崩した。

 髪の間から見える丸い耳が機嫌よさげに細かく動き、もう一度尻尾を左右に揺らした。


「我らには寿命がないとはいえ、生き方を決める権利はおまえ自身にある。好きにしなさい。我々はこれからも山にとどまるが、おまえのしあわせをずっと願っているよ」


 ついに涙腺が決壊した。泣きじゃくるあたしを兄さんは力強い腕で抱きしめてくれた。

 最後に、あたしはなんて言葉をかけて別れたんだっけ。


 細かいところは忘れちゃったけど、笑って山を降りたことだけはおぼえている。




 ☆ ★ ☆




 雲一つない快晴の空。白いジョウロを片手に、あたしの旦那は機嫌良さそうに花壇に水やりをしていた。

 どこにいたって彼の日課は変わらない。いろんな種類の花やハーブを育てて、薬を作っている。その薬は魔女の技術で作っているらしくて、あたしたちあやかしにも効くのだからすごい。


菖蒲あやめ、今日はれん譲葉ゆずりはがうちに来るから、早めに夕飯の支度をしましょうか」


 くるりと振り返り、響生ひびきは銀縁メガネの奥でにこりと笑った。


 れんというのは一番上のべにの兄さんのことで、譲葉ゆずりはは二番目の緑の兄さんのことだ。

 響生ひびきは結婚する前からあたしに「菖蒲あやめ」という名前をくれたのだけど、なんと兄二人にも名前を贈ってくれた。そのおかげで兄さんたちは問題なく人間の街に来ることができるし、その気になれば人間に化けて生活することだって可能になってる。現に譲葉ゆずりは兄さんはすっかり人間の街に慣れてきちゃって、今やげえむという遊びに夢中だ。


響生ひびき、夕飯はなにを作るの?」


 あたしは薬を作るのは得意なのだけど、料理は苦手だ。だからいつだって台所に立つのは響生ひびきになってしまう。簡単なものは覚えてきたけど、お客さんに出せる料理はまだまだ作れそうにない。

 響生ひびきはしばらく「うーん」と唸って考えていた。空になったジョウロを庭先の蛇口の近くに持って行ったあと、ようやくふわふわとした笑顔で答えてくれた。


「唐揚げにしましょうか。二人ともお肉大好きですからね」

「だってあたしたちイタチだもん」


 感動的な涙の別れはなんだったのかと思っちゃうくらい、今では二人とも頻繁に山へ降りてくる。それは人間たちの中に溶け込めるようになったのは名前をもらったからで、つまりは響生ひびきのおかげだ。元気な兄二人の顔を見られるのはすごく嬉しい。

 けれど、今も時々不思議に思う。


「ねえ、響生ひびき。どうして兄さんたちにまで名前を贈ったの?」


 あたしとつがいになるのなら、名前はあたしにだけ贈ればよかったんじゃないかな。

 そういう思考になっちゃうあたり、あたしはまだ人間にはなりきれていないらしい。

 その証拠に、響生ひびきは肩を震わせておかしそうにくすくすと笑い始めてしまった。


「僕にとって名前は必要だったんですよ。家族ですから」

「家族?」

れん譲葉ゆずりはも、菖蒲あやめの家族でしょう? なら、菖蒲あやめの夫になる僕にとって彼らは兄、つまり家族ですよ」


 いつだったかれん兄さんが言ってたっけ。響生ひびきはあたしたちあやかしと同じ世界に住む隣人として対等でありたいって。

 あの言葉って、本気だったんだわ。


「そっか! ねえ、響生ひびき。ブロッコリーもたくさん茹でてサラダ作ろうよ!」

「それはいいですね。でもなぜブロッコリーなんですか?」

譲葉ゆずりは兄さんが野菜嫌いだから」

「……嫌がらせはやめましょうよ。それに譲葉ゆずりはは出しても食べないと思いますよ?」


 苦笑いを浮かべる響生ひびきの腕に抱きつく。

 シミひとつない彼の白衣からはお日さまの匂いがした。

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鎌鼬の結婚、新緑の別れ。 依月さかな @kuala

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