僕がアトリエで出会った彼女のこと。
飯田太朗
あの頃僕はアトリエに通っていた。
父はとても教育熱心で、僕に二歳の頃から漢字を教えていたし、小学校に入る前には九九どころか二桁の掛け算まで理解するよう仕込んでいた。アトリエに通わせるのはそんな教育の一環だった。情操教育というやつだ。
当時僕は広島に住んでいて、広島県内で教室を運営しているアトリエぱおという美術教室に通っていた。鉛筆、パステル、水彩、アクリル、油彩、それぞれの絵を描くのはもちろん、立体造形、果ては陶芸に至るまで、様々なことを教えてくれる教室だった。何でも今はデジタル画も教えてくれるらしい。
僕はここで鉛筆画を習っていた。静物画で、瓶や葉っぱを描くのが好きだった。他にも色彩について勉強もしていて、色を混ぜて新しい色を作ったり、グラデーションをつけて遊んだり、そういうことをやっていた。
教室はとても楽しかった。何せ他の習い事と違って机に縛られることがない。教室の中は自由に動いてよかったし、時にはモデルになるものを探すために教室の外に出てもよかった。僕はこの自由を謳歌した。
落ち葉や枯れ枝を拾ってきてその絵を描くんだ。
そんな言い訳をしてはしょっちゅうサボっていた。親から無理矢理与えられた習い事を抜け出して感じる風の匂いは、とにかく最高だった。そして彼女は、そんな僕のお目付け役だった。
彼女、木村麻帆子さんは僕より後にアトリエぱおに入会した女の子だった。出会いは……もしかしたら彼女からしたら最悪だったかもしれない。
四年生になったばかりの春。
紙粘土で架空の生き物を作る、という課題があったのだが、それは男女のペアで行う課題で、入会した初日の木村さんは僕のパートナーだった。問題児の僕が入会したばかりの彼女のペアに選ばれた理由は僕には分からない。推測するに、僕はやんちゃではあったが縄張り意識が強かったので、その縄張り意識がもしかしたら先生からは「面倒見がいい」と捉えられていたのかもしれない。全く根拠はないのだが。
で、この課題はまず針金で骨格を作ってそこに紙粘土を肉付けしていく、という作業工程なのだが、この針金は各ペア自由な長さを取っていっていいという取り決めだった。僕と木村さんのペアは、なかなかアイディアが出なかったこともあってかなり後の方で針金を取りに行くことになってしまった。必然使える針金が短い。
そして僕たちの前に針金を取りに行ったペアは堀北くんと安藤さんというペアだった。とても意地悪な二人で、信じられないほど大量に針金を持っていって僕たちの取り分がないようにしていった。僕は激昂した。
「ふざけんなやおめえ!」
エリートだった父に抑圧されていたからか、当時の僕はヤンキー気質な一面があった。初めての環境で右も左も分からない木村さんの前で、僕は堀北くんととっつかみ合って喧嘩をした。彼女からしたら「何この不良」といったところか。
実際大人しい彼女はその騒ぎで完全に僕を怖がって、その後僕と課題の話をする時も怯えた表情で接してきた。僕はそんな彼女を針金で突いて遊んだ。彼女の脇腹を針金でちょいっとするとびくっと体を揺さぶるので面白くて何回かやった。すぐに飽きたけど。
話を聞いていると彼女は学校で学級委員長をしているいい子ちゃんのようだった。確かにそんな感じはあった。それから僕は彼女のことを「学級委員」とか「委員長ちゃん」とか呼ぶようになった。「学級委員ちゃんよぉ」なんてからかうと彼女は困った顔をした。
余談だが、彼女はいつも髪を二つ結びにしていた。ツインテール、と聞いて僕が想像する髪型とはちょっと違う、結ぶ場所が低い髪型だ。三つ編みにしていることもあった。僕が今でもそういう「おしとやかそうな」女の子に弱いのは間違いなく彼女の影響がある。
僕が住んでいた場所は一応県庁所在地の一区だったのだが、割と治安が悪いところで、中高生が問題を起こすなんてことはしょっちゅうだったし、男女を問わず露出狂がいて、ハサミを持ったじいさんがトラックに突撃するなんてこともある場所だった。
当然木村さんは親御さんに送り迎えをしてもらっている子だったのだが(僕はたくましく徒歩で通っていた)、ある日迎えの車を待っている彼女が傘を振り回す老人に絡まれているのを見た。
何と言うか、男子の本能だろうか。
俺のマホコに手を出すな! と思ってしまった。そしてそう思った時には僕は老人と木村さんの間に割って入って、「何じゃやお前!」と凶器を持ったじいさんに食ってかかった。
多分、柔道か何かの心得のあるじいさんだったのだろう。
僕はあっさり投げ飛ばされて背中から地面に着地した。衝撃で息が止まって死ぬかと思ったけど、じいさんはいきなり来たガキンチョを投げて清々したのか、何やら喚きながら帰っていった。
地面で呻く僕のところに彼女が駆け寄ってきた。
「大丈夫? 大丈夫?」
怖かったのか、何なのかは分からないけど、彼女はいつかみたいに困った顔をして、泣いていた。そして僕の中で、こう、何だろう、変な感情が生まれた。
俺が守った女の子だ。そんな感情だった。何だか彼女がたまらなく愛しくなった。なかなか勝手な感情だが、男子小学生なんて勝手な生き物だし恋なんて何がきっかけで落ちるか分からない。
さて、そんなことがあってから僕が教室をサボる理由がひとつできてしまった。
木村さんはいい子だったので、教室が始まる前、少し早くやって来て荷物を置くと、日課のように僕を探しに来るのだった。大抵教室の近くにある公園で、木の枝を振り回している僕を。
「教室が始まるよ。帰ろう」
そう、僕に手を差し出してくる。
手を繋ぐ。ほとんど幼児の面倒を見るみたいな感覚だったが、僕は嬉しかった。好きな子と手を繋ぐのは何歳でも嬉しいらしい。
そんなわけで僕のお目付け役になった彼女は、その後色々な課題で僕とペアになったり、他の子とペアになったりして(僕はヤキモチ妬いたものだ)、二年間、つまり小学六年生まで美術を学び続けた。
さすがに六年生にもなると僕は多少、落ち着いた。針金で彼女を突くなんてこともしなくなったし、サボって公園で木の枝を振り回すこともなくなった。
代わりに多少紳士になって、僕は作業が進まない彼女を心配して手伝ったり、勉強した色彩についての知識で彼女の創作を助けることもあった。もちろん逆もあった。彼女はレースのような、繊細で美しいものを描画するセンスがあって、僕は彼女の助言を受けてそういうものを作品に取り入れたりもした。多分、今の僕がふわふわしたりひらひらしたりしているレディース服が好きなのはその影響がある。
ある日、彼女と教室じゃないところで会うことになった。アルパークという商業施設があるのだが、そこに行きたいと彼女が言っていたので、じゃあ行こうと声をかけた。電車で二駅。小学生からすると大冒険だった。
初めて二人だけで行った休日の商業施設はすごい人混みで、はぐれそうだった。僕は彼女の手を取って前を進んだ。いつかとは逆だった。
帰りの夕暮れが綺麗だったのを覚えている。それは彼女が「綺麗」と言って空を見たから僕も「そうだね」と答えからで、僕はあの夕焼け空のグラデーションを色で作るにはどうしたらいいか、なんてことを考えた。
別れは突然だった。彼女の親が転勤で引っ越すことになったらしい。
アルパークに行った次の週の教室で、先生がいきなり「木村さんはお引越しをする関係で今日が最後です」と言った。信じられなかった。目の前で何かが崩れる、とはまさにこのことだった。
何で彼女がそのことを黙っていたのかは分からない。今でも分からない。親の転勤のことなんて事前に知らされているだろうし、僕と彼女は親しかったから言う機会なんていつでもあった。それこそアルパークで言ってくれてもよかったのだ。そしたらもっとあの時間を大切にしたのに。
その日の教室のことは何も覚えていない。本当に何もなくて、で、一時間の教室が終わった。彼女が「今までありがとうございました」と頭を下げて、それから、一瞬だけこっちを見た……気がする。彼女は静かに教室から出ていった。
僕は追いかけた。せめて最後に、彼女に何か……そう思って片付けもそこそこに教室を出た。「マホコ」。そう呼ぼうとした。でも声が出なかった。
何で声が出なかったのかは分からない。老人と戦う時は出た勇気が何故あの時出なかったのか、今でも全く分からないし、僕の人生の大きな後悔のひとつだ。
あの時の僕にできたことは、ゆっくりと遠くなっていく彼女の背中を、ただ見ていることだけだった。それから彼女は引っ越していった。どこに行ったのか、聞けずじまいで終わった。
以上が僕の初恋だ。その後すぐに僕も神奈川県に引っ越すことが決まって、広島とはすっかり縁遠くなってしまった。
実は当時の親友、横田くんとは今でもたまに連絡を取るが、木村さんは僕たちとは学校が違ったから、横田くんの繋がりで彼女が今どうしているかを知ることはできない。まぁ、多分、どこかで素敵な男性と知り合って、白いドレスで結婚式でもして、もうこの年だ、子供が一人か二人いて、優しいお母さんになっていることだろう。
彼女の写真はない。手紙もなければ、彼女をモデルにした絵さえない。
でも、僕の家にはある油絵がある。
バットとグローブとボールを描いた絵で、結構抽象的な絵というか、ぼやけた絵である。先生には褒められたけど。
その絵は、僕と彼女が人生で初めて油絵に挑んだ時の絵だ。隣に並んで一緒に、それぞれの好きなものを描いた絵。確か彼女はテディベアを描いていた。
彼女が今、その絵をどうしているか分からない。多分実家にあるのかもな。
でもその絵が、彼女と僕の、唯一の思い出なのである。
了
僕がアトリエで出会った彼女のこと。 飯田太朗 @taroIda
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