少女、海月と待つ

@neu09

少女、海月と待つ

どんよりと肩にのしかかるような暗い藍色の空だった。今でも酷い雨に見舞われそうなほど雨雲が立ち込めている。暗く、寒空の下。もう皆帰るべきなのだろう。

 それでもそんな日の浜辺、一人の少女は座り込んで遠い先を眺めている。何も呆けている訳ではあるまい。こんな日に、荒れゆく海の果てを覗くのには理由がいるのだ。

 少女は粗末なペンダントを両手で握り締めて突風に髪を靡かせた。ペンダントはサファイアに似せた擬石を使用したもので、それ自体に金銭的な価値は望めない。染み付いた残り香のように思い出だけが内に込められているだけである。

 約束のペンダント。嘗て少女の父が彼女に贈ったもので子供用の玩具の一つでしかない。だが少女はこれを大事にし、今でも肌身から離さずにいる。少女の父はこれに自身の航海の帰還を約束したが未だ果たされずばかりでいる。もう思い出の呪詛溜りでしかない。

 少女はこの浜で待つことしか出来なかった。非力か無知か、それとも幼さ故か。ずっと果されない約束の終わりを待っていた。彼女は弱いから一人で生きてゆくのは不可能なのだ。人が縋るのは何時だって過去である。だが過去にしか生きる意味を見いだせない人間は少なくはない。彼女もまた、そうした人間の一人だった。

 だが、孤独に待っている訳ではなかった。この浜には誰かたちの思い残しが霊となって甦るという。古いおとぎ話でしかないがそれでもこの浜には海月が空を泳いでいるのだ。何も旅人の戯言ではない。夢を見たにはあまりにも綺麗すぎる。それは現実だ。それでも信じないと言うのか?

 少女の隣には一つの海月が半分、幻のようにふわふわと佇んでいた。触れる触手は誰にも触れることもなく半透明で、半分青いばかりだ。もうずっとそれも独りだったのだろう、少女に共感するように近寄って行った。

 「あなたも一人なのね。わたしも、そうなの」

 少女は海月にそう話した。向こうが返事をしてくれる訳もあるまいに少女の口からは次々と言葉が漏れていた。

 「わたし、ずっとここでお父さんの帰りを待ってるの。もう、ずっと」

 少女は別に、返事は期待していないのだろう。ただ、寄り添ってもらいたいだけだった。もうずっと寒いまま、誰にも気に掛けてもらえなかったことに悲しみながら僅かでも温もりを懐かしみたかったのだ。だが相手は海月だ。些か相手を間違えてないだろうか。

 「あなたも此処で誰かを待ってるの?ふふ、それだったらわたしたち、同じね」 

 それでも構わんとばかりに少女は続けた。この子も此処で誰かを待っているのなら何を怪訝な態度を取る必要があるというのだ。同じ穴の貉ではないか。

 少女は笑みを浮かべていた。瘦せこけた頬は汚れて、もう腕も脚も白樺の枝のようでしかない。ずっと思い出が彼女をこの地に縛り続けている動かない証拠だ。きっとこのままでは彼女までも冷たくなってしまうだろう。

 海月はそれを知ってか少女の背後に寄ると幾つかの触手を伸ばして彼女を優しく抱擁した。悪天候の中の海月のその手は、だが暗月のように深く冷気を放ってこの世のものではないように思えた。ずっと冷たくて人の真似事ばかりしか出来ない。海月が、人の心など理解出来る筈もあるまいに。

 「あなた、ありがとうね。大丈夫よそんなに心配してくれなくて。わたし、あなたが居てくれるだけでとっても暖かいもの」

 少女はやんわりと笑顔を見せた。それはこの天気のせいか少し曇って見える。

 悪天候もその勢いを増して、風はさらに強く、海面には波紋が現れてどうやらにわか雨が降ってきたようだ。やがては豪雨になるだろう。もう少女に帰る気は微塵も無いのだろうが、このままでは彼女の身が危うくなることは必至だった。時が経つにつれ、少女の口数と笑顔は減っていき、寒さを訴えるように目をぎゅっと瞑って震えている。 

 海月は抱擁を強くする。もう簡単には離してはくれないだろう。暖かくもないが冷たくもない、不思議な感覚が少女を抱きしめていた。もうそれは、彼女にとって随分と懐かしい感触だ。

少しばかり擽ったい。

 「あなた……ありがとうね……」

 掠れた声で少女は言った。風と波の音にかき消されそうなその言葉が、果たして伝えるべき相手の海月に届いたのかは知らないが、どちらでも変わらのう。

 少女はぎゅっと藍色の触手の先端を握った。ほんの少しの熱を含んだそれは、だが力弱く故にすぐに手放してしまいそうだった。だから海月は触手をしっかり絡めた。それは簡単には離せそうにない。

 

やがてにわか雨が豪雨となって降り注いだ。

雨空を舞う海月たちは流星のように尾を引いていた。青白いその軌跡の流れは、まさに一夜の幻夢に過ぎないのだろうか。きっとこの雨を恐れていた彼らがこの夜を見ることは叶わないのだろう。人の目にはあまりにも眩しい。きっとそれを最後に盲目にしてしまうだろう。

ずっと海月は雨に打たれ続けていた。隣にはもう冷たくなってしまった彼女が力なく倒れている。細木が枯れてしまったように、冷えすぎてしまった。

絡めた手は、離れてしまっていた。

 いくつかの触手は何かを探して宙をさ迷っている。まだ何処かで繋ぎを待っている少女の手を探している。一人では、あまりにも可哀そうではないか。

 海月に僅かに芽生えたのは人の意思だったのだろう。残り火にすら満たない暖かみから芽吹いたそれは、だが破滅を呼んだ。あるべきでないものに生まれてしまった。           

 ふわふわのかさから滴る群青雫は涙のように美しかった。

 不思議なことだ。海月が涙を流す筈もないのに。

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