その対価は、あなたの●●●です

チャーハン

その対価は、あなたの〇〇〇です


 昭和五十年、十月頃。

 とある都内の居酒屋は、三十席中二十五席に客が座るほど盛況だった。


 ダイヤル式のブラウン管テレビに映される野球の試合映像を見て選手を鼓舞する者。

 ジョッキに入った泡が溢れかかっている黄金色のビールを口に運ぶ者。

 はたまた、ネクタイを額に巻き、顔を真っ赤にして談笑している者。


 これらに共通している者は、全員この雰囲気を楽しんでいるということだ。それもそのはず、この時代の居酒屋は今のような交流会という立場ではなく、会社員が交渉事をする際に利用されるような席として用いられていたのだ。


 いわゆる接待という物である。だからこそ、この場所に来る者達は性格が陽気かつコミュニケーションに長けた者が多いのである。

 

 そんな居酒屋で、一人の男はお冷を口に運びながら詰将棋問題を解いていた。

 二十代ぐらいの、カラス族と呼ばれる全身真っ黒な服装をした男。藍色のリュックサックを膝に乗せ、綺麗に背筋を伸ばしている。

 また、髪は何ヶ所か無造作に跳ねており、特に髪を整えていないことが見て取れる。


 男は、四人用の席に一人で座りながら黙々と問いを解き続けていた。速さとしては、一ページに約二十秒。相当早い部類である。そうして、五分ほどで二十問ほど解き終えた頃。男の前に、注文していた料理の皿が置かれる。


 それは、白色の洋皿に入った二十莢の枝豆だった。それぞれの莢に四粒ずつ豆が入っており、口の中に入れ嚙み潰した途端に瑞々しい甘さが広がるため男が気に入っている商品の一つである。

 男は静かに両手を合わせて「いただきます」と呟いてから一莢を右手で取り口に入れ噛み潰していった。いつもと変わらないおいしさに、男は笑みを浮かべながら詰将棋のページをめくる。


 反復した動きを繰り返し、枝豆を食べ終わった途端に「ご馳走様でした」と両手を合わせて言った後、右腕に付けていた腕時計を確認した。この時、時間は既に八時を回っていた。それは、約束の時間から三十分以上過ぎている事実を男に理解させる。


 多分、来ないだろう。男はこの時そのように判断した。

 男は、周りを確認した後に手の空いている二十代ほどの女中に声をかけ呼び寄せる。そして、「すみません、こちらのお金でお支払いとさせてください」と言ってから藍色のリュックをあさり、木綿布材質の財布を取り出した。

 そして、小銭がいくら入っているかを確認した後に、枝豆代三百円を手渡した。


 「ありがとうございました!!」

 

 女中は営業用の笑みを浮かべながら、男へ深々と頭を下げる。

 男はその顔を見ることなく、重々しく腰を上げてから店の出口扉を開き外へ出る。

 途端に、重々しい音が男の鼓膜を刺激した。


 この日は、天気予報とは全く真逆の天気だった。

 快晴とは全く違い、大粒の重い雫が大地へと降り注いでいる。


 平時の時に見るような光輝く星空は存在せず、ただただ暗い雲の集団が空を覆う。平時の時に見れば、悪い天候としか人は考えない。

 一時心を脅かす事が起きれば、人の心など一瞬で脆くなるのだ。


 男は、音を耳にした。聞きなれた場所を呟く声、聞きなれたサイレンの音。ぞろぞろと駆けていく人々。

 その場面を目の当たりにした途端、男は動くということしか脳に残らなかった。


 男は大粒の雫が降り注ぐ街を外灯照明の光を頼りにして駆け抜ける。

 何故、これほどまでに焦っているのか男自身も分かっていなかった。

 だが、ここで走らなくては全てを失ってしまうのではないかと言う予感があったのだ。


 男は濁った眼を細めながら、歯を食いしばって駆け抜ける。

 男は純粋だった。生まれてこの方二十年。ただ勉学に時間を当て続けていた。常に真っ当な人間を目指せと言われ続ける日々。

 そんな日々を過ごしていたからこそ、拠り所が欲しかった。悩みや不安を忘れて没頭出来る場所が欲しかった。


 だからこそ、男は目的の場所へ着いた途端に声が出なくなった。

 男の心を救ってくれた、将棋を指す場所。


 その場所は、深紅の炎に包まれていたのだから――


 *


 かつて、将棋界には賭け将棋によって生計を立てようとする真剣師がいた。

 その者達は、日の目を浴びるような将棋大会に姿を見せない。

 代わりに、自由に指せる道場や酒場賭場にて多額の金銭を賭けあい、日銭を稼いでいた。


 真っ当な職ではなく、周りからは忌み嫌われた者達。

 社会の枠から落ち続け、這い上がれなくなった者達。


 それでも、彼らはたった一つ残された将棋希望に託し、日々生きるために指し続ける。

 それは、己が力を示すため。

 それは、己が生きていた存在を歴史に刻むため。


 賭け将棋無我夢中に将棋を指す日々を送っていた。

 この集団の中には、将棋指しとして一流の実力を持ちプロに勝利する者達もいた。


 そんな彼らに対し、深い時代の奔流は荒く厳しかった。

 時代が流れるにつれ、賭け事への取り締まりは年々厳しくなったのである。

 この影響はとても深く、やがて賭け将棋を生業して生きてきた者達は昭和五十年ごろにほぼ消滅した。


 賭け将棋を生業とした者達は歴史の狭間に追いやられ消えるかと思われた。

 しかし、その知名度は消滅することなく今も残り続けている。



 時は現代――


 とある県の将棋道場の一室で、一人の老人が佇んでいた。

 年齢は八十歳後半で、痩せこけているように見える。

 白装束を纏い将棋盤の前に立つ老人は、静かに口を開いた。


「この年、八十八歳。もう長く生きてきたが、ずっと退屈じゃった。ワシの気持ちを滾らせる様な勝負を演じてくれた者がおらぬからの。さて、君はどんな将棋を見せてくれるかの。楽しみじゃ」


 老人は駒の用意をしながら、男の顔を眺める。

 一局二千万円という大金が動く勝負。勝利すれば賞金を手にし、敗北すればこの世から去ることとなる。果たしてどちらが勝ったのか。


 それはまだ、分からない。

 

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