八十八夜目の花火

銀色小鳩

八十八夜目の花火

 ねぇタカちゃん。旅行行こうよ。旅行。


 ものぐさばばあの和子が、何度も言ってくるようになった。旅行しようと何度誘ってもついてこなかったのに。

 ものぐさばばあ扱いは酷かもしれない。和子は膝が痛いのだ。旅行についてこられないのは、ものぐさの精神のほうじゃない、膝のほうだ。

 私たちがいわゆる「なんとかレス」になったのも、愛が尽きたとか、そういうことではなかった。八十八歳でも女は女。愛は尽きていない。ただ、体がついてこない。自分の体に鞭打つほどの性欲ももうない。

 頚椎にできた骨棘が私の神経を圧迫するようになってから、腕が痛い。痺れる……。これが愛の邪魔をするのだ。

 そういうのっぴきならない事情で、私たちは部屋の中でカキ氷を食べてはシルバー川柳に応募したり、クロスワードなんかをやりながら蝉の声を聞いたりするのが日常になったのだ。ちなみにカキ氷を作るのは和子の役目だ、私は古いキャラクターを模したカキ氷機をずっと回してはいられない。腕が痛い。


 夏はカキ氷を少なくなった歯で噛み砕き、秋は家の前に落ちるイチョウの葉を数え、冬はコタツで緑茶をすすり、春は暖かくなった風がカーテンを揺らすのを見つめて過ごす。

 若い頃火花が散るようだった私たちの日常は、歳を重ねるほどに穏やかになった。どんなに望んでも、自分も相手も簡単に変われない。それがわかってきたからかもしれない。


「膝が痛いから行きたくないんじゃなかったの?」

「米寿のお祝いに。行こうよ」


 他のお祝いをする機会がたくさんあったのに、なぜ米寿だけ祝うのか? そう聞くと、和子は言った。米寿はほら、私たちみたいなアベックが生き延びてる事を祝うのにちょうどいいのよ。書いてみなさいよ、八十八。スカートが二つ並んでいるみたいじゃないの。


 そう言って和子は笑ったが、もしかしたら自分たちの年齢から、いま無理にでも旅行しなければその機会が永遠になくなると感じていたのかもしれない。


 じゃあさ、八十八夜目に旅行しよう。


 私が言うと、和子は夏も近づく八十八夜、と歌いはじめた。


「いつよう。八十八夜って」

「立春から数えて八十八夜目だって。次は五月二日ですってよ」

「ゴールデンウィークは、たかちゃんいっつも仕事で、ろくに旅行できなかったものね。そうしましょうか、ゴールデンウィーク旅行」

「平日みたいね。五月二日」

「じゃあ、ちょうどいい。お仕事がある人はお仕事に行けばいいのよ」


 季節の移り変わりを何度も数えてきたが、一番大きな移り変わりは、和子が離婚した年の夏だっただろう。

 和子はぽろぽろと泣きながら私の部屋に転がりこみ、もう二度とご主人のもとには帰らなかった。新しい若い女と自分の子供たちが暮らす一軒家で、「母さんは出て行ってしまったんだ」、そう言われていたらしい。和子の息子は出ていった和子を恨んでいたが、娘のほうは同情的だった。時々顔をだしては、お父さんが悪いのよ、後妻じゃなくてあれは不倫じゃないの、と和子の為に怒った。一緒に暮らそうと和子を誘った。


 たぶん、どちらかが本当に体が動かなくなって、介護する力も失くしたとき、私たちは引き離される。

 和子が動けなくなったときに私はどうなるのかは、皆目見当もつかない。が、私が自立を失えば和子は娘夫婦のもとに行くか、老人ホームで過ごすことになるのだろう。どちらかが死ねば、別の墓に入ることになるだろう。その時私が動ける体であれば、ずっと一緒に暮らしてきた友人として葬儀には出席できるだろうが、臨終にまでは立ち会えないだろう。

 自分の枯れ木のような腕を眺めて、これが本当に木だったらよかったのにと思う。少しずつ動物としての体を失くして、いっそ植物として同じ庭に生え、そのまま静かに枯れていくことができれば、私はもっと穏やかになれる。




 ゴールデンウィークには花火駅伝がまた開催された。

 温泉に浸かりにきた私たちは、海辺で打ちあがる大輪の花火をぼんやりと眺めた。


「詰め込みすぎたわね」

「温泉と花火だけにしたのに、やっぱり体がついていかないね」


 もう疲れた、そう言う和子と宿に戻り、窓をあけてまだ冷たい風を首に当てる。窓から花火が見える。何度も何度も打ちあがる花火が。

 何度恋をしただろう。

 そのたびにその大輪の花は眩しく目を焼き、煙の匂いだけを残して夜に消えた。恋が種を残すための本能の光ならば、どこにもつながっていかない最後の花火はどんな音を立てるのだろう。

 私は和子の手を握り、いま打ちあがる花火をなんて美しいのだろうと見とれた。言葉にするのをもったいなく感じながら、それでも言葉にしていた。


「昔は、和子を綺麗だと思ってみてたけど」

「なに、いきなり」

「今は、和子と一緒に、綺麗なものを見られるのが嬉しい」


 何度心が破れそうで痛いと感じても、そう感じることのできる体がなければ、私はこんなに美しいものも経験できなかった。痛みを癒す音楽、景色、そんなものが体の中に染みわたり、いつかは私をばらばらにして溶かし去っていく。


 和子が静かになったので、死んだのではないかと思った。


 今彼女が逝けば、私が最後まで看取ったことになる。生き別れではなく正真正銘の死に別れだ。最後まで連れ添って離れなかった八十八夜目の花火を体の中心に抱き、私もいつか散っていける。

 今がまさに、もう一つの大きな季節の変わり目なのではないか。




 ――和子は八十八夜目に死にそびれた。八十八歳は末広がりでめでたく、意外としぶとかった。


「老人会のお散歩クラブに入ろうと思うよ」

「どうしたの? 急に生き返って。寝たか死んだかと思ったのに」

「たかちゃんは、一緒に死にたいんじゃなくて、一緒に生きたいと感じた、初めての人だから」


 和子の小指が、ゆびきりげんまんをするように私の小指をぎゅっと握った。


「だからこんなに長く生きられたんだ。膝のトレーニングするわね。旅行に何度でも行きましょうよ」

「健康になってくれるならそれが一番ね」


 和子の囁きが、五月の夜に溶けていく。私の心の声と重なっていく。


 あなたと、もっと花火が観たくなった。

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