八十八のお祝いに

惟風

八十八のお祝いに

 母が悪性腫瘍の手術で入院したと聞いたのは、五月の連休を過ぎてからのことだった。

 去年の秋に受けた健康診断で異常が見つかり、精密検査を勧められたものの「そのうち、そのうち」と言っている間に今年に入ってしまい、受診した時には予想よりもかなり進行してしまっていたらしい。

 今日明日にどうこうなる、ということではないが、あまり楽観視できないとのことだった。

 電話で伝えてくれた姉の声は少し震えていた。


「お母さん『心配かけたくないから』とか言ってギリギリまで何も教えてくれなくて! まだ七十二歳だよ。もしもの時……心の準備なんかできてない……」

「そんなの、私だって……お父さんは、どんな感じ?」

「すっかり気落ちしちゃってる。お母さんが退院してもしばらく安静にしとかなきゃだし、ご飯作りに通おうと思ってる」

 地元の同級生と結婚した姉は、実家近くに家を建て専業主婦をしている。

「そっか、ありがとう。取りあえず、週末にお見舞い行くよ」

 通話を終えると、私の足元でお絵描きをしていた里奈りなが顔を上げた。思わず抱き上げる。

 この子はまだ二歳だ。お祖母ちゃんとの思い出をまだまだ作ってあげたいのに。

 私の不安をよそに、娘はきゃっきゃと私にしがみついてきた。


 パートをしながらテキパキと家事をこなし、PTAの役員やボランティア活動まで取り組むパワフルな母だった。病気とは縁遠く、風邪をひいたところすら見たことがない。

 年相応に老いてきているとは言え、看取るのはまだまだ先だと勝手に思い込んでいた。

 古希のお祝いで皆で食事会をした時に「私が米寿になったら沖縄旅行に行きましょ。お父さんの時には北海道で。連れてってね」なんてカラカラと笑って、姉に「その前に喜寿があるでしょ」とツッコまれていたっけ。


 ざわついた気持ちを抱えたまま、週末を迎えた。

 手術を受けてまだ数日なので、短時間の面会だった。

 ベッドに横たわる母は思いの外小さく見え、別人のように頼りない。

 ぼんやりとこちらを見つめる瞳に、「早く元気になってよ」と声をかけるのがやっとだった。頭が真っ白になってしまい、その後どうやって帰宅したかも覚えていない。

 治療は病院に、生活は父と姉に。全てを誰かに任せて、私にできることは何なのか、思いつけずに過ごした。


 退院した母に会いに行けたのは、夏に差し掛かる頃だった。


「心配させちゃって悪かったわねえ」


 入院していた時よりもずっと表情豊かに、母は出迎えてくれた。痩せてはいるが顔色は少し良くなっている。

 実家には姉と二人の甥が先に来ていた。父と義兄は買い出しに行ったとのことだ。


「にぃに!」


 里奈が三歳上の翔馬しょうまにヨタヨタと駆け寄る。年の近い二人は兄妹のように仲が良い。手を繋いで早速おもちゃ箱を漁りに行った。夫がハイハイとそれに続く。


「まだ治療始まったばっかりだから。余命宣告されたわけじゃないし、頑張らなきゃね」


 ニコニコ笑う母は、通院での治療を受けているとのことだった。悪性腫瘍イコール手術というイメージしかなかったが、術後も定期的な通院が必要らしい。それで、もう悪化せずに治ってくれると良いのだが。


「おばあちゃん、今年も皆でお誕生会できるよね?」


 もう一人の甥の和馬かずまが、涙声で聞いた。小学生の彼は、祖母の病気がどういうものか何となくわかっているようだ。

 母と甥の和馬・翔馬、そして里奈は、偶然にも誕生月が同じ十一月だった。

 そのため毎年十一月の日曜日に、実家で合同誕生日会を開いていた。

 イタズラ盛りヤンチャ盛りの三人が遊ぶ様子を眺めながら、大人達でご馳走をつつく。

 子供達だけでなく、私達も楽しみにしているイベントだった。


「もちろんやるわよ! 今年はいつも以上に盛大にお祝いしちゃおうと思ってるから」


「ホント?」


 和馬がパッと目を輝かせる。


「え、でもお母さん……」


 医療についてよく知らないが、その頃はまだ体力が回復していない時期ではないだろうか。思わず私が声を出すと、母はこちらに向き直った。


「今年は、八十八歳のお祝いをします!」


 と力強く宣言した。よく通る声に、リビングの床でブロック遊びをしていた里奈と翔馬が振り返った。


「え?」


 姉も夫も、もちろん私も困惑している。


「まあまあ聞いて。私もこんな病気になっちゃって。正直、米寿まで生きてる自信なくなっちゃったのよね。だから、先に『皆で八十八歳誕生会』ってのをしようかなって」


 母はキョトンとしている私達を見回した。


「次の十一月で、和馬は八歳、翔馬は五歳。で、里奈ちゃんは二歳。私の七十三歳と合わせて、八十八歳!」


 子供達一人一人を指さして、最後に自分の顔を差すと、母は胸を張った。


「本当の八十八まで生きられるようにね、景気づけしたいの。か弱い病人なんだから、パワー分けてくれるでしょ?」


 決定事項のように話す母を見て、私と姉は顔を見合わせる。そして、二人同時に噴き出した。


「もう! そうやってまた勝手に決めちゃって!」


「お母さんらしいっちゃらしいけど!」


「僕はお義母さんに全面的に協力しますよー!」


 子供達の相手をしながら、調子の良い夫が声を張り上げる。


「ボクもー!」


 翔馬がブロックを持った両手をブンブン振った。里奈が歓声を上げる。

 和馬もスキップしながらそこに合流した。


 カチコチに固まっていた気持ちが、フッと軽くなるのを感じた。

 母は、諦めていない。

 なら、私もそれを支えるだけだ。

 治療は病院に任せて。

 生きる楽しみを、私達で作ってあげるんだ。

 今年も。

 絶対、来年も。

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八十八のお祝いに 惟風 @ifuw

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