セカンド
ハヤシダノリカズ
seconds
ゆっくりとドアが開き、一人の青年が入ってきた。少し、いぶかしげに。しかし、その恵まれた体躯もあってだろうか、力強ささえその身に纏わせて、その青年は入ってきた。
「こんにちはー。あのー、すみません。ここはどこですか?」
狭く薄暗い空間……羊皮紙で出来た表紙の厚い本や、リキュールの類だろうか様々な形の瓶が雑多に置かれた棚が壁となっている。ドアから入ってきた青年から見ると、左右にそれらの棚で構成された壁、正面にもその棚の壁があり、その前には一人誰かがいる。奥の棚の壁の前に一つの小柄な影が椅子に座っていて、その前には小さなテーブル、そしてテーブルの手前には小さな椅子がある。
「『ここはどこですか』と聞きながら誰かが入ってくるのは……、いつもの事だけど、おかしなものです。まぁ、その椅子におかけください。これも一つの縁ですから」
フードを被った小柄な影は、青年にそう促す。薄暗さと被ったフードのせいで顔はよく見えないが、声は女性のものだ。『俺より若いようでもあるし、俺の親くらいの年齢かも知れない。年齢不詳だな』と、青年は思いながら、促されるままにその小柄な影の向かいに座る。
小さなテーブルにはガラスの容器に入ったろうそくが一つゆらゆらと小さな明かりを灯している。『占い師、だろうか。色々と凝った演出だな』青年はろうそくの炎を見ながらそんな事を考えている。
「ここは、あなたにとっては夢の中。あなたの肉体は現在眠っています。だから、分からないままに、そこの扉を開けて、あなたはここに入ってきた」
そう、フードの女に言われて、青年は振り返り入ってきたドアを見る。
「はぁ。そうなんですか。夢、ですか」
青年はそう言いながら再びフードの女に向き直り、
「えーっと、これは、私の夢、と。夢の中でも私はこんなスーツ着てるんですかね?」
と、自分の装いを
「お仕事中のうたたね、あなたにとっての今はそんな時間なのかも知れません。それが故に、スーツ姿でいらっしゃったのかも知れませんね」
「っと、それは不味いんじゃ……。えーっと、オレ、今どこで寝てるんだ? ヤバくないですか?それ」
「どうぞ、ご心配なく。夢の中の時間は、現実の時間とはリンクしていないもので。あなたにとってのこの部屋の中での一時間は、現実のあなたの時間の一秒にも満たないものですから。お仕事で移動中の電車内でのうたたね、そうであるなら何もご心配することはありますまい」
「そうは言ってもなー。寝過ごしたりしたら、それはそれで良くはないし。起きた方がいいんじゃないですかね」
「真面目なあなたはしくじらないタイミングで、ちゃんと起きます。終電で降りる駅を寝過ごした経験があなたにないように」
「おっ、なんでご存じなんですか? 確かに私は酔いつぶれて寝てしまっても、降りる駅を寝過ごしてしまった事はないです。……流石は占い師さんですね。……あれ?自分の夢の中のキャラクターにこんな感想を言うのも変な話か」
フードの女の口元に小さく笑みが浮かぶ。
「私は占い師ではありませんし、あなたが夢の中で作り上げたキャラクターでもありませんよ」
「そうなんですか? 失礼しました。……、って事は……。ど、どういう事?」
混乱の為か、夢の中であるという妙な安心感からか、青年の口調と敬語のスタンスと一人称は定まらない。
「魔女、とでも言うのが一番分かりやすいのでしょうか。私はそのような者でして。あなたの夢に私がお邪魔しているような、私の領域にあなたが寝ている間に入ってきたような、そんな事です」
「へー。魔女」
青年はポカンと対面している女を見つめる。が、フードを被った女の顔はよく見えない。
「えぇ。私は魔女。といっても、大きな力を持っている訳ではありませんし、他人や社会に仇なす者という訳ではありません。ただ、人が紡ぎ、人が背負っている業……それを聞き集めて、それらの持つ力を昇華して成就させたいものがあるのです」
「聞き集めて、成就。はぁ」
青年は納得したようなしていないような返事をする。その様は『よく分からないけど、一秒に満たない夢の中の事だしな、所詮』といった風にも見える。
「それで、聞き集めたい事というのは何なのですか? また、成就したい事とは?」
そして、青年は魔女にそう問うた。声のトーンは熱のこもらない、時間つぶしの雑談といった調子で。
「成就したい事は申し上げられませんが、あなた様からお伺いしたく思いますのは」
一秒にも満たない夢であろうと興味を失いかけていた青年に魔女は言う。
「恋バナ、でございます」
「コイバナねぇ……、って、恋バナ!?」
『自分の夢の中とはいえ、洒落ているし凝っている内装だな。魔女の部屋っぽい。とてもそれらしい』などと青年はぼんやり辺りを見回していた。魔女との会話に飽きてきていたのだ。そんな折に魔女の空間に似つかわしくない言葉が出てきたものだから、青年は一度聞き流し、その言葉を咀嚼して、魔女の方に向き直った。
「コイバナって、あの、恋バナ?」
「さようでございます」
「私の恋愛体験を聞きたい、そういう事ですか?」
「そのとおりでございます」
「人の業の力がどうとか言ってませんでしたっけ?」
「えぇ」
「恋バナにそんな力があるのですか?」
「はい。とても」
青年はまじまじと魔女を見る。フードの影に隠れて表情はまるで読み取れない。相変わらず声からは年齢も分からないが、からかっている調子ではないと青年は判断した。
「恋バナに力ねぇ」
「男女の関係には人間らしい社会性や理性が存在しますし、また、同時に野性的な動物としての荒ぶった衝動や感情が渦巻くものでございます。これほどまでに力をもった人の話というのはそうそうございません」
「そういうものですか」
「そういうものです」
ろうそくの薄明りは黄色を基調として、このせまい空間を弱々しく照らしていたが、この時より少しだけ赤みが僅かに強まったように見える。
---
「フラれたんだけどさ。オレには惚れた女がいたんだ」
意を決して話し始めた青年の口調は恋バナモードになったようだ。一人称はオレになったし、敬語は失われた。
「大学時代に付き合い始めた彼女でさ。明るくて笑顔がめちゃめちゃカワイイ子だったんだよ」
「その彼女のお名前を聞いても?」
魔女は問う。
「あぁ。理恵子って言うんだ。リエ、とかリィーエとか呼んでたな」
青年は過去を懐かしんでいるのか、遠い目をしてそう言った。
「お付き合いに至ったきっかけはどのようなものでしたの?」
「入学して間もない頃の大講義室でさ。オレの座っていた席の後ろに彼女は座ったんだ。彼女とは基礎クラスが一緒だったから、『おっ?同じクラスのカワイイ子が後ろに座った!』って感じにテンションが上がってね。ノートを小さく破いてそこに『電話番号を教えてよ』と書いて講義中に彼女に渡したのがキッカケだった。『いつもこんな事してるの?』という小さな可愛い文字と一緒に彼女の電話番号が書かれたメモが、講義中に彼女から渡されて始まった恋だったよ」
いつの間にか微かに
「キスをした時の事は覚えておいでですか?」
「忘れるものか。オレにとってはファーストキスだったしな」
「どちらで?」
「デートして、日が落ちて暗くなった後の、川べりで、だよ」
「嬉しい……覚えていてくれたんだ」
「え?」
魔女はそのフードを脱いで青年を見上げる。テーブルの向こうに座ったまま。
「リエ?まさか、リエなのか」
「回りくどい事をしてゴメンね。どうしてもユーゴと会いたかったの。例え、それが夢の中でも」
リエは椅子から立ち上がり、テーブルのサイドを回ってユーゴに近づきながらそう言った。
「あぁ、リエ……。夢の中でも嬉しいよ。ユーゴ、と、そう呼ばれるのも懐かしい」
そう言いながらユーゴも立ち上がる。
ユーゴは自分の胸元程の高さにあるリエの頭を右手でやさしく撫で、フード付きのローブに身を包んでいるリエの身体を左手で力強く引き寄せた。
左手に伝わってくるその感触はリエがローブの下に何も着ていない事をユーゴに知らせた。ユーゴはリエの頬を撫でて、そして、唇を重ねる。
「覚えているかい?初めてのキスは歯と歯がぶつかるモノだった事を」
ユーゴはネクタイを弛めながら言う。
「うふふ。そんな事もあったわね」
リエは腰に回しているローブの紐を解きながら微笑む。ローブがはだけると、その下には何も着ていない。
ユーゴは懐かしいリエのその体臭に何もかもを忘れる程の勢いで没頭している。リエの身体に舌と指を這わせ、「あの時の事を覚えているか」と欲情と理性の間でリエに思い出を語りながらリエの身体にのめり込む。リエは肯定とも嬌声ともつかない声を上げてはユーゴの愛撫と思い出語りに応えている。
微笑ましいデートの思い出と、貪りあった愛欲のシチュエーションをユーゴは語りながらリエの身体を求め続けている。リエはそれに、嬌声とキスで反応する。
キャンプ場での一夜をユーゴが語れば、この狭い空間にはキャンプ場の蒸し暑さと虫の声が充満し、台風の夜に愛し合った事をユーゴが語れば、この空間は横殴りの雨と風に満たされた。机に突っ伏したリエの身体を後ろから腰で突けば、夜景を下に臨むホテルの窓が現れた。
この世界の一時間がユーゴの現実世界での一秒であるというのなら、それは確かに一分にも満たないうたかただが、無尽蔵のユーゴの精はとどまる事を知らなかった。
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「これで、よかったかしら?」
フードを被った魔女は淡々と話しかける。棚に囲まれた狭い空間。だが、埃が舞い、強い明かりの下でよく見れば安っぽいその空間はユーゴを篭絡したあの空間には違いなかったが、舞台の大道具のような嘘っぽさを携えている。そして、魔女はやはり奥の椅子に座っている。ただ、足を組んで身体は机に対して斜めに、リラックスしているのか、組んだ足は大きく前に伸ばしている。はだけたローブから覗いているその足は地味なスポーツウェアのズボンを穿いている。
「ありがとうございました……」
弱々しく礼を言うのは向かいに座っている女だ。ユーゴが座っていた椅子に現在座っているその女は化粧気もなく、着ている服はスーパーマーケットに溶け込む為にあるような特徴のないものだ。
「ま、ワタシは仕事中のアレを見られるのが好きじゃないんだけどね。なんでか、あなたみたいに見たがる人が多いんだよね。なんでかなー。割増料金になるのに」
飄々と魔女は言う。
「これで、旦那さん……、ユーゴさんの頭ん中から完全に消えたよ、理恵子さんの存在は。同窓会なんかで理恵子さんの話題を振られたら、ユーゴさんはそれを完全に忘れているから、【冷たいヤツ】という評価はうなぎのぼり間違いなしだけどね」
フードを被っていても強く照明が照らしている。フードの下のその顔は理恵子ではない。理恵子とは似ても似つかないその顔で、魔女はアフターケアのような説明をする。
「……ありがとうございました」
化粧気のないその女は再度そう言って頭を下げると、憔悴しきった顔で部屋を出ていった。
「人の恋とか愛憎の業の力って、確かに強烈に強くて色々と使い道があるけど、これの力の方がやっぱり強いよねー」
そう言いながら、魔女は女が置いて行った封筒の中の高額紙幣の枚数を数える。
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「次は大阪梅田、大阪梅田。終点です」
阪急電車の車内アナウンスで、ユーゴはハッと目覚めた。四人掛けのボックスシートにはユーゴしか座っていない。車内の人影はまばらだ。
乗り過ごしてなどいない。仕事中の移動の中のうたたねは体力回復の妙手だし、居眠りも、降りる駅もユーゴにとって何も問題のない状態だ。
しかし、焦った顔で股間に手をやったユーゴは冷や汗と共に考える。
『ここから一番近いトイレってどこだっけ?』と。
セカンド ハヤシダノリカズ @norikyo
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