第4話

前日に結構飲んだはずなのに、布団に入ったのは十二時過ぎだったのに、やはりというか、まだ暗いのに目覚めてしまった。胃のあたりが重苦しいのは、油物と酒が溜まってるからだろう。水でも飲むか。それとももう一度寝るか。スマートフォンで正確な時間を確かめようとする。


 すると見慣れないアドレスから二件、メールが入っていた。


 宮崎くんだ。時間は深夜二時。一応LINEのアカウントも教えておいたのにメールを送ってくるあたり、彼の生真面目な律儀さを感じる。連絡がほとんどLINEになっているので、メールボックスを開くというのは貴重な行為だ。


『宮崎です。今日はありがとうございました』


 メールを指でスクロールさせていく。彼と私は同学年なだけで、親しくはない。いきなりタメ語じゃないあたり、人として好感が持てる。


『最後に呼び止めた時、言おうかどうか迷ったので言わなかったんですが、メールでなら書けそうなので言おうと思います。』

 ……多少の焦ったさは感じるが。


『鮎川選手のファンであることは本当ですが、実は俺、高校の時にスケート部のマネージャーをやってました。自分は運動は全然ダメだけど、何かしらの形でスケートに関わっていたかったから。うちの高校も結構強いところだったので、大きい大会にも何度も行っています。だから俺はスケーターとしての鮎川さんを知っているんです。』

 マネージャーって、男でも大丈夫なんだ……て、これじゃ男女差別だ。いかんいかん。て、違う、そこじゃない。

 たしかに私は、高校スケート界じゃ強い選手だった。インターハイにも出場した。部活でスポーツをやっていた人間は、その地域やそのスポーツ界隈ではそれなりに有名になる。でもそれだけの一般人だ。……佳菜の予言が的中した。それも彼が知っているのは、雑誌という媒体を通してではなく、生身のスケーターとしての私だ。


『本当にかっこよかった。風みたいで、誰よりも滑っている姿勢が綺麗でした。だから、授業で鮎川さんを見たとき、少し複雑でした。あんなに速い人でもやめてしまうのかと』


 1件目のメールはそこで終わっていた。

 高校二年のインターハイ。種目は個人、500メートル。エッジの長いスラップスケート靴の紐をしっかりと縛って位置に着く。不思議なことに、スケートリンクには独特のにおいがある。鋼と氷が交じり合って生まれる独特のにおいは、滑るうちに自分の体に馴染んでいく。あのとき、走っていくうちに風の筋が見えていく錯覚に陥るのが最高に気持ちがよかった。鋭いブレードが絶対零度の氷に吸い付いていく。結果は二位。……自分でも最高のスケートが出来たと思った。


 そこで私はここまでだと思った。


 スケートは確かに好きだ。滑るのも見るのも。スピードスケートに出会わなければ、自分が風になる感覚も味わえなければ、目標に向かって自分を高めることの楽しさを知ることもなかった。

 周りの人は私がやめると言った時、相当騒いだ。高校のスケート部の監督は実業団からの誘いが来ている、もったいないと言った。佳菜は、滑っていない美咲が想像できない、と驚いた。母、お金のことなら気にしなくていいといってくれた。弟のことも気にするなとも。もちろん私がこれからもスピードを続けて、アスリートになる予定だったら、哲也のことも気にせずに実業団の誘いを受けていただろう。


 でも私はスケートが人生じゃない。


 中三の夏に、弟の壊れた顔と共に思い知らされた。氷がなくては生きていけない人間とは、彼のような人間を指すのだと。自分はどうだろうと考えると……それは違うような気がした。例えば中学に上がった時、スケート部がないとか、リンクが閉鎖されたと知ったら、残念だとは思うだろう。でもきっと私は、別のスポーツを始めるのだ。あんな風に絶望することなく。


 だから高校の二年間で全てを出し切ろうと決めた。出すところまで出して出し切って、晴れやかな気持ちで次の水槽に行きたかった。

 結果は上々。大満足だ。


『こんなことを書いてすみません。多分、あなたの滑りが好きだったからだと思います。でも、同じ学校に行って、授業を受けて、調理師免許の勉強もして、サークルの大会に出ている鮎川さんは、俺の知っている鮎川さんそのものでした。氷の上にいてもいなくても、あなたは何も変わらない。それを知れたのが嬉しかった。そして、もしかしたら俺と同じような気持ちだったのかもしれないとも、勝手に思っています。』


 引退を決めた後、今後の進路をどうするかは何も決めていなかった。高校に進学するときはスポーツ特待を狙っていたから、部活に専念して一定以上の成績を収めればよかった。だから、高校三年からは本当に白紙。未知の世界だった。ただ、漠然とスポーツに関わっていければいいなと思った。自分はスケートを通して生きてきたのだから、何かそれに返せるような。

 遅い受験勉強を始め……そこで知ったのが、アスリートにも適用できる管理栄養士の道だった。


『迷惑だと思ったら消してくれていいです。鮎川選手によろしくお伝え下さい。夜にすみません』


 二件目のメールを見て、メールボックスを閉じた。

 暗い天井を見つめながら、宮崎くんからのメールを反芻させる。


 初めて氷の上に乗った時、誰よりも速く走りたくて飛び出した。だれよりも速く、どこにでもいけるのだと本当に思っていた。

 あの時に戻れたらどんなにいいだろうと、今の私は全く思わないのだ。


 宮崎くん、君の予想は当たっているよ。私はスケートが好きで、スポーツが好きだ。だから、自分がアスリートになる道は選べなかった。スポーツの世界に長くいたいから、アスリートを支える存在になりたいんだよ。

 君と同じだ。


 私が何者か知った上で、私の決断を受け入れて理解してくれる人がいる。

 それは中々に嬉しいものだと満たされた気持ちになりながら、再び瞼を閉じた。


  *


「それって告白じゃない!」

「……はぁ?」


 メールから数日後、雪が小康状態になったので、佳菜と札幌駅付近まで遊びに出た。一通り服屋を流して北大を歩き、近くのドトールでお茶している。激甘に甘いミルフィーユを食べながら佳菜に宮崎くんのことを聞かれたので、これこれこういうことがあった、と話した。最初は面白そうに聞いていたが、どんどん顔が真剣になり、現在に至る。


「え、だってそうじゃん。氷の上にいてもいなくても変わらないって、あなたは変わらずに魅力的ですって言っているようなもんでしょ!」

「いやいやいやいや」


 ブラックコーヒーを片手に否定する。昔のことがあるからだ。きっと彼は、私のことを同志だと思っているだけだ。アスリートを支える仲間として。非常に健全だ。


「しかし宮崎くんかー。イケメンだけど堅苦しそうで、近寄りがたい雰囲気あったもんねー」

「だーかーらー!」


 これは亜美が騒ぐなぁと能天気に佳菜が笑う。……人の話を聞いてくれ。大体宮崎くんも、そういう目的で言った言葉ではなかろうと思う。思うのだが。万か一そうだったら……いや、考えるのはよしておこう。


「でもさー、なんかそうやって、理解されるっていいことだよね。私、美咲が辞めるって言った時冗談だとしか思ってなかったから。でも宮崎くんは受け入れてくれたんだよね。そういう人が一人でもいるって、いいことだよ。愛だよ、愛!」

「それ、話が飛躍してない?」

「してないよー? それを愛と言わずになんていうの」

「そういうものかな」


 佳菜の言うことも一理あるのだろうか。……一理あるのだろう。

 コーヒーを口に入れながら、佳菜の話に相槌を打ち……思い出すのは湿原で見かけたあの少女だ。今なら名前がわかる。スケーターの星崎雅。弟のリンクメイト。たまに釧路に帰ってくると、弟は彼女の話を結構する。滑り方が綺麗になってきた、とか。深夜練習に付き合った、とか。練習のときに持ってくるアルパカのティッシュカバーが微妙に可愛くない、とか。そんな些細なことだ。


 たまに、私は心配になる時がある。私は自分で引き際を決め、自分の意思で氷の世界に別れを告げられた。スケートは私の人生のほんの一部。輝かしい一場面。それだけで終われたのは、けして不幸ではない。幸福なことだと知っている。スケートを辞めた後の方が、人生は長いから。あれも一つの、自分にとっての大きな糧になったと思えればいいから。


 でも、全てのスケーター、アスリートが自分が望む引き際をあたえられることは、絶対にない。なんらかの事情で辞めなければならない人、不慮の怪我で続けられなくなった人も少なくはない。体力的な問題、精神的な問題もあるだろう。


 ……スケートに人生を捧げてしまった人は?


 自分の意思とは関係なく、氷から降りざるをえなくなってしまったら。あの子はどうなるのだろう。あの夏の日のように、もう一度壊れてはしまわないだろうか。また、死んだ魚のような後ろ姿になってしまうのではないか。


 勿論そうなることを望んではいない。でも、もしそうなってしまった時。

 ……隣にいて哲也の心を拾うのが彼女であってほしい、と私は思うのだ。


 弟のために流してくれた涙は、氷の粒よりも透き通って見えたから。

 そして弟も。彼女のことを話す哲也の声には、自分が本当に大事だと思う人間に対して向ける、絶妙な愛しさが混じっていたから。


 どうか折れることなく真っ直ぐにアスリートとして進んでいってほしい。

 私が願うのはそれだけだ。


「で、宮崎くんと付き合うの? 付き合わないの?」

「……ばか」


 彼の言葉は、弟にきちんと伝えるつもりだ。

 そして、ちゃんと弟に伝えたよと、宮崎くんの顔を見て教えてあげよう。ぬるくなったブラックコーヒーを味わいながら、密かに決めた。

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あるスケーターの姉 神山雪 @chiyokoraito

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