第3話

「姉さんの滑りは風だけど、俺は滑りの中で音になりたい。スケートを始めたきっかけは姉さんだけど、俺は別のものになりたい」


 私は目を丸くして、弟の言葉を聞いた。まさか、小学校二年生にそんなことを言われるとは思わなかった。それほどしっかりとした言葉だったのだ。


 姉の私からみて、弟は昔から少し変わった男の子だった。夢中になるものには夢中になって、中々その世界から戻ってこない面もあった。本人は覚えていないけど、小学校一年生の夏休み中、タンチョウを追いかけて釧路湿原の中で行方不明になったこともある。しっかりしているところはしっかりしているけど、少しロマンチストな面もあるように思う。それでいて意志が強い。私にひっついてスピードスケートを始めた、と思ったら一年でフィギュアに移り本格的に練習を始めた。朝は六時から練習し、八時にきりあげて学校に行く。放課後は五時から七時まで再び練習するような、そんな日々を続けていた。遊びたい盛りの小学生にはつらいものがあると思う。


 普通の子供だったら、上手くいかなかったり練習が厳しかったりすると、ぐずったり泣き出したりするだろう。もういかない、辞める、と言うこともあるかもしれない。弟にはそういうところが、全くなかった。辛かったら辛いと言っていいんだよと母が言っても、無理しない風に、大丈夫だよと答えていた。


 私は哲也が泣く姿を見たことがなかった。小学校の2年間だけ同じ校舎の中にいたけれど、学校では友達が少ない、またそれでも全然大丈夫な大しい子どもだったようだ。学校が嫌いなのではなく、学校は本来いる水槽の中ではなく、自分のいるべき水槽は別の場所にちゃんとある、と感じているからこその大人しさだったのだろう。学校でいやなことがあったとか、いじめられた、という話も聞いたことがなかった。


 この弟は、どういう時に傷ついて、どういう時に泣くのだろう。

 泣かない子ども。異常に意志の強い、少し別のものを見ている子ども。

 私は哲也が、我が弟ながら周りの男子と違うものを持っている気がした。




 ……あれは私が中学三年生の六月だった。

 全小で優勝を飾ったあと、中学に入っても私は当たり前のようにスケート部に入部した。スケートの強豪校だったこともあり厳しく練習を重ねていたので、部活動の禁止された月曜日を除き、朝は朝練で早く登校し、放課後は夜遅くまで練習していた。

「どうしたの、哲也。今日、練習は?」

 そんな六月のある月曜日、学校から帰ってくると弟が部屋にいた。弟はほぼ毎日練習していたので、月曜日の夕方に家にいること自体、珍しいことだった。机に向かって、宿題らしきものに片付けている哲也に声をかける。


「ない」

「ないって、どういうことなの」


 宿題は殆ど終わっていたようで、哲也はノートを閉じるとランドセルの中にしまい込んだ。そして、私の質問には答えずに、散歩してくる、と言って家から出て行った。散歩って、おじいさんの趣味じゃないんだから、と呟いたら、母に肩を叩かれた。癖のない黒髪に、シャープなラインの顔立ち。私たち姉弟に共通する要素を持つ母の、同じ色の瞳に、哀れみの意味合いが強くなる。


「実は、昨日が最後の日だったの」


 それは初めて聞かされる話だった。釧路にはフィギュアスケートのクラブが、哲也が通っている釧路クリスタルセンターにしか存在しない。その釧路クリスタルセンターの閉鎖が決定され、昨日が最後の練習の日だったと。数日後にはもう取り壊しが始まるらしい。原因はスケートリンクそのものの経営不振だったみたいだ。……私たち姉弟はすれ違いの生活をしていたし、私は私で部活に夢中だったから、全然知らなかった。


 私は何度か、哲也が練習している様を見学したことがあった。大人しいと通知表に書かれるような弟はそこには存在しなかった。指導者と思しき若い男性と、時に哲也が厳しい顔で食いつき、時にはぎらついた瞳で頷きながら練習する姿は、楽しくてしかたがない、と何も言わずに私に語りかけていた。そうか、哲也もあんな風に突っ込んだり、怒ったり笑ったりするのか、と今更ながら驚いたものだ。


「これで良かったのかしら。あの子、辛いとも嫌だともなんとも言わないんだもの」


 私は哲也の、夢中になれる力をそのまま個性だと受け取っていたが、母は少し違っていた。母親としては、朝から夜まで、週の大半をスケートに費やすような日々ではなく、普通の、子どもらしい生活を送って欲しかったのかもしれない。習い事もいいけれど、生活が変わるほどやらなくていい。それよりも、学校で普通に友達を作って、勉強をして、遊んでいてほしかったのだろう。


 それから二ヶ月間、弟はスケートのない生活を送った。朝起きて学校に行き、学校から帰ってきたら宿題をする。弟は成績が悪くない。与えられた宿題程度なら、一時間かからずすぐに終わってしまう。夜の七時に夕飯を食べ、十時に寝る。気持ちの悪いほど規則正しい生活だ。たまにどこかにふらっと消えるが、母は友達と遊んでいるのだろうと思っていたらしい。……その割には、学校での話を聞かなかったが。


 リンクが閉鎖されると聞いた時、他の仲間はそろって辞めたくない、続けたいと泣いたらしい。でも、哲也は普段と何も変わらない顔で、あっけない幕切れを聞いた。あまりにも変わらない弟に、逆に私たちが困惑してしまった。心配する母を、父はただ見守ってやれとだけ言ったみたいだった。

 母は、最初は好きなことを急に辞めることになり、これでよかったのだろうかと心配もしていた。しかし母は私より楽観的だった。弟は、辞める前も辞める時も辞めた後も何も変わらなかったから、きっとこれでよかったのだと思ったようだった。


 一度だけ、スケートクラブの発表会で弟の滑りを見たことがある。普段は話だけで何も知らない父と共に、客席から見ることにしたのだ。

 練習の時は、練習という身に付けるために行うものを楽しんでいる顔は、普段の彼の延長線上のものだった。だから、驚きはしたけど、ああ、あれも弟の一面なのと理解はできた。


 氷の上にたった一人で立った哲也は、練習の時のそれとはまた違った衝撃だった。こちらが衝撃だったというべきかもしれない。技術的には、まだ拙いことは分かる。あれは本当に弟なのだろうか。四つも年下の可愛いはずの弟。そんな哲也が、全く別の、人とは違うものになっていた。人のかたちを持った何か。少し哀しげな音と一体化しているような。


 これでいいのだろうか。このまま、本当に哲也はやめてしまってもいいのだろうか。


 そうしているうちに七月になり、夏が訪れたと思ったら夏休みがやってきた。私はスケートよりも、受験勉強に割く時間が増えていった時期だ。スポーツ特待を狙いつつ、予備校にも通い始めた。

 八月の晴天の日。タンチョウの鳴き声を聴きながら、予備校に行くために自転車を走らせる。通っていた小学校、母がパートに出ている信金、ザンギの専門店を横に流していく。元釧路クリスタルセンターもそのまま通り過ぎるつもりだった。見慣れた背中を見つけるまでは。


 私は自転車を止め、哲也に気づかれないよう彼の様子を伺った。丁度弟の顔をよく見え、さらに弟からは見つからないような場所に自動販売機があったので、その影に身を潜める。


 建物そのものは取り壊されている。鉄の残骸は跡形もなく消えた中、弟はじっと地を見つめている。見つめたところで、タンチョウが羽をやすめている。タンチョウは畑にもやってくるけれど湿地を好む。弟が見ているのは……かつて氷だったもの。タンチョウは湿地と間違えているのだろうか。遠目から見ても顔が白い。細い肩はいつも以上に頼りがなかった。奇妙なほど無表情だった。彼のこういう顔はみおぼえがない。


 水槽から放り出されて亡くなった魚みたいだった。


 ばさばさとタンチョウが音を上げて飛び去っていく。音に反応して、弟が顔をあげる。私も顔をあげる。私は弟を注視していたから、近くにいる別の存在に全く気がつかなかった。

 飛び去ったタンチョウの向こう側にいたのは、小さい女の子だ。


 哲也は面識があるようだが、私にとって、全く見覚えのない少女だった。哲也は、なんでここにいるんだろう、とぼんやりとした面持ちで見つめている。少し小柄で目が大きな女の子。弟より少し年下かもしれない。ポニーテールにした黒髪の毛先が、肩のあたりで跳ねている。彼女は弟の顔を見て、途端に静かに泣き出した。痛ましい泣き方だった。慌てて哲也が慰めようとする。何故泣いているのか、弟にもわからないのだ。泣くなって。おい。どうしたんだよ。女の子はぼたぼたと地面に涙を落としながら、こう答えた。


「そんな顔しているのに、泣かないから」

 だから悲しくて仕方がなくなったのだと、彼女は続けた。


 ……その時の哲也の顔は一生忘れられないだろう。少し瞳を見開いて、ようやくそれに気がついたと言うような。自分でも知らない感情を暴かれて驚いているような。そんな、少し壊れた、傷ついた顔をしていた。


 唐突に私は理解した。

 哲也は、泣かなかったんじゃない。平気なふりをしていたわけでもない。喪失した衝撃が深すぎて、自分が傷ついていたことさえわからなかった。だから、泣けなかったんだ。それに私はおろか母も、誰も気がつけなかった。


 私は何も見なかったふりして、静かにその場を去った。それが、あの二人のためだろう。傷ついても泣けなかった弟と、弟の痛ましさを感じ取ってくれたあの子のためだ。


 哲也が、あの子とどこで知り合ったのか私は知らない。フィギュアを通しての仲間なのか、それとも全く違うのか。どの程度の知り合いなのかはわからない。しかし、少なくとも、私よりも近しい位置にいて、彼の心を的確に推し量れるほど大事にしてくれているのだろう。

 夕方、予備校から帰ってくると、家には誰もいなかった。父は仕事だ。だが母は、今日はパートタイムの日ではないはずだ。哲也も帰ってきていない。中学のジャージから私服に着替え、居間でぼんやり単語帳を見ていると、にわかに外が騒がしくなる。ドアを閉めた時の重量感に乏しい音は、母のラパンだ。複数の人間の話し声。軽薄そうな男の声と、声変わり前の弟の声。


「あら美咲、帰っていたの。今、お客さんが来たの。お父さんももうじきかえってくるし、詳しく話をしないといけないから、ちょっといいかしら?」


 その話はきっと、弟の将来を決める話合いになるのだろう。そんな予感がした。


 次の春。私は高校の制服になり、念願のスポーツ特待生として入学した。弟は横浜に行き、師事している指導者の家に下宿をしている。

 研鑽を重ね続けた彼は今期、ついに世界選手権の代表権を手に入れた。

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