笑わない彼女

サトウ・レン

笑わない彼女

 とても失礼な話なのだが、バラエティ番組を観るのが好きだ、と聞いた時、あまりにも意外で、思わず聞き返した覚えがある。


「それ、本当の話?」


 あれは、俺たちがまだ、高校生だった頃の話だ。


 本人の口から聞いたわけではない。一年生の時、同じクラスになった女子生徒について、クラスメートの誰かが言っていたのだ。その話を聞きながら、俺はすこし離れた窓際の席に座る彼女を、ちらりと見たのを覚えている。その話題の主こそ、彼女だった。


 彼女が笑った顔を、俺は一度も見たことがない。


 そんなわけはない、と思うが、人生でたったの一回も笑ったことがないのでは、と心配になるほど、彼女は笑わない。感情との付き合い方なんて、ひとそれぞれだ。無理に笑う必要はないだろうし、笑いたくない誰かを無理やり笑わせようとする趣味は、俺にはない。


 でも俺は、彼女に笑って欲しかった。


 たとえば彼女の近くで男子数人と馬鹿話をしている時に、俺の発言でみんなが笑ってくれた時なんかは、どんな表情をしているんだろう、とよく彼女の顔を確認していた。いま思い返すと、恥ずかしい話なのだが、反応が気になって仕方なかったのだ。無表情を変えない彼女を見て、何度、がっかりしただろうか。


 彼女に好きな芸人がいる、と知ったのも、他のひとの口を通して、だった。


 漫才師で、よくバラエティ番組の司会もしている話芸の達者な芸人さんだ。それを聞いてから、俺はその芸人さんが出ているテレビや動画を探し回るようになった。


 端正な顔立ちの彼が楽しそうに話す姿を見ながら、このひとの楽しげな言葉に、彼女が笑っている顔を想像して、胸が、ちくり、と痛み、無性に悔しくなった。その痛みや悔しさの理由を、あの頃の俺は自覚していなかった。もし気付いていたら、俺の未来はまた違うものになっていたかもしれない。


 俺はむかしから漫才やコントが大好きだったわけではない。だからきっかけを探すと、この時期、彼女を笑わせたい、と思って、漫才やコント、バラエティ番組に、どっぷりとつかっていた日々になる。結局高校三年間を通して、同じクラスだったのに、彼女は俺の前で一度も笑ってくれなかったが。


 こういう表現をすると、勘違いされそうだが、決して彼女は冷たい人間ではない。無表情だが、穏やかで、優しい。彼女とすこし話せば、その人柄はすぐに分かる。だから、本来はこのままでじゅうぶんなのだ。笑って欲しい、というのは、ただの俺のわがままだ。


 彼女とは、大学も一緒だった。地元の大学で、彼女と同じ大学を狙ったわけではなく、本当に偶然だ。俺は大学のお笑いサークルに入った。この選択に関して、彼女は関係がない。きっかけは彼女の笑顔を見たい、という、不純なのか純粋なのか、いまいち分からないものだったが、気付けば、彼女を抜きにしても、お笑い、に関するあらゆることが好きになっていた。ただ人前に出て、自分が舞台に、というのはいまいち実感が薄く、裏方を志望していたのだが、人員の問題もあり、俺は演者になっていた。


 大学になってからも彼女との縁は続いていた。彼女は容姿も性格も良いので、男子からの人気もあり、キャンパス内で、金髪のしゃれた感じのイケメンと一緒に歩いているのを見た時には、何の用もないのに話しかけてしまったこともある。後日、彼氏かどうか聞くと、違うよ、友達、と答えが返ってきて、彼女の本音は分からないが、ほっとしたのを覚えている。


 たぶん俺はこの頃には、自分の気持ちを自覚していたが、ただその想いを外に向けて放つことはできずにいた。


 恋愛のことはどうもむかしから、苦手なのだ。そもそも彼女以外の女性とは、うまく話すこともできなかった。


 彼女は何度か、俺の出るちょっとした舞台を観に来てくれたし、仲は良かった、と思う。それでも不安だったのは、俺が、俺自身に対して、ずっと自信がなかったからだ。いつか彼女の笑顔を見たら伝えよう、と、心のどこかで、自分の問題を、彼女の問題にしていたのかもしれない。


 大学卒業後、俺はお笑い芸人になった。


 最初は東京にある大手の芸能事務所の養成所に入り、有名人、とまではいかないものの、大きな舞台を踏んだことも何度かあった。テレビ越しにしか見たことのなかったタレントと話したり、出待ちの女の子がいたり、と貴重な体験を得ることもあった。


 周りには認知されていくことで、明らかに天狗になっていく者もいた。


 だけど俺はそんなふうに有頂天にはなれず、向いていないなぁ、と悩み続ける毎日だった。変わらず、女性と話すのは苦手なまま、出待ちの女の子への接し方も素っ気なかった、と思う。意識して冷たくしようとしたわけではなく、オンとオフを切り替えると、途端にどう話せばいいのか分からなくなるのだ。SNSに、ファンに冷たい芸人、と書かれたことも何度かあった。


 俺は最初の事務所の辞め、地元のちいさな芸能事務所に入った。


 たまにイベント事に参加する、ローカルタレントだ。もちろんそれ一本で食べてはいけないので、平日の昼間は営業の仕事をして、夜や土日を使って、芸能の仕事をする、という感じだ。


 彼女と再会したのは、

 ショッピングモールでのお笑いライブのМCをしていた時だ。観客の中に、その姿を見つけた時、俺は思わず、あっ、という声が出そうになった。彼女は無表情のまま、だけど優しげな雰囲気のかいま見える顔で、会場にいる俺を見ていた。


 俺は不特定多数のひとを笑わせてきた。いままで顔も知らなかった相手が笑顔になっていくのも、得難い体験だ。


 だけど俺は、慌ただしい、いまに翻弄されて、一番見たかった笑顔のことを忘れていたのかもしれない。


 その日から、俺は彼女と連絡を取り合うようになった。告白するまでに、一か月も掛からなかった。彼女は、笑うことも、泣くこともなく、ただ一言、遅いよ、と告げた。


 好きだ。


 本当に……、たった三文字のために、何年掛けてるんだよ、遅すぎるよ、俺は。


 俺たちは一緒に暮らしはじめた。日々の暮らしの中で、ときおり、俺は彼女を笑わせようと、他愛もない冗談を言ってみるが、当然、彼女は笑ってくれない。それどころか、さすがお笑い好き。場合によっては、駄目出しをされる。


 一年が経ち、

 そしていまにいたる。


「結婚しよう」

 と、俺は彼女に伝えた。想像の中では、もっとよどみなく言えていたのだが、俺の声は、思いのほか、震えていた。


「嬉しい」

 彼女は、泣いている。そう言えば、泣いている表情も、はじめて見た。でも嬉しいのなら、笑って欲しい。


 俺は、素直な気持ちを告げる。


「泣かないで。笑ってよ」


「笑って、ってはじめて言ったね。じゃあ笑う。これからもよろしくね」

 と、彼女が俺に、ほほ笑んだ。

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